谷甲州は無謬である
第二帖<宇宙戦争論・その2>

岩瀬[従軍魔法使い]史明

 おや副題はどうなったんだと気付いてしまったヒト、お願い。忘れて。
 どうやらわたしにも羞恥心のカケラくらいはまだあったらしい。先月号の自分の記事のタイトルを一目見て頭痛とつるかめ笑い(どんなものか想像してね:-) )の発作に襲われてしまったのだった。にっこり笑って開き直れるほどくだらない副題を思い付いたらまた付けます:-)。

 などとなんとも情けないマクラで始める宇宙戦争論の第二回だが、まずは前回のおさらいから。
 要するに、シリアスな星間戦争の勃発に対しては、戦争が当事者能力をもつ政府間の外交の延長である限り、相互の破壊能力の高さや社会存続(特に大気のない世界など)の脆弱性が抑止として働くことを述べた。
 つまり、シリアスな星間戦争の構築には、科学技術的な設定だけではなく、シリアスな政府当局の設定・描写が不可欠だ、ということだ。
 もちろん、それが論文ではなくSFとして描かれる限り、設定に要求される構築性とはつまり、虚構としての説得力にすぎない。
 従って、エンターテインメントとして評価する限り、読者が支持する限りにおいては、その構築性が堅牢でなければならない必然は必ずしも、無い。いや、逆に、堅牢すぎる構築性は、舞台が未来であり宇宙である場合、我々に身近な日常からの距離が大きく解説めいたものがしばしば多量に必要な分、読者層を制限する要因ともなる。
 また、たとえ「評価」するにせよ、キャラクターやストーリィ・テリングに重きをおき、その面で優れていれば、社会構築や「悪の組織」が定型的でも、政府権力がたいてい戯画的な冷酷さと愚かさの権化であっても、多少(?)物理法則が踏みにじられていても、一概にくだらないと決め付けるべきではないだろう。まして、その世界観や文章力に説得力と新鮮な視点があれば、本格SFの傑作と評価されていい場合もある。
 しかし、近年、状況が変りつつあるように思えるのは私だけだろうか。
 日本のSF界の問題点としてよく挙げられることの一つにハードSFの層の薄さがある。もちろんそれ自体その通りではあるだろう。しかし、問題は、いわゆるハードSF、すなわち「科学的なアイデアが作品にとって不可欠な要素を構成し、もちろん科学考証もしっかりなされている」SFだけではないことへの認識が乏しいのは大問題ではなかろうか。
 日本SF一般に弱いのは、作品の論理的構築性そのものではないか。
 日本SFは、多彩な宇宙観・世界観を軽エンターテインメントの器に巧みに注ぎ込むことにおいて、英米SFに勝っている、とわたしは思う。英米SFはその価値観や視点などに於いて「英米的」或いは「西欧的」なのに普遍的であり理性ある万人に自明だと思い込んでいる部分が多いのではないだろうか。どんな未来や異郷の人類社会を描いても、それが欧米やその植民地世界の延長上に過ぎないと思えることがわたしは多い。
 日本SFは少なくとも、その視点の多様さにおいて英米SFに勝っているようにわたしには思われる。
 しかし、英米SFの影響力から脱しようと腐心するあまり、日本SFは傑作といえる作品ですら、しばしば多彩な宇宙観・世界観を注ぎ込まれる器は、軽エンターテインメントだった。注ぎ込まれた結果、それは単なる軽エンターテインメントではなくなる。しかしその構築性の水準は、世界の整合性においても文体においても、決して高いものではない。
 近年、「SFでもSFとして売れない現象」、SFをかく有望新人がSF市場以外から輩出する現象がある。内容はSF以外の何物でもない作品がしばしばベストセラーリストに名前を連ね、日本人宇宙飛行士の相次ぐ誕生が国民的な話題となりその関連書籍が広く売れるということは、しかし表面的なSF市場の衰退と裏腹に、潜在的SF読者層は幅広く、深くなっているということの表れではないだろうか。
 つまり、文芸界全般に、SFを受入れ評価する素養全般はむしろ従前より上がっているのではないだろうか。だとすれば、なぜ市場ジャンルとしてのSFが衰退しているように見えるのだろうか。
 近年の日本SFプロダムの「虚構の説得力」は、メディアミックス系ライトノヴェル、ジャンル内読者向け、周辺ジャンル(架空戦記など)の3つに分化してしまっているように思われる。しかしそれらは前述の潜在的SF読者の開拓にはあまり繋がらず、各々閉塞化する傾向がある。
 だからこそ、堅牢な構築性と、それを読ませるための普遍的な筆力こそがいま必要なのではないだろうか。(だからこそ、谷甲州が日本SFの未来を背負うようになるとわたしは日頃力説しているのである。ヨイショみたいで気持ちが悪いが、論理的結論は曲げられないのである)

 ……と、気が付いてみると、肝心のシリアスな「宇宙戦争」の論考をまだ初めてもいないのに、もう紙幅の半分を過ぎてしまっているのだった。相変わらずおマヌケな話である。とはいえ、「なぜ構築が重要か」という問題は、この連載の早い時期に一言しておきたいことだったので、これでいいのだ:-)
 すくなくとも、わたしはしっかり構築できた作品の方がそれだけでエラい、とは思えない。小説としての評価は全体でもって語られ判断されねばならない。だから、宇宙の艦隊戦で、転回する度に水上艦艇のように陣形が崩れたり、金属資源や工業力から考えると無尽蔵としか思えない規模で艦隊が生産されたり、「出力150%!」で何に対して150%か判らないけど一々乗組員が失神しても、構わないのだ、面白ければ。
 基本的には「面白いものが正しい」というのがわたしの立場なのだけれど、わたしが構築性にこだわるのは、SFというジャンルの戦略的展開に鑑みてのことなのである。あ。もちろん趣味もあるけどね。(というよりも、それが基礎なわけなンだよな……だって、まず「自分にとって面白いものがいっちゃん自分にとっては正しい」んだもんね!!)

 というわけで、ここでようやく論考に入る。
 つまり、シリアスな宇宙戦争の状況メニューである。
 相互破壊力の巨大さからして、まずもっとも自然な状況は、航宙能力の叩きあいであろう……政府が当事者能力を失ってもおらずコミュニケーション不能な異星人が相手でもなければ。(言い忘れていたが全く異質な異星人同士の戦争は、様々に前提が違うので今回の論考では扱わない。もしコンタクトテーマについてかく機会があればそのときに……) だとすると、「宇宙での艦隊決戦」という、宇宙の広さと索敵能力の限界からすれば冗談みたいに思える状況は、実は必ずしも御都合主義の所産でないことが判る。某銀○伝でめったやたらに艦隊決戦をするのは、惑星地表の全面的な叩きあいを本気でやってしまうと互いの社会の存続まで危ういという状況があれば、それ自体は特に問題はないわけである。
 とくに、重力場でも超光速シャフトでもいい、なんらかの原因で、合理的な航路選択に大きな制限がある場合にはなおさらである。
 もちろん、それは必ずしも「艦隊決戦」という形である必要はなく、通商破壊も重要な戦略となるだろう。特に、第一次外惑星動乱のように通商破壊がすなわち敵の航宙能力の低下に直結する場合は。
 しかし反面、馬鹿で無謀な政府や大規模な味方の犠牲を厭わない勢力が航宙能力をもつと、非常に危険だということになる。報復をおそれずにただ滅ぼすだけなら、惑星間や恒星間の航行技術が在れば、敵対社会の生存環境をボロボロにすることなど簡単なはずだ。 従って、シリアスに世界設定をする限り、星間社会においても、「カウンター・テロ」の問題は、現代社会が直面しているのと同様いやむしろそれ以上に、重大で深刻な問題となるはずだ。(汎銀河人の抵抗もテロからだよな、考えてみると。軌道傭兵も主にカウンターテロの話だし)
 おそらく設定次第で、ありうべき宇宙戦争のヴァリエーションはいくらでも広がるだろう。「星界の紋章」のように、設定次第では90年代においてすら、「星間帝国」という設定にリアリティを付与しえるのだ。
 が、せっかくだからもう一つだけ、宇宙戦争においてごくありふれた状況だと思える世界設定を指摘しておこう。
 それは、「冷たい戦争」だ。宇宙戦争における確証相互破壊からなる均衡は、ごく近年までの核抑止力に大変相似していると思えるのはわたしだけだろうか。少なくとも、自在な惑星間航行能力があれば、単に敵対社会の生存環境を破壊するだけならばそうむつかしくはないのだから。
 従って、惑星間以上に本格的生存圏が広がった社会に於いては、深刻な星間社会の対立は、まず「冷たい戦争」の形をとるのが自然だろう。
 つまり、熾烈な喋報戦争と、互いの社会中枢に深刻な影響を及ぼさない世界での代理戦争(例えば地球=月系と木星系の対立ならば小惑星帯で、とか)である。
 航空宇宙軍史の設定ではそうならない必然があるわけだけれどもね。
 次回は文明論的観点から戦争一般を概観してみよう。う。こー書くと妙にえらそーではないか……あんまり期待しないでね。お願い。



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