とお〜いはなし
-距離の不経済-

森村[主計官]安徳

 最近の経済史学のなかで、世界システム論という考え方がある。世界経済はそれそれの地域独自の発達ではなく、互いに影響を及ぼしあって、一部地域を中核としながら階層的な構造をもつシステムとして進化していくというものである。この考え方はかなり評判となっているので、ご在じの方も多いだろう。
 根っからの閑人である筆者は「世界システム論」を太陽系規模にまで拡けたらとうなるだろうと考えていた。(要は創作のアイデアであった)ところが既に太陽系経済の話を書いている人がいたのだ。そう、谷甲州の航空宇宙軍史であった。
 ただ、いくつかの点で違いがあって、(おもわず、ほっとしたのだけれと)う〜んどうしてなんだろうという部分もあった。そこで今回はどうすれば太陽系規模の経済が成立するだろうかというところに絞って、話を進めたいと思う。
 なお、この文筆は以前甲州画報にて二回に分載されたものをまとめたうえ、大幅に改訂と加筆を行ったものです。

 とーとつだが、わたしはアラビアンナイトが大好きでよく読むのだけれとも(ちくま文庫に栄光あれ)そこに登場する商人達の活動範囲のなんと広いことか、まるで現代なみである。それでは当時の経済交流は現代と同じくらい活発であったかというと、そうではない。そこにはやはり距離という当時の技術では克服できない問題があるのである。
 当時の東西貿易は、奢侈品貿易であるといえる。重くかさばる割に商品価値の低い大量消費財ではなく、軽くて持ち運びしやすく商品価値の高い贅沢品が中心であったのである。つまりだ、日常生活には必要の無いものばっかりをアラブ商人やペニスの商人は運んでいたのである。もっと直接的にいうとだな、「東西貿易がなくても、ヨーロッパ経済圏もイスラム経済圏も中国を中心としたアジア経済圏も誰も困らなかった」にちがいないのだ(特定の一部地域や階級は困るだろうけれとも)。そして「東西貿易は経済活動の中心とはなりえなかったのである。」
 なんでこんなことになるのかというと、「技術が通商範囲を決めてしまう」からなのである。つまり技術と生活水準は密接な関係があるから、生活水準を維持するために必要なものを交換する貿易も技術によって範囲が決められてしまうのである。しかもそのように限定された地域内で行われる活動こそが経済活動の中心であるといえるのである。ちなみにある暇な経済学者によるとその範囲は「それそれの時代の技術によつて六〇日で到達できる範囲」だそうである。

魔法の絨毯

 分かりやすい例を一つだけあげておこう。近所のスーパーマーケットと都心のデパートの関係を考えてほしい。その日の夕食の材料を買いにいくだけに都心のデパートまで電車に乗ってまでいく人はいないだろう。そんなものは近所で済ますのが普通の人間のやりかたであり、経済活動の中心はそんな普通の人間が担っているのである。しかも当時の東西貿易で取り扱われる商品と日常生活に用いられる商品の差異はスーパーとデパート以上に差があった。
 つけくわえると、東西貿易が盛んであったかのような印象を受けるのは、当時のヨーロッパ経済圏の内部での経済活動が活発でなく目だたないものだったからであろう。

 さて本題に戻ろう(それにしても随分と長いネタふりだったなぁ)。谷甲州が描く太陽系の経済がはたして論理的かどうかということである。この記事ではあくまで距離という問題にこだわってみたい。

 距離といっても先程のとおり、技術的な限界がもたらす距離のことであり、技術の変動により変化するものである。
 外惑星連合軍に攻撃されていたタンカーについて考えてみよう。このタンカーは木星から二年三ヶ月かけて地球へおっこちてくる。地球についたタンカーのうち、フレームやなんか、再利用ができそうな部分は打ち上げる(にちがいない。)これにかかる時間も二年三ヶ月としよう。
 もういきなり四年半なのだ。ちなみに往復ともに一回太陽へ撃ち込むことにしてやれば、地球と木星の距離が変わったって平気であろう。(「火星鉄道19」収録の「ドン亀野郎ども」)さてここで最初の話を思いだしてみよう。技術的距離の不経済の仮説があてはまるかどうか、ということである。
 輸送に消費する時間と消費によって地球の便益となる時間の比較。輸送に消費するコストと消費によって地球がこうむる利益の比較。そして恒久的な輸送システムを作ることによる費用とそこから生み出される便益の比載、これら三つを検討することにより、世界システム論信者の信仰のよりどころのひとつである「六十日論」が宇宙でも適応されるかどうかがわかるのである。

 つまり以下のようにまとめることができるだろう。

  1.  タイムラグのコストパフォーマンスを満足させる。
  2.  短期のコストパフォーマンスを満足させる。
  3.  長期のコストパフォーマンスを満足させる。

以上の三つの点が可能であるならば、太陽系経済というものは成立しえるだろう。このうちBとCについては単純な技術上の問題として解決されるだろう。

 つまり、太陽系の経済全体のなかで本当に必要な経済活動であったならば、徹底した技術革新が図られる。と同時に周辺の物資の価格も調整されるはずだから(見えざる神の手)、短期にも長期にも単純な費用と収益との比は改善され、最終的には満足されえるものとなるのである。(またそうでないと、本当に必要とはいわない)

 地球と外惑星をむすぶタンカーについて考えてみよう。もし本当に地球でタンカーの定期運航が恒常的に必要だとしたらどうだろう。まず、外惑星側ではタンカー送りだしのための施般がつくられ、同時に地球側でも受け入れ用の施設がつくられるだろう。これらは半永久的なものと考えていいだろう。これらは減価償却期間を過ぎれば、稼働を続けるかぎり運転コストしか必要としない。一方これらを通じて運びだされる資源には当然運転コストが含まれるから、収益を発生させることができる。
 また短期的な要素として、タンカーを考えてみよう。まず定期運航が絶対に必要なものとなると、費用を軽減するためにさまざまな手段がとられるだろう。対して、タンカーの必要性から収益は必す揚けることが可能となるだろう。(要は売り手市場ということ)
 ただし重要なこととして、タンカーの運航が必要であるという前提が正しいかどうかの問題があろう。もし他の手段によって資源がより容易に得られるならば、これまでの議論は紙面を無駄にしたことになる。また、もしかして経済全体がタンカーを必要としなくなるかもしれない。いずれにせよ、当初の仮定からどんどん離れていくだけのことだからここまでにしよう。

 残るはAの問題である。これにはどのような問題があるのだろう。例によってタンカーを考えてみよう。
 先程も述べたように、タンカーは二年三ヶ月かけて、外惑星からおちてくる。初期加速の設定次第でこの値は多少変化するのだけれど、いくら技術革新が進んでも、六ヶ月はどうやったってかかるだろう。この六ヶ月こそが問題なのである。

 今地球にむけて、百隻のタンカーが一日におちてきているとしよう。ところが、地球側の経済が急激に冷え込んで、短期的にはそれほどの資源を必要としないとしたらどうだろう。資源は余ってしまい、その結果換金レートは大暴落するだろう。この結果がわかったとしても、なお軌道上には六ヶ月分の資源があり、それが毎日地球にむけておちていくのである。こうなると、地球だけでなく太陽系全体の経済が壊滅的な打撃を受けるのである。そして経済の冷え込みというのは、「暗黒の月曜日」のように実にあっけなくやってくるのだ。
 こういった危検を避けるために、タンカーの保有者は多大な保検をかけることになるだろう。勿論タンカーに掛けられた保検料は最終的にはコストに反映されることになるから、結局地球は膨大な支出を強いられるのだ。こう考えてみると、この時代もっとも影響力をもつ組織というのは、保検会社かもしれない。(最近(この文章が書かれたのは88’である)の円安も生保が余った資金でドルを買ったせいだっていうし)
 この反対に、突然地球側で資源が必要になったとしたらどうだろう。先程と同じ設定で、ある日突然百二十隻分の資源が必要になったらどうだろう。たとえば外惑星が反乱を企図しているという情報が地球側にもたらされたとしたらどうだろう。
 地球側としては反撃をするための資源稼保のため(主に推進剤だろうが)、「タンカーあさりにやっきになるだろう。その結果、資源の換金レートは跳ね上がり地球側はより窮地に追い込まれるにちがいない。
 このことは地球側にとって著しい不利であるといえよう。なぜなら攻勢を企図するにせよ、その意図を察知されやすいからである。しかも地球側は六ヶ月しないとタンカーの量を自分の欲するだけ手に入れることができないのだ。それまでは限られた量を一部にシフトするしかないのであり、これは経済の停滞を意味する。
 このような経済的な不利益を蒙らないためには、資源碓保が考えられるだろう。たとえば第一次石油ショックのおり、日本には全くといっていいほど石油の備蓄がされていなかった。当時の物価の高騰を石油ショックのせいだけにするつもりはないが、これが大きな原因となったことは間違いない。
 対して、第二次石油ショックの時には若干の石油備蓄があった。前回の打撃を乗り切ったという自信とこの備蓄が心理的な余裕となったことは確かであろう。つまり量的にはけっして十分ではなくとも、危機管理が少しでもされているということは大切なのである。
 これらのことから資源備蓄が必要であることがわかったが、このことは同時に資源のコストの上昇をも意味する。実際、現代日本の石油税も備蓄のためにも活用されているのである。

 以上のことからタイムラグというのは大変なコスト上昇を要求するものなのである。(なお外惑星側でも同様のことがいえるのである。このことはJ・ヴァーリーの「さよなら、ロビンソン・クルーソー」<創元推理文庫『バーピーはなぜ殺される』収録>にも書かれているので興味のある人はどうそ)そしてこのために世界システム論の「六十日理論」が成立するのである。
 言い換えるならば、六十日を境として経済活動は制限されてしまう。それは取引上のタイムラグが、経済的にみて非常に大きなコストの増加をもたらすからである。このため恒常的に必要な資源は六十日以内で到着する範囲でしか交流しないことになるのである。

 こうして見ていくと谷甲州の描く太陽系経済というものは成立しえないように思われるかもしれない。しかしここで忘れてはいけないのは航空宇宙軍の存在である。外惑星動乱の以前からすでに太陽系経済は地球を中心とした統制のもとにあったと考えられる。この統制を実際に行なったのが、航空宇宙軍なのである。
 強力な統制下にあるかぎり、多少の損失はカバーすることができる。無論このような統制政策には不満をもつものも出てくるだろう。というより、外惑星動乱の本質がここにあったといってよいだろう。
 このような経済統制は永遠に続くものであろうか。地球が太陽系の経済の中心として君臨するためには、この統制は続けられなくてはならない。しかしこのことによって太陽系経済の経済規模は拡大されることはなくなるだろう。なぜならたとえ航空宇宙軍にしろ、膨大なコストを負担しなければいけないからである。当然負担できるコストには限界があるから、統制経済が続けられる以上、その経済規模も限定されてしまうだろう。

 もし経済の中心がシフトしていったとしたらどうだろう。つまり太陽系経済の中心が太陽を離れ、どんどん外惑星域へ向っていったらどうだろうか。地球の地位は外惑星の経済的な地位の向上とは逆に相対的に低下していくはずである。太陽系経済の初期段階では、地球がくしゃみをすれば太陽系全体が肺炎を起こすくらいの関係であるだろう。しかし太陽系経済が成熟して外惑星域にその中心が移動すると、地球は盲腸のような在在になってしまうのではないか。つまり普段からなくても困らない、悪くなったら切ればいいような存在になってしまうのではないか。
 このことは実際の経済史のなかでも起こったことなのである。ヨーロッパ経済圏が地中海から大西洋へ拡がったとき、経済の中心もイタリア諸都市からマルセイユへそして最終的にはイギリスヘと移動したのである。そして世界規模まで拡大したとき、アメリカへと移行したのだ。
 世界史で実際にあったのだから、SFのなかであったっていいと思うのだけれど、いかがなものであろうか。ちなみに航空宇宙軍ではシフトしているような記述もみられるが、これは汎銀河人に対応するためらしいから、すこしこの文章のテーマとちがう気もする。

 ここまでの話の中では触れなかったのだが、地球はいったい何を代価として支払うのだろうか。貨幣をただ単に払い出すだけでは、地球の富が流出するだけとなってしまう。また受け取る側、つまり外惑星側も裏付けとなるものがないのだから、困ってしまうのだろう。(いきなりこれがお金だよといってわけのわからん紙切れ渡されるようなもんだ)
 外惑星にどうしても必要だが足りないものが地球の輸出品目としては最適であろう。そんなものがあるだろうか。確かに技術を供与するというのも有効であろう。しかし技術供与が効果をもつのは、地球と外惑星側の技術の格差が歴然としている期間だけである。その期間をすぎると、少々技術的に劣っていても原料の安さなどで対抗されてしまうのだ。このことは台湾を代表とするNIESとアメリカの関係を見れば理解できるだろう。
 もうひとつ地球が外惑星に対抗でぎる品目がある。それは人間である。人間というのはなかなかに作りだすことができない。しかもDNA操作などで人間を大量に作ることが出来るようになっても、教育という問題が残っているのだ。
 仮にこの時代の平均寿命が百歳で、教育期間が十八歳であるとしよう。老人問題を考慮しない場合ですら、これは人生の約二割が生産活動に従事しないことを意味するのだ。
 しかも外惑星の開拓の初期段階では、居住空間が大変限られている。教育といった当座には関係ないものに、スペースがさかれるとはおもえない。また航空宇宙軍史からみても女性の数が絶対的に少ないだろうから、教育をうける子供の数も少ないだろう。
 こういったことから、教育は地球でおこなわれるようになるかもしれない。今だって、大学を中心にして発達したオックスフォードや日本の京都みたいなところもあるんだし、十分ありえることだとおもう。(それにしてもどうして京都の人間ってあんなに夜遅くまで遊んでいられるのだろう)
 また地球人を直接外惑星へ輸出することもあるのではないだろうか。なんといっても外惑星は人口不足だし、サービス業が発達してくると機械まかせというわけにもいかないだろう。ということで教育を受けおえた人間が外惑星へ<輸出>されることになるかもしれない。この時、輸送船は比較的ゆっくりと外惑星の諸都市をめぐるだろう。人々は船内で宇宙でのマナーを叩きこまれるのだ。(なんだか奴隷船という気がしてきたなぁ)この教育期間は非常にきぴしいものになるに違いない。不適だったものはエアロックのむこうへ文字どおり、ゲットアウトとなるのだから。

 

ドン亀野郎
ドン亀野郎
<ドン亀野郎ども>

 MY に向かって減速中のタートルギャング。
 10t 以上のタンカーを人間とたいして質量の変らない宇宙機でひっぱるのはたいへんである。加減速の感性の扱いを一つ間違えると命とりだ。
 きっとてきとうに軌道を合わせて、ばかでかいマスキャッチャーにひろわせに違いない。


 ここまで見てきたのは、地球と外惑星の間にある距離というものが一体どのような障害となりえるかということであった。さまざまな障害があるだろうが、人類が強く外惑星をそして外字宙を指向するかぎり徐々に経済も発達していくだろう。しかしその一方でなにが人々を宇宙に駆りたてるのだろうか。ヨーロッパ人達がアメリカをそして西部を目指したのは、限りない膨張と一攫千金を目指したからであろう。二十二世紀の人々も黄金を求めているのだろうか。




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