谷甲州は無謬である
−幻の《エウロパ・エクスプレス》−

岩瀬[従軍魔法使い]史明

 今月のメインテーマは、なぜ航空宇宙軍は木星や土星の大気を重水素供給源としていない(らしい)か?ということです。
 ファンの間でもこの設定については必ずしも知れ渡っていないような気がしますが、考えてみるとそれも当然かも知れません。この設定が明確に描かれているのはほとんど「どん亀野郎たち」(短編集「火星鉄道19」収録)だけだからです。そして、第一次外惑星動乱の背景の基本理解は、「航空宇宙軍は航宙燃料を外惑星系に依存している」という一点で、最低限は充分だからです。
 しかしより深いツッコミをかけるにはそれだけで気が済まないのがファン気質というもの。まずは航空宇宙軍史における核融合燃料の設定をやや詳細に読み込んでみましょう。

ヘリウム3タンカーはあったか?
 以前ちょっと話題になったことに、「重水素以外の核融合燃料物質はどうしているのだろう?」ということがあります。特に重要なヘリウム3という物質については、航空宇宙軍史の設定にあるような「衛星地表の氷」からでは充分採取できそうにないため、当時は「きっと木星や土星大気からの採取も、航空宇宙軍史には書かれていないけれども、実は行なっているのではないか」という結論に達した……ような気がします。少なくともわたしはそう思っていました。
 ところが「タートル・ギャング」を読み返してみると、当時自分がくだした結論は間違っていたのではないか。航空宇宙軍史の文字通りの設定にも充分な妥当性があるのではないか、という気がしてきました。いえ、ヨイショじゃありませんてば。
ンなことが私たちにできるくらいなら甲州センセも苦労はしませんって^_^;。
 「タートル・ギャング」における設定を読み返してみると、水星軌道よりやや内側におかれた「移動可能な軌道工場」である《操車場》群には、目的が二つある、と描かれています。
 一つは、カリストから電磁カタパルトで射ち出される無人重水素タンカーを、付属する小型艇を使って「拾い集め」、需要に応じて内惑星系の最終目的地に射出する役目です。この「需要に応じて配分」できるところがカリスト・エクスプレスのウリです。無人重水素タンカーはできるだけ低コストで運航させるため極く僅かな初速で送り出されますから、射出から到着まで2年以上もかかります。ということは、到着時の需要が内惑星系のどこであるべきか、精密な予測などたちません。だからこそ、できるだけ低いコストで、内惑星系のどこへでも配分できるように、水星軌道の内側に《操車場》が設定されているわけで、だからこそ「とびぬけて移送量が多い」のだ……というわけです。言い替えれば他のラインは目的地がかなり限定されているということでもあります。ガニメデからのタンカーは地球圏、土星系レアからのタンカーは火星もしくは小惑星帯を目指して射出されているのです。
 で、もう一つがこの稿では肝心です。《操車場》では、重水素の変換も行なっているのです。重水素以外の重要な核融合燃料である三重水素(トリチウム)とヘリウム3を、ここで「需要に従って生産」している、とあるのです。
 考えてみると、重水素からトリチウムとHeをつくるのは簡単です。
 重水素同士を核融合させてやればよいのです。
 その際、理論的にはほぼ同じ確率で、トリチウムができる反応とHeができる反応がそれぞれ起ります。ということは、重水素のみの核融合をプラントの動力源とするだけで、トリチウムとHeが生産されていく……ということです。
 ただ、問題があるとすれば、ただ反応させるとすれば、トリチウムとHeが半々でしか生じないということです。つまり需要に大きな偏りがあれば対処しにくいわけです。おそらく不足するのはHeの方ではないかと思われます。以前林[艦政本部開発部長]氏が指摘なさったように、戦闘艦の巡航航宙燃料としては重水素−He反応の方が重水素−トリチウム反応よりも優れているからです。
 その対応策を、とりあえず3つ挙げてみましょう。
 一つは、重水素同士の反応条件や触媒を制御すれば、Heができる反応の比率を高めたりその逆にしたりということが可能なのではないか、ということです。
 二つ目は、リチウムからHeをつくることです。リチウムに中性子をあてるとHeになります。実はいま現在、Heはそうやって入手しています。具体的には原子炉容器の近くにリチウムをおいてつくっているのです。(Heは普通のヘリウムより更に沸点が低い為、極低温冷媒としてより優れており、そういう需要が現存する)リチウムはかなりありふれた軽元素で、月面や外惑星系の衛星でも比較的容易に採取できそうに思われます。
 三つ目は、Heを別に採取することです。例えば、重水素タンカー以外にHeタンカーもつくって送ってしまうのです。航空宇宙軍史に描かれていないだけで実はそういうのもあったんだ……と解釈することは不可能ではないでしょうが、ただここで一つ問題点を指摘しておきましょう。Heは重水素に比べてずっと存在比が低いのです。重水素は普通の水素中に約6700分の1の割合で含まれています。ところが、Heが普通のヘリウム中に存在する比率は、地球大気中で約一千万分の1でしかありません(なお天然ガス中の比率はもう1桁下がります)。
 この比率は、吸着剤などを使って化学的に分離できる場合は、決してクリアできない比率ではありません。(現に、さっき登場したリチウムという物質は、海水中に一千万分の一強程度しか含まれていませんが、つい先日、通産省の四国工業技術研究所がリチウム鉱石とコスト的に対抗できる技術を開発した旨、新聞に載っていました)しかし、Heと普通のHeは化学的性質はまったく変わらないため、わずかな比重差や沸点の差などで分離するしかなく、これには大変な手間がかかってしまうのです。木星や土星の大気から分離採取するにせよ、この面での技術的ハードルは避け得ませんから、未来の超技術がこの問題を解決できた……と設定してもいいけれど、しなくてもよいわけです。
 つまり、外惑星からHeをもってくる設定は矛盾はしない、しかし必然性まではない、といってよいのではないでしょうか。

木星大気取得軌道

アブナい?木星大気プロジェクト
 Heについては、必ずしも木星や土星の大気中のヘリウムを頼る必要はないとしましょう。しかし重水素についてはどうか?(ああ、ようやく本題です)
 衛星地表の氷から重水素を採取する方法と比べて、まず目につく欠点と利点を挙げてみましょう。
 まず利点は、氷から水素を分離することは、おそらく木星や土星大気から水素以外の成分を除去するよりもコスト高だと思われることです。マイナス百数十度の氷を溶かして電気分解するエネルギーはどうしても必要でしょうが、低温でも働く吸着剤で水素のみを低コストで取り出すことは、そうむつかしくないでしょう。水素吸蔵合金なんてけっこう使えそうじゃないですか。
 欠点は二つ。一つは、ガス惑星大気圏は衛星地表よりも環境が不安定なので設備自体のメンテナンスコストがかかりがちだろうと思われることです。成層圏でもかなり大気は濃いので(最下層なら1気圧ある)超絶規模の雷が常時轟く対流圏まで降りる必要はないでしょうが、それでもカリストやガニメデよりはずっと強い電磁波を浴び、磁気圏を通らなければならないでしょう。もう一つは強大な木星ないし土星の重力場から物質を「汲み上げる」のは大変であること。ただしこれについては解決手段があります。
 いちばん簡単で効果的な方法は、採取プラントを木星の衛星軌道にのせることでしょう。その際、近地点が大気圏をかすめるような楕円軌道にするのです。大気をどの程度「かすめるようにする」べきかは採取技術との相談次第です。技術が進むほど、薄い高層大気をわずかにかすめるだけで充分でしょう。大気圏通過時の減速を補うに足る噴射エネルギーは、それに応じて僅かですむし、大気との摩擦によって生じかねない障害もより楽になります。(ラムジェットによる加速を考えるのならむしろある程度濃い大気を通過しなければならないかもしれませんが)この方法なら「汲み上げる」ことに必要なエネルギーは僅かですみます。それどころか、射出点の工夫次第では、僅かなエネルギーで、しかも速やかに、内惑星系に重水素を射出できるのです。(図1参照)近地点近くでは軌道速度も速くなりますから、それを利用すれば、本星の軌道速度を相殺するだけでなく、すくなからぬ初速を与えて射出できるはずです。
 この方法で一番問題になるのは、重水素そのものでなく、コンテナ外殻です。
 木星や土星の大気からコンテナ外殻の成分を抽出するのはかなりむずかしいでしょう。(理論的には微量有機成分からプラスチックを合成できるとは思いますが、システム開発にはかなりの時間と費用がかかるのではないでしょうか)となると、コンテナ外殻はどこかの衛星地表で地表の岩石などを素材に作り、軌道上で採取プラントとランデブーさせるしかありません。前述の様に本星の重力カタパルト効果を利用して高初速・低エネルギーで射出するには、できるだけ本星に近付かなければなりませんが、そうなると環境がより不安定になり、アクシデントが起りやすくなります。イオ軌道のプラズマトーラスも、なにかと障害になるでしょう。
 ここまでくると、問題点が明らかになってきました。
 つまり、木星や土星大気圏から重水素を汲み上げる方法は、衛星地表の氷から抽出し射出する方法に比べて、より低コスト・高メリットでできる可能性はあるけれど、システムがより複雑かつ不安定になってしまい、結果的にコスト高になってしまうリスクを負っているのです。甲州ファンにとっては、こういう場合甲州センセのセンス(趣味?)がどちらを選ぶかは明らかでしょう :-)
 航空宇宙軍という設定も、より安定な供給システムを選好すると思われます。また、外惑星開発がより自由な資本によってなされているのなら、ハイリスク・ハイリターンな別のシステムを開拓しようという力が働くでしょうが、航空宇宙軍史の開発形態はそうではないようです。とすれば、航空宇宙軍史のこの設定は、深読みするほど妥当性が高まる……という結果になってしまったことになります。ううむ、残念(をひをひ^_^;)。

幻のエウロパ・エクスプレス
 最後に、重水素供給について一つだけ未解決の疑問が残っています。
 それは、なぜ「エウロパ・エクスプレス」が存在しないか?ということです。
 さきほどの重力カタパルト効果にもあるように、衛星の本星に対する公転速度を利用して本星の公転速度を打消すには、内側ほど有利なのです。(図2)硫黄で蔽われたイオはこの場合無視するとして、カリスト・ガニメデ・エウロパの平均公転速度と木星の平均公転速度を比べると次のようになります。

カリスト     8.21 Km/s
ガニメデ   10.88 Km/s
エウロパ   13.74 Km/s
木星     13.06 Km/s

 また、衛星地表からの射出にはもう一つの要素があります。それは衛星それ自体からの重力から脱出するのに必要な速度です。
 前述の3星について列挙すると、以下のようになります。

カリスト     2.38 Km/s
ガニメデ    2.75 Km/s
エウロパ    2.09 Km/s

 これらの条件をつき合わせると、いずれにせよもっとも有利なのはエウロパである、ということがわかります。しかし航空宇宙軍史には「エウロパ・エクスプレス」は登場せず、国家規模も生産力もガニメデ・カリストに比べて小さいのです。
 これはなぜか?
 今度こそ谷甲州は間違ったのか???
 と断言することはできません。というのは、エウロパには大規模な地震(氷震?)があるかもしれないといわれているからです。エウロパ地表には他の衛星と比べてクレータが極めて少なく、また大規模な起伏がほとんどありません。これは表面の柔らかさのせいであるとも、氷の地殻の下に液相の水の層があるせいだとも言われています。また、表面を蔽う多数の亀裂模様は、地震で生じた亀裂であるかもしれないともいわれています。そのエネルギー源は、より木星に近いイオに今なお《火山活動》をもたらし続けている、潮汐力による加熱です。
 エウロパの《地震》がいまもって続いているのか。あるとしてその頻度や規模は?といったことはまだ現在の我々にはわからないのですが、航空宇宙軍史においては、「大規模なプラントを建設するにはリスクが大きい」と航空宇宙軍が判断する程度のものだった。そう設定しても何の問題も無いでしょう。
 なんてこった。今回はミッチナーが頑張らなくてすみましたね。甲州センセはほっとなさったかもしれませんが、わたしは残念です(をひをひをひ^_^;^_^;)。
 谷甲州は今月も無謬でした。つるかめ、つるかめ。

 衛星地表からの脱出速度は朝倉書店の「われらの太陽系」シリーズの6、「木星・小惑星の全て」から引用しました。また、衛星の軌道速度は、同書掲載の軌道周期及び半径からわたしが算出しました。間違ってへんやろなあ…ちょっと不安。

航空宇宙軍は航宙燃料を外惑星系に依存している
 なお、航空宇宙軍史の人類社会においては、重水素の供給源は地球上とそれ以外で異なるようです。つまり、地球上の重水素は海水から採取されており、外惑星系に直接依存していないのです。今回のテーマとは異なるので追及しませんが、もし第一次外惑星動乱当時、動乱が地球人にとってどんなものであったかを推測したければ、この事実は大きな意味を持ちます。
   また、宇宙では、たとえ地球軌道上であっても、外惑星系の重水素にほぼ完全に依存しているわけですが、これはあくまでコスト上の問題です。
   逆にいえば、軌道エレベータのように、軌道上へモノを持ち上げるコストを劇的に安くできるシステムは採用されていないだろう。そう考えられます。

重水素−He反応の方が重水素−トリチウム反応よりも優れている
 蛇足かとも思いますが、いちおう核融合反応全体について簡単な解説を付しておきます。

太陽でおこなわれている核融合反応は、

水素原子×4 He×2 エネルギー

 という反応ですが、これは反応条件……つまり核融合反応が持続するのに必要な温度・磁場・圧力の高さが非常に大きく、近未来では実用的ではないと思われています。
 現在、実用が有望視されている反応は、

He +陽子 +エネルギー  (D−D反応)
+中性子 +エネルギー  (D−D反応)
He×2 +中性子 +エネルギー  (D−T反応)
He He×2 +陽子 +エネルギー  (D−He反応)

の4つです。
 反応条件はD−T反応、D−D反応、D−He反応の順に厳しく、《点火》しやすさという点ではD−T反応がもっとも優れています。
 ところが、中性子が発生する反応は、発生するエネルギーのかなりの部分が高速中性子に負わされるので、磁場のみでは制御できず、効率も悪くなります。
 中性子の遮蔽も兼ねて、融合反応に直接関係無い物質を多量に投入することは可能です。これは瞬間的な推力という点ではかえって大きなものを得られるのですが、推進剤全体の質量あたりの推進効率は悪くなります。従って、推進比という観点では、航宙燃料にはD−He反応がもっとも望ましいわけです。(ついでにいうとトリチウムは12年ほどで半数が自然崩壊してしまう、という[日保ちの悪い]物質でもあります)
 2種のD−D反応を自在に使い分け制御できればまた状況が変わるのでしょうが、少なくとも「タートル・ギャング」の時代ではそれはできないようで、D−D反応は航宙燃料には使われていない、と描かれています。



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