甲゛州便り

川崎[漁師]博之

 「サージャント・グルカ」のあとがきに在留邦人の生態について甲州親方が一言書いておられますが、うなずける話であります。ただし他所から観光客なりなんなりの日本人が入ってこない国で在留邦人も単一の集団しかいないとなると、嫌よ嫌よも好きのうちというねじくれ方をあんまりしないんですね。他所の人にうちの悪口は言ってもらいたくないと自己弁護する機会もなく、あまのじゃくにもなりきれないものだから、一面的な評価に片寄りがちです。
 もひとつあとがきにある「認識のすれ違い」ってことでは、捕鯨問題もそうした傾向にある気がします。ほとんどの白人(残念ながらノルウェーやアイスランドの人と話したことはない)は何故鯨を殺すのだと詰問してくるわけです。鯨を食っていいか悪いかの倫理観に限って言えば、愛情とか良心とかの倫理上の問題でしかとらえていない彼らに、鯨を食料としての生物資源のひとつとしても認識している立場は受け入れられるはずありません。
 推定資源量がどうのこうのと統計数字でもって産業・食文化を正当化しようとしても、極論すれば「どうしてうちの可愛い○○ちゃんを殺すの!」と叫ぶ人と話になるわけないんです。個人的なこじつけを言えば「おまえは犬や猿を喰えるか? おれは喰える。だからイルカも熊も喰える」ってことなんですが、これは相手の生理的嫌悪感をあおってしまうだけです。(日本人も嫌がりますけど……。)
 オーストラリアのニュース番組で捕鯨問題を取り上げた際、東京での街頭インタビューの模様が放映されたことがあります。「白人は牛や豚を殺すし、オーストラリアではカンガルーも喰ってるそうではないか。何故鯨はだめなんだ」(中年男)と「えーっ、くじらってお魚でしょ。だったら食べてもいいんじゃない」(若い女性)という回答が紹介されました。なにやら編集に偏りがあるような気がせんでもないですが……。でもまあ、白人も牛や豚を殺すではないかという反論は意味ないんです。食物として認識されているんですから(これも拒絶して菜食主義にはしる人も結構いる。これまで会った中ではアメリカ人とイギリス人に多い)。オーストラリアでカンガルーの肉を食えますが(主に観光客向け)カンガルーは牧場・農場にとり害獣だから殺すんです。別に動物園で見るもんでもないからです。“お魚でしょ”と答えた女性は、生物学的には間違っているが、水産物として認識している点で日本人の感覚を言い表しているかもしれない。無知を装いながら本質をズバリと……深読みはやめよう。
 ヒンドゥー教徒と牛、回教徒と豚との間にある宗教的な関係とは異なるものの、鯨はなんというか自然教のカリスマ的偶像にされている感じです。自然保護団体はこれを意図的に強化しているんでしょうけど。我々はこうしたカリスマ性のある動物(多くは大型の哺乳類)に魅せられ愛情を示しがちです。ただそうした動物は生態系の中で食物連鎖の上位を占めてますから、これまた上位の人類と競合しやすいわけです。一面的な特定種の保護に気をとられていると、それと競合関係にある人々の生活を無視しがちです。また適正個体数を越えて増え続けた場合どうするかってことまであまり考えもしないようです。まあ、心配することもないかもしれない。そこまで動物達に快適な環境が整えられるものやら……。それに過度の人工的動物愛護がどういった結果をもたらすか、日本人は歴史的に知っているのではなかろうか。5代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」なんてのがあまりに病的な例だと思うんですが……。

 まあ適当なことを言うのはこのへんにしときましょう。甲州親方も自分の尺度だけで物事を判断しちゃいかんと諌めておられますんで。
 しかしまあ、この自分の物差しちゅうのもやっかいですな。成り行きに流されがちな素人としては、己れの判断基準とか物の見方ちゅうものもすぐ他人に影響されてしまいますんで。結局は誰かの言うてたことを借りてるだけやもんなぁと自信喪失してしまうわけです。
 例えば、学術論文を書く際には引用部分に関し参考文献とその著者などについて明記することをかなりうるさく言われますが、このことが結構苦痛なんであります。論文の下書きの訂正を見ると、自分が思いついて書いた文章に「この文章はお前が考えついたのか? でなければ引用文献明記のこと」とか註釈が入ったりして。
“英文がまともすぎて疑っとるな。こんくらいワイでも書けるわい!”という強気と“うーっ、そやなぁこんなことぐらいもう誰かが書いとるやろなあ”という弱気との間で揺れ動くんであります。で、参考文献を改めて捜しはじめたりして、もう気分は「終りなき検索」であります。
 ですから「サージャント・グルカ」の日本人青年が写真を撮ることに自信を失くしたのは、自分の尺度にこだわって、それも実はこれまでに見た他人の作品の平均化された二次的な視点だったからではないでしょうか。こだわり続けて独自性を見出すというのも才能というやつかもしれませんが。おそらく天才といわれる人の費やす99%の努力というのは、そうした二次的な物の見方を徹底的に検討し尽くすことなんでしょう。逆にいろものさんというのは充分な検討を加えずに二次的なもに三次、四次的なものを付け足していって……。まあ独創性があるような気にさせる(本人にだけか?)んでしょうなぁ。
 それから、同じく「サージャント・グルカ」の日本人女子大生がインドに精神文化なんたらを求めに来たのは、たんぶん「百聞は一見に如かず」ってことだったんでしょう。でも、“百聞が一見でわかる”とか“百聞のとおり一見できる”とは思わない方がいいんじゃないかなぁ。百聞は百見であって、自分の一見で百聞(百見)の通りの見方を理解するってのは大変だと思います。自分で一見してみてわかるのは、百聞は一見の集まりであって、それらの一見もまた物事の全てを見つくしているとは限らない……と、はなはだ抽象的な事を素人は思うのでした。
 で、ちょっと素人シリーズの復活なんぞ……。

『外務省』
 東京霞ヶ関、夜7時。外務省の一室。外務省側から地域担当局長、課長ら数名。某国から帰国した年齢も立場も異なる邦人3名。とにかく、期待した夕飯もなく会議は始められた。
外務省 「・・・前置・・・で、我々としても現地の情勢を把握しておきたいと思いまして、今回現地に長くおられた方々のご意見を伺いたいということで、こうしてお集まりいただいたわけでして……」
邦人A 「そうですね、経済状況がこうたらで、社会情勢がなんたらですから、一般民衆はどうたらでしょう」
邦人B 「しかしまあ、中央政府はなんたらかんたらで、反政府活動がどうたらこうたらですから、まあなかなか難しいですな」
邦人C 「村の方じゃべつに、そのー」
−夕飯出してくれなかったわけではないが、外務省はなにやら“せこい”と思ってしまった素人であった。日本にはCIAは存在しないのだろうか……。

『新聞社』その1
 東京高円寺、午後3時。四畳半一間のアパートの一室。白黒テレビには某国の現地の様子が映っている。突然部屋に電話機のベルが鳴り響く。
新聞社 「もしもし、こちら○○新聞の編集委員××と申しますが……某国に長くおられたということでお聞きしたいのですが……現在、現地ではかなり混乱した状況にあるようですが、今後の予測といったものを……政権の行方とかですね、一般民衆の感情とかですね…………」
素人 「村の方じゃべつにそのー……」
−翌日その新聞の関連記事の中にはやはり実名の後に“素人(編集部注)”というただし書きは入れられていなかった。

『新聞社』その2
 東京広尾、午後12時。桃色のミニスカートの女給さんのいる喫茶店。若い娘達の多いその店内には場違いな中年男。椅子から立ち上がって手招きする。
新聞社 「あっ、どうも私△△新聞の**です。紅茶か珈琲でも……今何かと日本政府と某国政府の間の援助にからんだ疑惑が騒がれていることはご存知でしょう……日本の国民としては自分達の支払った税金の使い途を知る権利があるわけですよ……で、現地ではどんな具合になっているのか聞きたいんですがねぇ……我々の知らないようなことも知っているんじゃないですかぁ……現地に長くいればけっこうあれでしょ……耳にした噂でもけっこうなんですがねぇ……誰かに義理立てし してるんですか……君が話したなんてこと書かないんだから……」
素人 「村の方じゃべつにそのー……」
−正義の使者の新聞記者さんには悪いが、素人が海外にしばらく住んでいたからといって政府高官とつーかーの仲になるわけでもなく、落○信○になるわけでもない。



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