雷鳴は悪女とともにということなのだが、記憶に残るもっとも忌まわしい話は、もっとも忌まわしいので書かない。だから二番目に忌まわしい話にしましょう。
あれは私がまだ大和市に住んでいた頃のこと。大和市とは海上自衛隊の厚木基地や米海軍厚木基地があることで知られている。2LDKで月77000円という家賃だったのも、基地の騒音故に88000円だった物が値下げせざるを得なくなったためだ。
もっとも私が借りた部屋の場合、下が深夜3時まで営業しているイタリアレストランの厨房の真上であったということも関係していたらしい。蒲団ではうるさくて眠れず、ベッドを購入する羽目になったのものである。
まぁ、そんな大和市のマンションのことはさておいて。大和市の公共交通機関は小田急線と相鉄線。横浜に出るなら相鉄線、新宿なら小田急線を使う。私の借りたマンションはこの小田急線の線路の比較的近くであった。この立地条件が、これから話すことの遠因となる。
小金井のアパートにはもはや本も資料も収納できなくなったため、ともかく鉄筋コンクリートの建物に移住しなければならなくなったのが、97年5月9日のこと。事件は翌年の98年6月に起きた。
記録を調べると日付は6月14日ということになる。この日、池袋でめるへんめーかーさんと坂口氏の結婚披露パーティーが執り行われていた。会場はサンシャイン水族館で、作家、編集者などが多数集まる盛大なパーティーであった。
と、ここまで書いていて再度記録を調べると、私は6月20日にも新宿で霜島ケイさんらと飲み会を開いている。さて、どっちの日付が正しいのだろう? まぁ、ともかく98年6月中ごろの話だ。
パーティーか宴会か、ともかく盛り上がった結果、私は終電の小田急で帰宅することとなった。生憎と片瀬江ノ島行きの最終は数分の差で間に合わず、相模大野終点の小田急に乗る事になる。
この段階では相模大野からタクシーで帰宅する積もりだった。しかし、いざ相模大野駅で降りてみると、タクシー乗り場には長蛇の列ができている。しかも、相模大野くらいになるとタクシーのローテーションは極めて悪い。時間にして深夜の2時近かったと思うが、いつくるかわからないタクシーを待っている気には到底なれなかった。
すでに書いてあるように、我が家は小田急線の沿線に近い。相模大野付近の地理は良くわからないが、線路づたいに歩けば必ず大和までたどり着けるはずだ。計算では1時間も歩けば家に着くはずで、タクシーの待ち時間も同じくらいかかりそうだったので、そのまま歩く事にした。
6月の深夜、そろそろ初夏の季節を迎えるが、この時間帯ならまだ涼しい。終電の終わった小田急線は通過する物もない。駅舎もまた昼間とは違って静まり返っていた。
私も線路沿いに歩いて初めて実感したが、小田急沿線は住宅街とはいえ、深夜ともなると驚くほど静まり返っていた。人の営みといえば、たまに目につくコンビニくらいで、あとは街灯が見えるだけ。
考えてみれば大和市でさえ、ちょっと街道をはずれるとそこには田圃が広がっていたりする。都心とは違って、ここら辺ではいまも夜は眠るものであるらしい。
私の一つの誤算は、沿線の距離の見積もりを甘く考えていた事だった。そう線路は直線では無く曲線であるわけで、曲がっている分歩く距離は長い。だから1時間近く歩いても、ようやく中央林間を過ぎた辺りだった。
恐らくは中央林間の近くだったのだと思う。線路と並行に走る道路に面して、割と新しいマンションが見えた。確かレジデンス・西岡とかいうような名前だったと思う。まぁ、名前はともかく、マンションとしては有りふれた物だ。1ルームマンションというほど狭くはないが、高級マンションというのは無理がある。そんなマンションだ。
マンションは道路からは若干引っ込んでおり、道路とマンションの間は入居者のための駐車場になっている。さすがに深夜ともなると駐車場はどれも車で一杯だ。だから私は彼女と唐突に遭遇する事となった。
彼女は身長は160センチくらい、年齢もたぶん20代前半ではないかと思う。髪は長く、容姿ははっきりしないが美人といってもよかったような印象がある。
しかし、彼女が印象的なのは美人であるからではなかった。深夜の3時近いというのに下着姿でいたことだ。寝苦しいから涼んでいるのでは無い。そもそも涼むならマンションのベランダにでも出れば良いことだ。
彼女は駐車場で一つだけ開いてる場所に、下着姿で四つんばいになり、手でアスファルトの地面を掻こうとしているように見えた。それもだまっているわけでは無く、アニメ声優のような声で何やらぶつぶつつぶやいている。
ここで考えられるのは二つ。彼女は幽霊。あるいは彼女は危ない人。どっちも遭遇したいとは思わないが、昨今のことを考えるなら前者よりも後者が恐い。
私もだから無視して通り過ぎれば良かったのかもしれない。だが彼女が人間か幽霊かを確かめたいという衝動にかられたのだ。だから私は彼女に声をかけた。
「何かお探しですか? 」
幽霊か人間かはわからないが、少なくとも彼女には私の声は聞こえたらしい。彼女は私を物凄い形相で睨みつけると、再びさきほどまでの行為をはじめた。彼女の正体は依然としてわからぬ。
私は走り出して逃げたいと思ったが、北海道にいたときに聞いた熊は人間が逃げだすとそれをきっかけに追っかけてくるという話を思い出し、何事もなかったかのような風を装いながら、ゆっくりと彼女から離れて行った。彼女は私を追っかけては来なかったが、生きた心地がしないとはまさにこのこと。演出したように遠くの夜空に雷鳴さえ轟いていた。
いや雷鳴は演出ではなかった。6月と言えば梅雨の季節であり、雷雨に襲われてもしかたがない。折り畳みの傘は持っていたが、激しい雷鳴の中では出すのは躊躇われた。それに鉄道のトランスに落雷があることは、中央線沿線では珍しくなかった。
もともと稲妻は嫌いではなかったし、家までもう少しということもあって、そのまま雷鳴の中を歩く。しばらくすると向こうに小田急線の駅舎が見える。そしてその方向から誰かが歩いて来る。
よく考えるとこれはおかしい。小田急の最終は相模大野止まりであり、それも1時間以上も前のこと。小田急の駅から人が歩いてくるわけはないのだ。しかし、それに気がついたのは家についてからのことだった。
稲妻の光で、間歇的に前からの人物の姿は見ることができた。彼も落雷を恐れたか傘はさしていない。背広を着て鞄をさげたごく普通のサラリーマン風の人物だ。
私と彼はそれから数分後にすれ違う。正直、さっきの正体不明の女の後ではこういう普通の人に出会ったことで私は普通の生活空間にようやく戻れたような気がした。が、甘かった。
私とすれ違いざま、そのサラリーマンはアニメ声優のような声でこう言ったのだ。
「いよかん」
えっ、と思った時にはすでにサラリーマン氏の姿は闇の中。気がつけば雷鳴もやみ、明りは何もない。
結局のところ、この出来事は何であったのかよくわからない。あれは幽霊で、私の質問にサラリーマンの身体を借りてこたえたとも考えられる。だが「いよかん」を探すのにいくら幽霊でもアスファルトの地面を掘り起こすとは思えない。すべては事実であり、かつまた偶然であるとも考えられる。アニメ声優のようなサラリーマンも含めて。
数日後、私は町田の東急ハンズに買い物に行くために小田急線で中央林間を通過した。そして中央林間周辺にレジデンス・西岡というマンションは確かに存在した。ただしそのマンションの建設工事はまだ終わっていなかった。そして駐車場になるはずの場所には、建設のための資材置き場になっていた。