発行日と締切の関係上、今回の記事は前回かいてから一ケ月以上たってから書き始めているにだけれど、先月の引きを読み返すと頭がイタイ。
「ガンダムふぁいと、れでぃ・ごー!」ってもう大昔ぢゃないか……
画報の読者にはGガンダムなんぞしらねー或いは知りたくもないヒトだっているに違いないのに。
えっと。要するに、ここでいいたいのは、「儀礼的戦争」という奴の近未来的可能性を検討しなくっちゃならないってことなのです。
人間の闘争心をスポーツで昇華・解消することで戦争を無くそうというアイデアは、けっこう昔からあるようだけれど、たいていのオトナは本気でそれで戦争をなくせるとは信じないだろうね。わたしも信じない。
にも関わらず、いちおう検討の価値があると思われるのは、「儀礼的戦争」が社会安定化のシステムとして機能している例が、いわゆる未開社会……自給自足・原始農耕&狩猟に依る部族社会においては報告されているからだ。そういった社会では、「戦争」が成人儀礼や社会の活性化・人口調節として機能している。戦闘の無秩序な拡大を防止しているのは様々なタブー(呪的禁忌)で、それは哺乳類や鳥類の、ナワバリや異性獲得のための闘争が、本能によって致命的なものに至らないよう抑制されているようすを連想させる。また、戦闘による戦争の代りにポトラッチ……儀礼的贈与競争とでもいうべきものが存在する場合もある。
いずれにせよ、かつてそういった社会が存在した以上、人類の未来にもありえないとはいいきれない。少なくとも本格SFのテーマとして検討に値するものに違いないし、現に荒巻義雄や笠井潔はそういうテーマのSFを書いている。
とはいえ、「儀礼的戦争」が、搾取的農耕成立以後の社会からは喪われていったことには明らかに理由がある。それをヒトの倫理的な堕落やヒトという種族の本質的な不完全さ・狂気に帰因させようとする論が昔からあるが、ちょっと違う気がするのだな。
この連載ではテーマから外れるので簡単にしか書かないが、わたしゃ倫理というのはヒトの無意識が生み出す一種の社会工学装置だとみなしている。ヒト、或いは知的生命に、普遍的な倫理……善や悪が存在するという明晰な論拠をわたしはどこにも見出すことができないので、自明の前提となる善悪の基準の存在を信じるのは、わたしには宗教ないし一種の神秘思想としか思えないんだな。別に宗教や神秘思想が悪いというつもりはないし、また善・悪に類する行動や思考の基準となる「信条」というのを個人的にはわたしも持っているし、またヒトという生き物のへんてこりんな特性の一つは、その手の判断基準をどうしたって自分の内側につくらずにはおれないことだと思ってはいるけれども。
話が思いっきりそれた。
ええっと、要するに、なぜ「儀礼的戦争」が喪われたのかという理由。それは、農耕を手に入れた後の人類社会が、動態的なものになってしまったからだと思われる。
人類学者にして構造主義哲学の雄であるレヴィ・ストロースは人類社会を「冷たい社会」と「熱い社会」に分類し、いわゆる未開社会を典型的な「冷たい社会」とみなしているが、もちろんそれは人情が冷たいとかいう意味でなく、自然科学的な意味での「冷たさ」……社会構造が安定・自己再生産的で、静態的であるという意味でいっているわけだ。静態的社会に存在するタブーを初めとする制度的・社会的文化は、社会の恒久的存続をなさしめるように機能する。それは環境の急激な変動に対しては効力が弱いと考えられるだろうが、少なくとも自然環境の変動に対しては、たとえば呪的英雄の出現による新しいタブーの創出などによってなんとか対応してきたと思われる。それは近年まで或いはごく限られた地域においては今日までそのような社会が存続してきたことによって証明されているといえるだろう。有史以来の気候変動が馬鹿にならない水準で推移してきていることは、近年の花粉分析などによる考古学の新手法によってもあきらかだからだ。
しかし、それは社会環境の変動に対しては脆いこともまた、歴史が証明している。動態的社会は、呪的禁忌を旧来とは別の方法で、より速やかに組み替えることを覚えた社会といってもいい。それらは静態的社会と接触するとそれを動態的社会に同化していく傾向が極めて強い。その典型的かつ身近なものは近代文明化だが、それ以前から、中華文明やイスラム文明もまた、営々とそれを成し遂げてきていたことは忘れられてはならない。中華文明やイスラム文明は、巨大官僚機構社会の形成を頂点とするように歴史運動の慣性が形成されてしまったために、その動態性において近代文明に劣るが(おそらくそれが、かの文明が近代文明に呑み込まれたと見える理由だろう)、もちろん自給自足型小社会に比べればその動態性ははるかに強い。中華文明においては、政治機構のリフレッシュまでが、中華的な「革命」という形で定式化されているくらいである。また、イスラム教の誕生も、人類最古の文明地帯であるここが、自らのリフレッシュを図って生み出したものとみなしてよいように思われる。
とすれば。
人類文明は、或いは静態化し得るかもしれない。つまり、人類の地球化はいままさに完了しつつあるからだ。今後、他星系の文明との接触がない限り、人類はもはや起源を分かつ異種文化と接触することはできないからだ。もし人類が、その安定と存続を第一義に選べば、静態的社会の形成は可能だと思われる。古来から、楽園幻想は静態的社会への復帰こそが(意識するせざるに関わらず)その主旋律であった。
宇宙への進出は? しかし今日、宇宙への進出の現実的価値はしばしば疑問視されている。短期的見地から、宇宙開発が大変スローモーなものになり、社会的分邦化という観点からは無に等しい規模と速度になる可能性はけっこう高いように思われる。
人類が静態的社会となるとき、「戦争」もまた儀礼的戦争と化するだろう。
人類はいまこそ、ユートピアへの扉を開きつつあるのだろうか。
うげげえっ、とここで思うのはわたしだけだろうか。
そもそもトマス・モア描くところのユートピアは、実質的にはディストピア、悪夢の世界だった。ヒトという生き物は、少なくとも現在は、おそらく静態的社会に適していない。無理やりに制度的文化によって静態化すればそれは抑圧にしかならないだろう。一度食べた知恵の実はもはや吐き出すことなどできない。
もしヒトのメンタリティが種族存続の本能によって影響されるものなら、この感覚は適切であるように思われる。なぜなら、均質化した社会は変化に脆くなってしまうからだ。 劇的な外的要因による環境変化は、個人の一生のスパンでは滅多に起こらないが、ヒトという種族のスパンにおいては必ず起こると言える。もし人類が自らの生み出す環境への影響を制御できるようになったとしても、巨大隕石の激突や地球的規模の地殻変動や超巨大太陽フレアや異星文明との接触や忘れた頃に現われたかつての放射性廃棄物による汚染などによってたやすく崩壊するようでは困る。進歩した技術文明を維持できれば大丈夫……などとは、わたしにはとても思えない。もしいったん人類的規模の静態型社会が完成してしまえば、危機管理のノウハウはたちまちにして忘れられていく(この手の微妙な知恵は、現代の技術文明が保存を大変苦手にしているものだ。マニュアル化できない、或いはする必要が無いと思われた部分が、時代をおいて復活させようという場合にはしばしば致命的な欠落となるものだ)。それもまた歴史が証明しているといっていい。
とはいえ、近現代文明の度を過ぎた動態性が、人類自らを危機に陥れている状況もまた看過することはできないだろう。
ヒトがその動態/静態性において、自らを破滅させることなく、個の抑圧もまた最低限にとどめ、そして種族レベルの「危機管理」にも即応できるようなシステムを構築できるかどうか。
いわば「ほどほど」のシステムに到達できるかどうか。この点において、二十世紀末から二十一世紀前半にかけての人類の選択が後代へ及ぼす影響は大変大きく、その責任も甚大である、そう考えるのは誇大妄想ではない……と思うのだけれどね。いかがでしょ。
ううむ、「ガンダムW」または広義のテロリズムまたはLIC(低強度紛争)の話にまで届かなかった。これについてはまた来月ね。