誰にでも、口外することなく、墓まで持っていく秘密がある。
それはその人間の本性から発するものであって、もし自分以外のものに知られたならば、死ぬしかない。
あるいは知ったものを殺すか。
第三勢力では能の演目にちなんだお題で、毎回それとはまったく関連性のない話題について画報に掲載しているのだが、これはあらかじめ示し合わせたものではない。
別に能の話を掲載してもまったく問題ないのだ。
だが、なぜこれまで能の話を誰も書いていなかったかといえば、能というのがあまり面白いものではないからだと思われる。
能に関係する経験として、まず中学生のころ体育館で狂言をみたことがあるが、どんなものだったかまったく記憶がない。狂言は能の合間の息抜きのためにあるとの説明をネットでみたが、記憶が脱落するほど息が抜けてしまう、というのはいくらんでもやりすぎだとおもう。
もっとも平成の狂言はプロレスのリングの上で演じるようになった。なるほど昭和はつくづく遠くなった。
脱線してしまったが本題の能についてなのだが。母方の祖父の家に能面が飾ってあった。よくある女の顔を描いた小面という面であったことがネットでわかったが、それをとても怖いと泣きじゃくったらしい。
伝聞ばかりで恐縮なのだが、これもまた完全に記憶から脱落しているので、狂言とか能とかいうのはよほど記憶の脱落と縁があるらしい。もっとも、三歳のころの記憶を覚えているひとは、あまり多くないようだ。
このふたつ以外には、能とはまったく縁がないので、能についての思いではこれでまで。
ああ、なつかしく、うらめしい。
長年世間をはかなめど、食わずばならない身のあさましさ。
老いた街のしもたやで、網をはりたつきを漁る。
殺生するもの修羅へ落ちる。
さて、
例によって締め切りはぶっちぎっているのだが、いっこうに原稿が進まない。
あいかわらずのことなのでいいかげん慣れたかといえば、小心者ゆえ、なかなかにそうはいかない。なにより編集からメールが来るたびに、悪寒が走るという状況はひどく健康をむしばむ。
そういうわけで、ネタ探しにネットを巡っていると次のような解説があった。
中華文明では鬼とつくものは死体からなった怪異をさすらしい。
生者はどこまでも人間であり他のものには成りえない。20世紀以降、世界中で通用する考え方といってもいいだろう。
むかしは日本では死を経ることなく生きながら鬼となった。金輪、道成寺、そして黒塚は人間がそれ以外のものに変わってしまうことをモチーフとしている。
今回のお題の黒塚または安達良原と呼ばれる演目のストーリーは、荒野に迷った旅の山伏が、あばら家に偶然たどり着いたところから話が始まる。そこには老いた女が、ただ一人、世間から隠れるように棲んでいるのだがその理由はわからない。
女は糸を繰ることで生計を立てている。ちなみに糸車、水車、など回転するものは輪廻、あるいは永劫に回帰することを象徴する。
旅の山伏の求めに応じて一通り糸をつむいだあと、女は供応のため薪を採りにゆく、といって夜の荒野へ一人出て行く。その際、決して奥の部屋はのぞかぬようにと釘をさして。
好奇心に駆られた旅の山伏は部屋をのぞく。そこには、おびただしい人体であったものの残骸が散らばっていた。
その家は人喰鬼の棲家だった。
逃げ出す旅の山伏。
見られたならば殺さねばならない。
女は鬼の本性むきだしに旅の山伏を追っていく。
うらみ、しっと、にくしみ、かなしみ、あきらめ、みれん、しゅうち、しがらみ。
時が過ぎゆくにつれ幾重にも積もった感情。
そんな思いを独りで抱え続けることが、できてしまったところが、すでにそれは人ではなく異類にほかならない。
あるいは初めから人ではなかったか。
遺伝子の突然変異を持って生まれた固体は、ほとんどが生存するためには致命的な欠損あるいは過剰を抱えており、すべからく自然環境によって淘汰される。
まれに、生じた変異が環境に適応し、変異した遺伝子をもつ個体が次の世代を残すことがある。これが新たな種の誕生である。新たな種は、島や洞窟など外部と隔離された場所ほど、速やかに繁栄する。
たとえば、目のような受光器官の欠損した固体は、太陽光の注ぐ場所では生きていくことが不可能だといっていいだろう。が、光の入ることの無い洞窟や鍾乳洞などでは受光器官は必要無い。受光器官にまわすエネルギーを他の部分に回すことで、眼のな
い固体は眼のあるものよりもエネルギー的に優位に立つ。
洞窟という隔離された環境に、より適応したものが他のものを淘汰し、かくして光の無い世界には固有の生物種が繁栄する。後天的な遺伝子変異については、ガン細胞などにみられるように、やはりほとんどが致命的であるといっていい。また、それらは身体全体からみればごく部分的な変異であるので種の問題を論じる時には無視してもよいだろう。
前節の人間は鬼になることはできないという主張は新ダーウィニズムよっても補強される。
繰り返すが、鬼として生まれるのであって、鬼に成ることはできないのだ。
ひきとめるちからが、わたしにはなかった。
ひきよせるちからが、わたしにはなかった。
ないものを、なぜあるとおもってしまったのか。
ないことはとうにわかっていたのに、なぜあるとおもいつづけたのか。
つむぐことばの糸車。
糸はくるたび、太くなり、わがみのしばりは難くなり。
女の正体を知った旅の山伏は逃げ出すが、やがて追いつかれそうになる。そこで、旅の山伏は明王に加持祈祷することによって、鬼は調伏される。
以上が能「黒塚」のあらすじである。
黒塚という名前の劇はほかにも能からスピンアウトした歌舞伎「黒塚」、黒塚のプロットにさらに殺生石のプロットをからませた神楽「黒塚」あるいは「安達太良原」などがある。
黒塚について調べるとたいていこのような情報と、さらに夢枕獏の小説「黒塚」がヒットするはずだ。あと、今回調べてみて能に関するページがかなり充実していることがわかり、能と狂言の関係や演目についてかなり充実した情報を仕入れることができた。
しかしながら、情報が多いからといて、そこから面白いものが書けるかどうかというのは、まったくの別問題であることも、いまさらながら思い知らされた見聞録子である。
いつまでも迷い続けられると思っていた。
時間は味方だとためらいもなく信じていた。
愚かさと夢を取り違えてしまった。
そうしていたら、滑稽な老人ができあがった。
愚かな若者は許されるが、愚かな老人は誰も許してくれない。
毎年、冬になると気がくさくさするのだが、今年は寒さが急だったせいか、例年にまして状況がかんばしくない。
といっても休日は寝てばかり、というのは春夏秋冬変わりがないし、かえって銭を浪費することがないので都合がよい。
また朝起きにくいのは、この時期はみなそうだろうし、仕事というのは疲れるものであるのはあたりまえである。
しかし、最近どうも面白いと感じられることがほとんど無くなった。
それならば片眉剃って鏡を見ろ。
という意見がでるだろうが、以前、スキンヘッドにした時、たしかにすこし面白い感じがしたが、すぐに飽きてしまった。
それにただでさえ、例年にない寒さといわれるこの時期に眉毛を失うと、仕事まで失いかねずそれでは凍死してしまう。
あいにく一緒に死んでくれるパトラッシュのあてがないので、フラダンスの犬でも探しに、布哇神社を訪ねてみるのもいいかもしれない。
まえには、人で無くなってしまうほど思い詰めるものが、なにかあった様な気がしたのだが、どうやら勘違いらしい。
実際、鬼になるには、なにか先天的な体質が必要なことは述べてきた。
面白くない、面白くないといって、テレビでも眺めていれば、すぐに季節は春になる。花が咲いたらまた、気分も変わり、また面白いこともあるだろう。
黒塚という言葉を素直にみれば、黒は北・冬・いにしえを象徴することを考えると、たぶん古ぼけた墓というくらいの意味しかない。