無印


人外協−その発足、発展の過程

阪本[隊長]雅哉

発端

 最初に谷甲州が面白いと思ったのはいまから7〜8年も前になるだろうか.本屋で偶然手にした「CB−8越冬隊」、それから「エリヌス−戒厳令−」、「星空のフロンティア」を読めるまでどれだけかかったか.時折SFMに掲載される短編が楽しみだった.
 SFファンでも谷甲州の名前を知らない奴がいた. 
 いまは専業作家となり矢継ぎ早に発表される作品,谷甲州を知らないなどといえば袋叩きにあうだろう.いい時代になったものである。

口は厄の元もしくは... :-):-)

 1987年の12月のある日、某所に於て現隊長が「谷甲州のファンクラブがない.」などと口走ったのを発端として人外協は産まれた.
翌年3月にはFC結成準備会と称して毎週のように宴会がおこなわれ会の名称や、会誌について話し合われた.ただFCがなにをするかは話されなかった.(もしかすると自明なのかもしれない?)

1988年4月

 谷甲州黙認FC「青年人外協力隊(略称 人外協)」結成.
 隊員の募集を始める. しかし、主催者の予想もしなかった(じつは予想できなかったのがおかしい)ことに、最初の入隊申し込は東京からであった、そしてそれ以降も北海道、東京など地方隊員の入隊はあったが関西では自主的に参加しようとするものはあまりいなかった.
 隊員募集が重要課題となっていたが、それは地方イベントのたびに宴会のどさくさにまぎれて隊員を増やす方式が定着してから、解決してしまった. :-)

またまた、口は厄の元

 1989年2月25、26日(大喪の礼の翌日)には谷甲州デビュー十周年を祝う名目で「春季甲州祭」を行なう.宴会の席上の不用意な一言と酔った勢いとが重なった、まさに人外協らしい発端だった。
 さらに「春期甲州祭」エンディングで実行委員長が、夏は「夏期甲州 in DAINA☆CON EX」などと口走った.
 季節を彩る甲州祭.もう二度とこんなしんどいことはやらんぞー :- ただ、「春季甲州祭」は人外協は協力であり主催ではないことに(いちおうは)なっている.

支部独立と思惑は外れるためにある

 毎月中部地方から大阪にやってくる隊員がいる。またすでに東京では地方宴会がおこなわれていたため、名古屋でも例会(宴会)をおこなうことにする。
 だが何を思ったか名古屋地方は独立を宣言してしまった.
 名古屋に続き大阪、東京そして史上最強の北部方面支部、と複数の隊員と宴会本能を有する地ではつぎつぎに支部を独立させた。
 しかし、名古屋で定期的に例会(宴会)がおこなわれると、大阪から名古屋へ名古屋から大阪へと人員の移動が月二回おこなわれるようになったため、負担は増えこそすれ一向に減らなかった.
 なにせ大阪支部が本部とは別に例会(宴会)を催すしまつ(こいつら他に楽しみないんかホンマに)
 いまや人外協の隊員数は3桁にせまろうとし、全国規模から国際的へと( :-))なろうとしている.
 だかいまだに分らないことがひとつある。
 ”ファンクラブっていったい何をするもんなんでしょう”


目次(もしくは概要)


こうしゅうえいせい

谷甲州黙認FC
青年人外協力隊年会誌
発行日: 甲州暦10年8月19日
発行者: 人外協隊長 阪本雅哉
発行所: 谷甲州黙認FC
青年人外協力隊
編集者: 岩瀬史明




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