覇者の戦塵にみる艦艇マスプロ化の効果と影響

林[艦政本部開発部長]譲治

【最初に】

 満州に油田が存在すると言う斬新な視点や、故障しがちなトラクターの試作品から将来の戦車の展望を示し多くのファンを魅了した谷甲州著覇者の戦塵。その第三巻「オホーツク海戦」。本書の83P〜102Pには量産品(つまりは消耗品)としての駆逐艦建造が語られている。
 この部分に語られていることはしかし単なる駆逐艦の量産にはとどまらない。防空重視、海上護衛任務、航空兵装の装備などその駆逐艦運用思想は従来の帝国海軍の戦略に大きな変更を加えずにはおかない要素を含んでいる。
 そこで現実の帝国海軍における駆逐艦建造の実態と、それを覇者の戦塵での量産思想によった場合の効果と影響について考えてみたい。

【帝国海軍における駆逐艦建造の実際】

 まず、表1は特型駆逐艦以降、終戦までに日本で建造された駆逐艦についてのものである。一部については不明であるが主な駆逐艦についての起工、進水、竣工年月、および起工から進水、竣工にいたるまでの日数がわかるだろう。
 日本が太平洋戦争に突入したとき保有していた駆逐艦は総数111隻、このなかで老齢艦は30隻を数えていた。開戦後に完成したものはいわゆる個艦優秀思想の秋月型12隻、夕雲型18隻、実験的性格の強い島風の31隻、量産を考えた松型32隻の合計63隻にすぎない。
 一方、アメリカは1940年から終戦までに駆逐艦397隻、護衛駆逐艦505隻の合計902隻もの建造を行っている。日米開戦前である40、41年の生産数36隻を引いても総数866隻、実に日本の14倍の生産量を誇っていたのである。むろんこれは国力の差が原因である。しかし、日本はこの当時、世界第三位の造船国であったのも事実である。なぜこれほどの差がついてしまったのであろうか?
 一般に船舶に限らず工業製品は同じ施設で同じ物を製造する場合、一番より二番の方が製造日数は短くなり、さらに三番の方が二番より短くなる傾向にある。例えばグラフ1は三菱長崎造船所における秋月型の建造日数を表したものである。これによれば一番艦「照月」が起工から竣工するまでに648日かかっていたものが四番艦「若月」では442日、じつに33%もの建造日数の短縮が認められる。
 こうした傾向は舞鶴工廠における松型の建造日数や浦賀船渠における陽炎型の建造日数などを表したグラフ2〜6でもおおむね認める事ができよう。
 ただすべてにこの傾向が認められるわけではない。例えばグラフ7、8の松型の建造日数をみる。確かに建造期間の短縮傾向が見られなくもないのだが、同型艦の建造番号が増えるに従いこれらの建造日数は再び増加傾向を示している。
 しかし、この松型の場合はこれをもって同一艦建造のメリットに異議を唱える根拠とはならない。なぜならば松型の一番艦「松」が建造にかかったのが1943年8月8日、ミッドウェー海戦敗退後、ソロモン海戦で大量の駆逐艦の消耗をまねいたその後なのである。松型の建造は1945年まで行われていたがこの時期には海上護衛の不備による資源の供給不足、人材、施設の損傷などの制約により円滑な建造工事は不可能だったのである。特に熟練した技術者の不足は深刻であったと言われている。
 松型の建造行程が短縮しない原因は戦局の悪化による建造環境の低下によるものであるとしても、それではグラフ9〜11における特型駆逐艦の建造行程が短縮しない理由はなんであったのだろうか。
 いま佐世保工廠における特型駆逐艦の建造について見てみる。一番艦「東雲」の起工が1926年8月12日、五番艦の起工「朧」は1930年2月17日である。
 特型駆逐艦は1921年のワシントン条約における主力艦建造制限を補うために個艦性能重視の思想で建造された。軍令部から艦政本部に要求がでたのが1924年、最終案がまとまり建造に着手されたのが1926年、全部で24隻が建造された。
 ところがこの24隻の特型はなんとさらに細かく1型、1型改、II型、III型の四種類に分類できるのだ。これは個艦性能重視の観点から建造中の駆逐艦でも最新技術次々と取り入れて行った結果である。確かにそれは性能を向上させるためには必要なことであっただろう。しかし、その改良のたびに建造中の駆逐艦は工程の変更を余儀なくされたのである。頻繁な工程変更が建造日数を増加させてしまったのである。
 佐世保工廠における特型の建造もその例外でなく三年半ほどの間に建造に着手した五隻の駆逐艦は度重なる工程変更のために「朧」の方が「東雲」よりも建造日数が延びてしまったのであった。
 ちなみに友鶴転覆事件や第四艦隊事件が起きた1934〜35以後の駆逐艦建造日数はやはり増加傾向にあるが、これも船体の構造強度見直しのために工事が行われたため工程変更や既存艦の改修工事の影響であった。
 ただ特型について言えば軍縮条約の存在下では建造できる駆逐艦の数に限りがあるため個艦性能の追及そのものは必ずしも不合理とは言えない。量に上限があれば質の追及を試みるのは当然であろう。
 問題なのは軍縮条約が破棄されたという新しい条件の下でも思考法に変化が見られなかった点であろう。改修という名前で工程変更に伴う建造日数の延長はネイバル・ホリデーが終った1936年以降も続いていたのである。

【量産型駆逐艦の実際】

 覇者の戦塵における量産型駆逐艦の仕様はおおむね以下のようになっている。

 現実に建造された駆逐艦のなかでこれらの条件に適合するような物は存在するだろうか。
 帝国海軍が最後に建造した松型と呼ばれる駆逐艦がある。これが覇者の戦塵における量産型駆逐艦の仕様とほぼ一致するのである。むろん仕様が一致するだけではない。この松型こそ帝国海軍がはじめてマスプロ化を意識して設計した駆逐艦なのである。(松型の仕様

 かくのごとく松型は覇者の戦塵における量産型駆逐艦の仕様にほぼ合致する。しかし、現実に松型が誕生した背景は覇者の戦塵における佐久田少佐の唱えていたようなマスプロ化の認識が海軍当局に深まったためではもちろん無い。
 松型が産まれるにいたった背景には42年8月の米軍部隊のガダルカナル島上陸がある。ガダルカナル攻防に伴いソロモン諸島の戦闘は激化の一途をたどっていた。
 このため日本軍は大量の増援部隊や物資の補給を行わねばならなくなった。しかし、制空権は米軍側にあり、輸送船の被害は増加する一方であるため最終的には潜水艦や駆逐艦による輸送が行われた。
 艦隊型駆逐艦として建造されてきた従来の駆逐艦に輸送船の任務を行わせた無理や米軍の航空機、水上兵力の妨害によりこうした駆逐艦の損失・損傷は無視できないほどにまで増加した。このガダルカナル島をめぐる攻防で42年5月から12月までに失われた日本海軍の駆逐艦は12隻、損傷艦は35隻にも達した。
 消失艦はともかく損傷艦は修理のため日本に戻るわけだが、大量の損傷艦の修繕工事は新造艦の建造工事を圧迫する結果も副次的に生み出した。じっさいに防衛庁の資料などをみるとこの時期の海軍工廠などは損傷艦の修理に忙殺されていたことがわかる。
 戦時中に竣工した駆逐艦の総数が60隻弱の(しかも半分は開戦前から建造が行われていた)国において12隻の損失はけっして座視できる数字ではない。建造数より損失の方が大きければ駆逐艦不足から作戦遂行能力にまで大きな支障をきたすことは目に見えているだろう。
 ちなみに資料を調べると駆逐艦に関して日本は損失以上に建造した事が無いことが分かる。実に開戦当初の向うところ敵無しの時でさえ、建造する数以上に日本の駆逐艦は消失していたのである。だいたい1隻建造する間に2.5隻の割りで日本の駆逐艦は消失していたのである。
 こうした急激な駆逐艦の消耗という事実の前に42年11月、軍令部から艦政本部に

従来の艦隊型駆逐艦とは思想の異なる新型駆逐艦の設計要求が出されることになった。
 ただ海軍当局がどこまでマスプロ化の認識をもっていたかは定かではない。例えば開戦後であっても工程の多い艦隊型駆逐艦は相変わらず起工されていた。またマスプロ化を阻害するにもかかわらずやはり松型でも設計変更の要求は多かったと言う。
 ようするにマスプロ化の認識が深まったのではなく、数を揃える必要にせまられ、それを実現する方法がマスプロ化しか無かったのでマスプロ化したと言うのが真相かもしれない。
 駆逐艦としての松型は終戦末期に建造されたとは思えない、いくつもの画期的な新機軸をもっている。生存性を高めた機関配置とか日本の駆逐艦としては画期的な対潜能力や対空レーダーの装備など蘊蓄を傾けようと思えば幾つでも蘊蓄を傾けられる要素が松型にはある。が、ここでは触れないでおく。
 さて、松型は溶接によるブロック工法などが本格的に採用されたはじめての駆逐艦であり、また量産し易いように直線を基調としていた。
 ちなみに帝国海軍技術中佐でり、艦艇の研究家としても名高い掘元美氏の体験によると、直線の多い簡易化船の速力損失を計測したところ意外なほど少なく、逆に従来の凝った曲線の船体に行きすぎを感じた程だそうである。

 こうしたマスプロ化の効果はどれほどあがったであろうか。先の表を見てもらえば分かるように従来の艦隊型駆逐艦は物によって異なるものの平均すると1隻の建造に2年の歳月を要している。
 ところが松型の場合、一番艦は約9ケ月で建造され量産が進むに従い全建造工程は約5ケ月にまで短縮された。ただ終戦末期のこの時期には海軍工廠も民間造船所も艦艇の建造や修理などで工事が輻輳し、熟練工も不足していたため工作能力は最盛期と比較すると非常に低かった。それを考えるともっと条件のよい時期にこうした建造をはじめていれば建造された駆逐艦の数ははるかに多かったと予想される。事実、艦政本部は松型の建造を3ケ月と計画していた。
 仮に松型のようなマスプロ化駆逐艦がもっと早くから計画されており、一度決定した設計は安易に変更しないようにしていたならば量産型駆逐艦は最終的には2ケ月弱で完成させる事は必ずしも不可能ではない。
 こうした事が可能であったなら開戦後に建造できた駆逐艦の数はざっと400隻弱になるだろう。アメリカが建造した駆逐艦は800隻ほどだが大西洋にも振り向けなければならないことを考えると太平洋方面においてはアメリカに匹敵する駆逐艦数を維持することも数字の上ではあながち夢ではないだろう。
 海上護衛を考えた場合でもこうした条件が整備されたならアメリカの通商破壊作戦は変更を余儀なくされ、それは戦局に大きな影響を与えないとも限らない。
 あるいは日本において大量の駆逐艦をマスプロ化できる事実はアメリカの対日戦略においても無視できない要素となるであろう。その意味でマスプロ化と言うのは戦略思想とも言えるのであります。

【量産型駆逐艦による航空駆逐艦試案】

 それでは、駆逐艦のマスプロ化が実現するとして具体的にどのようか効果が考えられるだろうか。ここで一つの試案を検討したい。
 覇者の戦塵「オホーツク海戦」「第二次オホーツク海戦」において具体的な記述では無いものの、暗に駆逐艦の航空兵装に触れている部分がある。一見するとなんでもない記述のように感じるかも知れない。
 しかし、現実の艦艇をみるとこの記述の意味は重い。なぜならば世界大戦前の駆逐艦のような小型の船に航空兵装が施された例は無いからである。アメリカがフレッチャー級駆逐艦の後部砲塔を撤去してカタパルトを搭載した例はあるが、これはあくまでも実験的な処置であり兵装とは言い難い。
 それでは1500トン程度の駆逐艦に航空機を搭載することは不可能であろうか。いや、それは必ずしも不可能な事では無いのである。
 まず、どのような目的で航空機を何機搭載するのか。これには覇者の戦塵の記述から判断して二つの目的が考えられるが、もっとも重要な海上護衛のために哨戒・索敵の機材を三機搭載することにする。索敵に一機、移動に一機、整備に一機の割合である。これによって船団の前方は常に哨戒機が任務につくことが可能になる。
 さて、それでは次にどんな航空機を搭載することになるであろうか。性能などから言えば川西N1K1強風あたりを搭載したいところだがこれは1940年に開発が始まった機体であるから除外される。1937年当時で実用化されていたか、実用化が近い機体となると機種は限定されたものとなろう。
 ここでは愛知E13Aいわゆる零式水上偵察機11型を採用することにする。理由は複葉機では翼を折り畳むことができない事と、機体そのものの性能である。零式水上偵察機は単葉であり外翼を折り畳むことができる。何よりも15時間におよぶ長時間哨戒は魅力的である。零式水上偵察機の大まかな性能を列記すると、

動力  1080馬力の三菱金星43型星型エンジン
最高水平速度  375キロ/時
航続距離  2090キロ
離陸最大重量  3640キログラム
全幅  14.50m
全長  11.30m
武装  7.7mm92式機銃
 250キロ爆弾
 99式20mm機関砲(腹部回転銃座)

 それでは零式水上偵察機を1500トン程度の駆逐艦に3機搭載するためには具体的にどんな形態にすべきであろうか。まず船体の基本的な形は中央楼型になる。ノーマルな松型は船首楼型であるが、ブロック工法によって建造されるため船体の形態は使うブロックの交換で十分に対処できるはずである。
 この中央楼は三機の零式水上偵察機の格納庫になる。と同時に船体と幅が一体となっているため船体構造の強化に寄与する形になっている。またこの中央楼に付属する形で艦橋が置かれる。これは主に上部構造物による重心の上昇を抑えるためである。
 この格納庫の具体的な形は軽巡洋艦大淀の格納庫を想像していただきたい。ちなみに大淀は8168トン、水偵は6機搭載される(はずだった)。
 水上偵察機を駆逐艦に限らず水上艦艇に搭載する場合にまず問題となるのは機体の回収問題であろう。機体の回収問題はこうした機体を運用する上で最大の技術的ネックとなってきた。
 普通は帰還した機体は艦に接近し、偵察員が翼の上に上がって吊り下げ索格納箱からロープを出して艦からのクレーンフックに引っかけるというような事をしていたという。またハインマットという特殊な布の帯を海面に展開して飛行機をその上に乗せそれからクレーンで吊り下げる方法もとられた。
 さて、航空駆逐艦であるが、ここでは覇者の戦塵の記述を参考にした方法を考えたい。つまり中央楼型の船体でかつ船尾は一等輸送艦のように傾斜しているのである。零式水上偵察機は格納庫から船尾傾斜に沿った軌条に導かれ海面に置かれる。回収時には機体は前進している駆逐艦に後方から接近してこの軌条のある船尾の傾斜に乗り上げて回収されるのである。これならば駆逐艦を停止することなく航空機を回収できる。また相対速度も比較的小さいので零式水上偵察機のフロートにかかる機械的衝撃も低減できるだろう。
 離発着と格納ができたからこれで航空駆逐艦が完成するかと言えば問題はそう簡単ではない。いままでの設定を総て取り入れたならばとても1500トンの駆逐艦に収まることは無いのだ。
 まず3機の零式水上偵察機を搭載した場合に予想される重量は他の艦艇の経験などから計算すると航空機燃料も含めて約62トンである。格納庫の重量はカタパルトを必要としない分と、船体と一体で艦橋と構造を共通している事から相殺されるとしても相当の重量を減らす必要がある。
 まずこの駆逐艦が海上護衛を主要目的とした航空駆逐艦であると言う事を考えれば雷装は不要である。魚雷は一本2.7〜8トンあるから雷装の撤去により少なくとも15トンの重量が軽減できる。
 次に12.7センチ連装砲も撤去する。つまり大砲は12.7センチ単装砲が一門だけになる。連装砲の重量が32トンほどあるから雷装と連装砲の撤去によって47トンの上部構造重量を軽減することができる。
 残り15トンは松型に搭載されている10メートル特型運貨艇二隻や付属施設、防空機銃の一部を撤去することで達成できるであろう。ただし対潜兵装である爆雷は撤去しない。
 10メートル特型運貨艇はともかく、防空機銃や連装砲の撤去についてはきっと反対する意見をお持ちの方も多いと思う。それでは艦の防空能力軽視ではないか、と言う疑問はある意味で当然の疑問だ。それについては後ほど答えようと思う。

【航空駆逐艦の運用面での考察】

 航空駆逐艦の運用方法については覇者の戦塵の記述から二つほど考えられる。海上護衛に関する哨戒・索敵と、陸戦隊の上陸時におけるエアカバーである。
 まず海上護衛について考えてみる。3機の零式水上偵察機を搭載した航空駆逐艦を海上護衛に使うにあたって前提となる大事な条件が一つある。それは日本に物資を輸送する輸送船はできるだけ大規模な船団を組むと言う条件である。
 帝国海軍が海上護衛に関してほとんど努力らしい努力をしなかったことは知られているが、日本の海上輸送においてほとんど船団が組織されたことが無いことは意外に知られていない。もちろん南方方面での軍事輸送に使われた船舶については船団が組織されたわけだが、そうした船団は「日本からの輸送」であって「日本への輸送」ではない。
 船団を組むことが船舶の損失をどれだけ少なくするかについて考えてみよう。一隻の輸送船が撃沈される確率に影響を及ぼす要素は、

  1.  潜水艦が船団を発見する確率
  2.  護衛駆逐艦の直衛線を突破する確率
  3.  突破してから輸送船を攻撃・撃破する確率

の三つである。しかし、一の要素は船団が大きければ高くなるものの基本的に船団の大きさによって顕著に変わらない。また三の要素は船団の大きさとは無関係。従って二の護衛駆逐艦の直衛線を突破する確率、つまり船団周囲の長さに対する護衛駆逐艦の数、単純に言えば駆逐艦の密度によることになる。
 イギリスの第一次大戦中の経験から船団の規模に対する護衛駆逐艦の数は輸送船の数をNとするとき、3+(N/10)とされてきた。
 いま60隻の輸送船があるとする。これを20隻の船団3個と60隻の船団1個で輸送した場合を考える。先の式によって20隻の船団では5隻の護衛駆逐艦が必要だが、船団が3個あるので駆逐艦の総計は15隻となる。一方で、60隻の船団では必要な駆逐艦の数は9隻ですむ。
 20隻に5隻と60隻に9隻で同じ安全確率であるということは大船団のほうが小船団よりも安全であるということになる。事実、イギリスが第二次世界大戦中に調べたデーターでは40隻以下の船団は、平均32隻中2.5%を失っているにもかかわらず、40隻以上の船団では平均54隻中1.1%しか喪失していない。しかもこれは護衛駆逐艦の数が十分に揃う前のUボートの脅威が大きかった時期のデーターなのである。このデーターからも大輸送船団方式のメリットは明かである。
 しかるになぜ日本では輸送船団が末期になるまで試みられなかったのか。理由は主に二つある。一つはアメリカの潜水艦が当初はさほどの戦果をあげなかったため。もう一つは稼行率をあげるためである。
 アメリカの潜水艦が開戦初期の段階で目に見えるほどの戦果を上げ得なかったのは主に魚雷の信頼性が低かったため。そして日本軍のフィリピン攻撃が偶然にもアメリカ軍の魚雷格納庫を襲い270本の魚雷は誘爆、これがため太平洋におけるアメリカの魚雷備蓄が底をついたためである。
 しかし、船団を組ませなかったより大きな要因は稼行率であろう。船団を組むためには総ての船団が出航できる状態になるまで船は港で待っていなければならない。これが船団を組む最大のネックになるわけだが、この間は船は泊まっているので当然ながら稼行率は下がる。これが輸送当局や海運関係者から嫌われていたのである。護衛総司令部から船団を組むように指導があってもそうした関係機関の抵抗が強かったのが実情であった。
 実際に日本で大規模な護衛船団が組まれたのはトラック島が大空襲を受け、大量の船舶を喪失してからの1944年3月以降であった。大西洋における70〜80隻規模の護衛輸送船団からみれば小さな15隻程度の船団であったが、船団を組んでからの被害は目に見えて減少したと言う。ただし、戦力の違いから損失は続き、最後には船団を組めるほどの船舶数すら揃えられなかったともいわれる。
 前置きが長くなったが航空駆逐艦の真価は護衛船団でこそ発揮できる。航空駆逐艦があれば船団は必ずしも空母を持たなくても哨戒・索敵の手段を保有できることになる。三機の航空機を用いれば常時、哨戒活動を船団前方について行う事が可能になる。この事は船団の安全を保障する上において非常に重要な点であろう。
 輸送船を沈める事が敵の戦術目標なのであるから、別に敵を攻撃・撃破しなくても、敵を回避するだけで相手の戦術目標を達成不可能にすることができるのだ。もちろん零式水上偵察機にはそれなりの武装を持たせることも可能である。
 ところで航空駆逐艦の武装で航空機を搭載するために徹底した武装の撤去を行ったがその理由を説明しなければなるまい。
 以下のデーターは大戦中における日本の船舶が喪失原因をまとめたものである。すべてアメリカ側からみた数値である。

陸軍機   300.0隻
基地海軍機   144.5隻
母艦機   393.5隻
潜水艦  1152.5隻
機雷   375  隻
艦砲    18.5隻

 航空機優勢とか言われながらも実に航空機による損失の倍の被害が潜水艦によるものなのである。従って海上護衛の駆逐艦ではまず対潜能力の向上を何よりも優先して考えねばならない。航空駆逐艦で爆雷兵装を残したのはそのためである。また松型は日本の駆逐艦としては画期的な水中聴音機や探信儀を装備していることからも対潜兵装の撤去は望ましくない。借りに航空兵装を喪失しても駆逐艦は対潜駆逐艦の能力は通常駆逐艦並に持っているのである。こうした事から考えればこの海上護衛任務の駆逐艦に魚雷兵装は不要である。
 それに複数の駆逐艦が輸送船団を護衛しているシステムであるから防空については他の駆逐艦が補う事は可能であるはずだ。駆逐艦の数に不足はないのだから。むしろここでは輸送船団という装置を護衛する駆逐艦システムと認識されるのが正しいだろう。
 航空兵装搭載するために対空砲や機銃まで犠牲にしたのはまた別の理由がある。海上輸送は本来は自らの勢力圏で行われるべきものであり、そうでなければならない。
 実際に戦時中のデーターを見てもわかるが、開戦初期から潜水艦は活躍しているのに対して、日本の船舶が航空機によって大規模な被害を受けるようになったのは1943年以降からに過ぎず、空母艦載機からの攻撃にいたっては1944年から本格化しだしたのである。
 つまり、日本軍が優性であった時期では当時の航空機の性能から言って対空脅威は存在しないに等しかった。戦況が悪化するに従い、基地を奪われ、制空権、制海権を失った結果が上のデーターなのである。
 ようするに本国へ資源を運ぶ輸送船団が敵の航空機の脅威から対空能力を第一に考えねばならないとしたらそれはすでに戦術レベルの問題ではなく戦略レベルでの失敗なのである。
 さて、陸戦隊のエアカバーという用途はかなり特殊な運用の仕方であろう。航空駆逐艦は船尾の軌条つき傾斜に大発を一台搭載できる。まず多数の航空駆逐艦からこの大発が適地に向って発進する。その後で水上機が三機この傾斜を使って発進することになる。
 ただこの時の航空機は必ずしも零式水上偵察機である必要はない。それように開発された機体であるほうが良いだろう。むしろ哨戒・索敵とこうした上陸部隊の上空援護ではその任務の内容がまるで違うことから考えて、陸戦隊が使うときは航空機も操縦者も陸戦隊の人間であるほうが望ましいと言える。
 大発に250人の兵士が乗り込むとして、単純計算で三機の直営機が上空で援護してくれることになる。本格的な戦闘機との闘いでは水上機は苦戦をするだろうが上陸部隊にとっては援護機の有無は死活問題であるだろう。
 また小艦である駆逐艦を使う以上は分散・終結の訓練が必要であるが、これがうまくいけば非常に柔軟性のある戦闘部隊として運用できる可能性がある。また陸と空との立体的奇襲攻撃は他国に影響を与えずにはおかないのではないだろうか。

【結論:「覇者の戦塵」は大逆転を目指すのか?】

 さて、これまでは駆逐艦のマスプロ化の可能性について考えてみた。確かにマスプロ化を考慮した駆逐艦の建造によってアメリカに匹敵するだけの数を揃えることは必ずしも不可能な事ではなさそうではある。
 だが覇者の戦塵においてマスプロ化の思想が意味するものははたして駆逐艦をはじめとする軍備の増強を目的とした方法論でしかないのであろうか?
 まず表2、3は当時の日本における工業生産の成長率である。みて分かるようにこの時代、つまり1920〜1930年代の日本の工業生産成長率は他の先進諸国を圧倒している。例えば世界恐慌があった時代でさえ日本は8〜12%もの成長率を維持しているのである。
 これだけみると日本の工業力は他の先進諸国を圧倒し、世界最高の水準にあるかのような印象を受ける。が、それは数字のいたずら、統計のマジックに過ぎない。これらはあくまでも成長の率であって絶対的な生産量の比較では無いのである。

 ここで表4、5を見ていただこう。これは主な工業製品の生産量の比較である。見ればわかるように日本で生産される鉄や石炭の絶対量は非常に少ない。また世界全体で生産される生産量に占める割合もアメリカ、イギリスなどと比較すると10倍以上の開きがある。
 さらに重要なのは表6である。これは当時の先進諸国における工業製品の一人当りの生産量の比較である。ご覧の通りにこの数値も低い。一人当り生産量の低いソ連との比較でも勝っているのは電力とセメントだけであり、鉄鋼、石炭ではやはり劣っている。
 工業製品の一人当りの生産量が低いということはつまり、一人当りの労働生産性が低いということである。それでどうしてあれだけの成長率が達成できたのか。細かい分析は本文の目的では無いが、もっとも考えられる原因は、安い賃金の労働者が長時間働いた結果であろう。これに関しては表7のデーターが一つの参考となろう。実にアメリカの1/7の賃金で日本の労働者は働いていたことになる。
 なぜ日本の労働生産性が低かったかを端的に言えば機械力の不足が根本原因であろう。例えば1934年の段階で日本は生産能力500トン以上の溶鉱炉をわずかに2基しか保有していなかったが、アメリカにおいてはすでに1929年の段階で163基が保有されていた。また製鋼においても50トン以上のマルチン炉が日本では一桁単位しか無かったのに対し、アメリカでは100トン以上の物が329基を数えていいた。
 1934年段階の日本では冶金の生産量の20%を生み出していたのは企業数で90%を占め、労働者数で40%を占める従業員5〜50の中小企業であった。残り80%を50人以上の大工場が生産していたのである。
 それでは当時の日本ではいわゆる機械力に関してどのような認識が持たれていたのであろうか。これは艦艇の建造ではないが『航空機制作工業ノ研究』と言う資料がある。これは日満経済研究会による資料である。この日満経済研究会とは覇者の戦塵でおなじみの石原莞爾大佐が満鉄経済調査会の宮崎正義を中心に設立した組織である。
 さて『航空機制作工業ノ研究』の中には次のような記述がある。「機体の生産能力は、設備の制限を受けること少なく、どの程度の職工を利用し得るかと云う人的要素によって制限を受けることが甚だ大である」「増産計画には職工の体力が問題となる」ようするに機体の生産力は人的な労働力の確保いかんによると考えられていたのである。
 一方、エンジンの生産については「発動機の戦時増産を支配するものは、制作工場における工作機械その他の設備である。一方、増員すべき職工は機械器具工業から容易に補給できるから、職工数の制限を受ける事はない」と記されていた。これだけ読めば機械力を重視しているかのように思えるが実際にエンジン生産を増強するために同研究が想定していたのは工場面積の拡張と労働時間を1日10時間から14時間にすることであった。つまり航空機産業においてすら熟練工の養成や工作機械や特殊機械の量や質にたいする認識は見事に欠落していたのである。
 ただ工作機械工業そのものは航空機産業同様に政府から保護育成されてはいた。しかし、背景となる基礎的な工業技術の低さから工作機械の質は外国のそれと比較して低いものであったといわれる。軸が摩耗する、精度が出ない、振動が激しいなど多くの問題をまだまだ抱えていたのである。
 機械力に関しては下請けの質と言う問題も日本は抱えていた。航空機産業の例が続くが、中島飛行機などでも職人がハンマー一つで鉄板を成形して部品を作り出していたような町工場が部品メーカーの一翼を担っていたと言う。有名な話でリュック輸送がある。これは中島の社員がリュックを背負って下請けまで部品を受け取りに行くのである。部品は駅や工場で受け渡されるが、その時に部品の品質検査は受けない。それだけでなく工場でも部品の検査をした様子がない。部品は工場に到着するやいなや組み立てられたという。中島飛行機に限らず当時の日本における工場生産の一段面であろう。
 日本の航空機の本などを読むと必ずエンジントラブルで機体本来の性能が出せないといって記述が必ずと言ってよいほどある。これらの主な原因はエンジンの設計に問題があるよりも、エンジンのプラグや特殊金属、エンジンオイルの質、部品の加工精度などによるものが実に多い。エンジントラブルで十分な性能を発揮できなかった機体がプラグや燃料をアメリカの物に交換したら設計以上の性能を出せたなどいう話は珍しくはないのである。
 また中島飛行機のあるエンジンは、開発にあたって中島だけでなく関係企業の技術者との連絡を密に取り、関連メーカーの技術の向上を計った結果、非常に信頼性の高いエンジンができたと言う。
 艦艇や航空機に限らずもしも当時の日本で工業製品のマスプロ化を本気で考えるならば、それは下請け工場のありかたにをも考慮しなければならないのである。単に工廠や親だけが機械を入れて生産性を向上させたとしても下請けが旧態以前の状況では全体の生産性の向上は期待できない。
 じっさい問題として民間の生産性の向上がどれほど重要な問題かは表8を見てもらえばわかるだろう。海軍工廠は海軍省からの依頼の25%しか賄うことができないのである。
 以上の事から一つの結論を導くことができると思う。つまりマスプロ化を実現して駆逐艦(に限らない)を大量配備するためには町工場レベルからマスプロ化の思想を持たせなければならないと言う事である。
 これは単に組み立て工場や部品工場に留まるものではない。素材産業はもちろん、こうした工場に資本を融資する金融機関などに対してもこうした思想への理解が求められることになる。また民生品にたいする大量生産の結果が社会そのものに影響を及ぼさないと考えるのは無理があろう。量産された安価な農業トラクターが農村に入ったときに何が起きるかを考えても工業製品の普及が日本社会に与える影響は数知れない。
 またこうも考えられる。マスプロ化の思想を合理主義と置き換えたとき、日本の社会に町工場レベルから合理主義が浸透するとき社会はどうなるか。生産性の向上から富みを蓄積し、豊かになり合理主義を身に付けた国民が不合理な政治の選択の前にどんな行動を起こすであろう。
 国民が力を持ち、合理的に思考するときに社会の指導者は何を成さねばならないか?
 覇者の戦塵はまだようやく4巻を数えるに過ぎない。これは他の作家とことなり日米開戦を回避する話になるとも聞く。だが私は、覇者の戦塵は国家という社会システムをいかに合理的に運営するか、この命題に正面から取り組んだ従来に例を見ない野心作ではないかと考えているのであります。国家社会の合理的運営−国家運営のマネジメント−これこそが覇者の戦塵のテーマではなかろうか。

 

参考文献一覧




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