(二〇〇〇年三月三十日。
木曜日。日本。奈良県西大和にて)
なんの前触れもなかった。突然の当たりだった。瞬間、両腕と心臓に予想もしない強い衝撃が叩き込まれた。
ついにマカジキがかかった。急速に繰り出されていくワイヤー製の道糸が中指を切り、赤い血が竿に飛び散る。くわえると口の中にザラリとした鉄の味がひろがった。
その時、目の端に映る与那国島の姿が唐突に存在感を増した。鼻孔に潮の香りが広った。俺は思わず歓喜のsa
ここまで書いたところで電話が鳴った。
夜更け、というより深夜といった方がよい時間だった。それまで調子よく打鍵していたのだが、急激にテンションが低下してしまった。この場合、果実は熟れる前に落ちた、とでも言うべきか。
(まったく、こんな時間に電話してきやがって、どう考えてもまっとうな奴からじゃないな)
ひどく不機嫌な声で電話に出ると、少し甲高い皮肉な口調の声がいった。
「よお、佐無椀。いったい何時だと思ってるんだ? まっとうな人間は寝ている時間だぜ。どうせお前の事だ、金にならない小説を書いてたんだろ」
こちらが口に出す前にいわれてしまった。友人の皿利だった。こいつとは、学生時代からの腐れ縁で会うといつもこんな口のきき方をする。
「そういうお前こそ、まっとうなサラリーマンのくせしてなんでこんな時間に電話をかけて来るんだ。さては、また馘になりやがったな、まぬけめ」
言葉のジャブを打ち返した。こんなじゃれあいをしばらくするのが、いつものパターンなのだ。が、その日に限ってなぜか反応が鈍かった。
「まさか本当に馘にされたんじゃないだろうな」
「貴様と一緒にするな。それにこれまで俺は馘になったことなんかねえや。人聞きの悪い」
「そこらへんは見解の相違というやつで、議論してもいいんだが、そんな話じゃないんだろ」
「実をいうとな、相談にのって欲しいんだ」
相談とはその日はどうも勝手が違った。
皿利はあるネジを主に扱う商社に勤めていた。商社といっても実体は問屋といった方がいいような、ごく小規模な“おたな”だった。最近の世間一般のように売り上げは低迷し、この先も良くなる見込みは薄かった。
「これからの時代、工場でもインターネットで直接注文を出せばいいんだから、二次、三次の卸というのはいらなくなるんだよな」
と皿利はぼやいた。
「で、あきらめて退職金を出せるうちに店をたたむと」
「うるさい、腰を折るな黙って聞け」
(なんだよ、そっちからかけてきたんだろ)
こういいたいのをがまんして話を聞いた。
将来に渡って生き残って行くために、皿利の会社ではインターネットに活路を求めた。これもまたこの頃の流行だ。なけなしの金をはたいてソフトを買い、サーバーを立ち上げ、LANを組んだ。
そして、OLも含めた全社員にノートパソコンを支給して、形だけは立派な情報技術環境をでっちあげたのだった。
「今回、旗振り役は例の二代目でな」
「ポルシェか」
「そう。あいつ、またクルマを買いやがった」
「ポルシェを亀みたいにひっくり返したのは先月だろ」
「事故ったあと火が入って、もう少しで焼け死ぬところだったのに、懲りないことだ。実際、あのまま焼豚になってくれた方が世のため人のためだったな」
「ちなみに今度は何を買ったんだ」
「さすがに少しランクを落として、5ナンバーのベンツだ」
皿利は皮肉な声で笑った。
会社では確か型落ちのミラを営業車に使っており、その横にポルシェの車が停まっているのを想像すると気の毒になった。
「で、なんの話だっけ」
「“ポルシェ”の提案でパソコンを配ったところまでだ。それで当然の話だが金が無くなった」
本当に当然といえば当然なことだった。
いくらLANを組んだところで、すぐに金になるわけではない。目先に現れる効果といっても、せいぜい少しばかり便利になるくらいだろう。いや、システムに全社員が慣れるまでは混乱するのが常で、かえって不便に感じる事の方が圧倒的に多いはずだ。
「正直な話、仕事量は増えたね。稟議なんかもメールで出すことになったんで、係長は人差し指で真夜中までキーボードを叩いてる。うちくらいの規模ではかえって情報化は百害あって一利なしだ」
「でも高い金を出した手前、ダメでしたでは済まないな」
「特にポルシェがらみだと社長がうるさい。
それにどう考えても、今回の情報化は過剰投資だ。下手するとノートパソコンが退職金がわりになりかねない」
なるほど、かなり厳しい状況であるのは解ってきた、がいったい何をいおうとしているのか今ひとつ掴めなかった。
「そこで経費削減の一環として、社内報を廃止することになった」
そう思っていると、皿利はまた訳の分からないことをいいだした。
「正確には廃止じゃない。これまで印刷に出していたのをメールの形で全社員に送信することになったんだ。そうすれば目に見える経費削減になるというわけだ」
「考えたな。それなら金もかからない。それにお前も含めてあまり周囲へとばっちりもいかなくて済む」
「普通ならな」
皿利の声が低くなった。
「これまで社内報を作っていたのは俺の上司にあたる総務課長だ。なんとかいう俳句の同人で、そういうことが好きなんだ。社内では数少ないましな人だな」
「まし」というのはひどい言い方に聞こえるが、皿利が他人を、しかも年上の人間を誉めるのを初めて聞いた。
性格が過敏すぎて、他人とのちょっとしたやりとりでも心が揺れすぎる皿利は、はっきりいってサラリーマンには向いていない。口には出さないが、たぶん自分と同じようにネクタイを締めた人間を憎んでいたはずだった。
「本当は社内報は廃止の予定だった。そこで課長はポルシェに考え直すよう直訴しにいった」
その過程でポルシェと課長は激論になり、たまたま側にいた社長の逆鱗に触れて、総務課長から倉庫での品出しへ左遷されたという。
「まさかそれに激怒して、また社長を殴ったんじゃないだろうな」
こういうと、皿利は乾いた笑い声をあげた。
「そんなことはしないさ。これからいろいろと物いりになる予定だ」
「そういえば競馬が始まるな」
「違う」
皿利がいうにはこうだった。
左遷される前日、荷物の整理を手伝っていた皿利は課長から頼まれたのだ。
社内報の編集など、周りから見れば取るに足らない仕事ではあったが、自分なりにいろいろと努力してきた。中でも、俳句欄はかなり充実したものだったと自負している。小さなものだが、それなりに歴史も重ねてきた。社内報が私の手から離れるのはしょうがないことだが、俳句欄やひいては社内報自体が潰れてしまうのは忍びがたい。
そこで、頼みと言うよりお願いなのだが、これまでの歴史をふまえできればより良く発展できるよう、君に新しい社内報の編集をやってもらえないだろうか。実を言うと電子的な形で社内報を残すよう手を回した。面倒な仕事で風当たりもきついだろうが、ぜひとも頼まれてやってはくれないだろうか。
といって、課長は皿利に薄くなった頭を深々と下げたという。
「それで、引き受けたわけか」
「頼まれたからしょうがないさ」
少し、意外な感じがした。皿利のこれまでの言動からすると、どのようなしがらみがあったとしても、このような面倒な話はまず引き受けないはずだった。
「それで、来月から社内報を作ることになったのだが、ところで俺からのメールはそっちに届いているよな?」
そんなものは来ていない。といおうとして、思いついてゴミ箱のアイコンをクリックした。
「『佐無椀宛』というタイトルのやつか?」
「そうそれだ、でどうだった」
電話の向こうで明らかに期待している気配があった。それを無視してことさら冷酷にいった。
「すぐにゴミ箱に捨てたよ。中身なんかみるもんか」
皿利のひどく不満そうな舌打ちが聞こえた。
「差出人不明の『読め』とだけ書かれたHTML形式メール。そんなやばそうなものにくっついてきた、訳のわからない添付ファイルなんか、まともな神経を持った人間なら絶対に開けない。見て欲しければ署名くらいは本文にいれとけ」
「そうか、そういうものか」
このレベルで情報化をするというのだから、社内での混乱が容易に想像できた。皿利がなにかぶつぶついっているのを無視して、怪しい添付ファイルを開いた。
『部品流通と日本の針路に対する考察』
このタイトルを見て思わず天を仰いだ。と、天井にハエが張り付いているのを見つけた。やはり手をすっているのだろうか。思わずまねをして手をすってみたりした。
「どうだ、昼間に一日かけて書いたんだ。編集を始めるに当たって一つガツンといってやろうと言うわけだ。」
皿利はこっちの気分などお構いなしに、うれしそうに話し続けた。
「こんなに一生懸命書いたのは、学生時代の卒論以来だな。それだけあって自分が書いたというのを引いても良く書けていると思う」
一方的にしゃべり続ける皿利の声を聞き流しながら、画面をスクロールさせていく。幸いなことに、文字の列は永遠には続かなかった。
「で、これを見てどうせいというんだ?」
こう聞くと、皿利は少し不安そうにいった。
「だからさ、一応まがいなりにも文章を勉強なさっている佐無椀氏のご意見を伺うことで、少しでも良いものにしたいということだ。でどうだった?」
皿利の質問には答えず代わりにあることを聞いた。
良い文章とはいったいなんだ?
「そうだな、まず読んでみて面白いことだ。またせっかく読むんだからなにかためになるものがいいな。それと文章読本によれば全体にユーモア感覚にあふれたものがいいらしい。個人的にはあまり凝った文章は読んでいて鬱陶しいから、水のようなごくあっさりしたものでいいよ」
皿利の文章に対する感覚はそんなに悪くなかった。いやむしろいい線いっているというべきだろう。それにしては書いたものの出来がひどい。誰かの“眼高手低”という言葉をふいに思い出したりした。
「皿利よ、締め切りはいつだ」
「余裕をみてこれから一週間後というところだな」
(一週間か、どう考えてもその十倍は必要だな)
「どうだろうもう少しくだけた、たとえば椎名誠みたいな雰囲気でもよかっただろうか? それともちょっときざかもしれないが、伊集院静の路線でいくとか? おい、佐無椀、なんで黙っているんだ?」
のんきな皿利の声を聞きながら思わず頭を抱えてしまった。
皿利を含め普通の人は文章を書くためには、肉体的な反復訓練が必要だ、ということをまるで解っていない。確かに、単語を並べればまがいなりにも文章は出来るが、皿利のあげたような一流のプロが書くものとはまったく質が違うものだ。
同じ“猫ふんじゃった”でも、子供が遊びでピアノの鍵盤を叩くのと、ルビンシュタインが弾くのでは明らかに別ものだ、といえば解るだろうか。
また肉体を使うという点では、プロスポーツ選手と同じように、向き・不向き、もっと言えば素質が存在するのも確かだった。
そこで、でもと考え直す。
別に皿利はメジャーリーグでNOMOの球を打たねばならない訳ではなく、せいぜい金の賭かった草野球レベルなのでそこまで要求することもない。
(それならば、なんとかなるのではないだろうか)
そう考えると少し気が楽になり、少しずつ言うべきことの方向が掴めてきた。
「いいか、皿利。まずこの『部品流通と〜』というタイトルだが、これだけで大体の内容が想像できたし、ざっと目を通しただけで予想通りなのがわかった」
「佐無椀氏は部品流通にも一家言ある、と」
「いや、ただ単に何も内容が無いことを確認しただけさ」
皿利は絶句しが、かまわず続けた。
「日経とどこかの業界紙からの孫引きを継ぎ接ぎして、ニュースキャスターの捨てぜりふを全体にまぶして出来上がり、というところだな。これならどこかのHPの日記作成CGIの方がはるかにましだ。両方とも意味はないが、あちらは笑えるし、とにかく短い」
ここまで、いっきにいうと皿利の反応を待った。かなり怒っているようだったが、発した言葉はこうだった。
「俺もそんな気がしていたんだ。はっきりいって、こいつは面白くないな」
実に皿利らしい言い方だったので、思わず吹き出してしまった。それは向こうも同様だったらしい。しばらくふたりで笑い転げた。
笑いが治まってから皿利にいった。
「そういうと思ったよ。だが少し心配した。だれでも自分の文章をけなされると平静ではいられなくなるからな」
「まあな。ただお前のいった事は、全部自分に返って来るわけだから、佐無椀もつらい立場だな」
皿利はさも気の毒そうにいった。
「そうさ、他人の文章を批評するというのは、俺にとってはバンジージャンプ以上の大冒険なんだ」
さすがに皿利はよく解っていた。だから嫌な奴なんだ。
「でも、これからどんなものを書いたらいいかな」
皿利は呟いた。これならばアドバイス出来た。
「とにかくタイトルに“日本”とか“流通”とかいう大きな言葉を使わないことだ。“民主主義”、“人権”とかいう表題の文章でいいものはまずないな」
「“平和”、“国家”なんてのもダメダメか」
「網の目がでかいと魚はみんな逃げてしまう。自分の面白いと思うことを、具体的で身近な言葉で書いたものに、よい文章が多いな」
「でも、最近面白いことなんかないがなあ」
そうか、といいかけてふと閃いた。
「あるじゃないか、この前話していたバイアグラ部長」
皿利は声を潜めていった。
「あれから新展開があった。現在部長は心筋梗塞でICUに入っている。しかも、倒れたのは自宅じゃなかった」
「そういうことか」
「そういうことだ。病院で夫人と二号が鉢合わせ。間に入ったインターンがとばっちりでぶん殴られた」
「そりゃ、絶対面白い。そういうのを書けよ」
「出来るか。社内報だぞ。それにこんな事は出入りの佐川急便の兄ちゃんから、喫茶店のウェイトレスまでみんなに知れ渡ってる」
「残念だな。でもまた状況が変化したら教えてくれ」
これまでならこの案にすぐ乗ってきたのだがやはり立場があるようだった。
「しかし、皿利。お前も大人になったんだな」
面白くないので、少し意地悪くいった。
「そりゃそうだ。いわなかったか、こんど子供が産まれるんだ」
それは初耳だった。
皿利が父親になるのか、だとすると母親は……。
「おい、念のため確認するが母親は誰だ」
「そういうと思った。だから連絡しなかったんだな。うん、よくわかった。じゃあな」
「真面目に答えろ、皿利」
電話の向こうで皿利は押し黙った。
「美保がな、どうしても産みたいというんだ」
でも心臓が、といおうとしたのを遮って皿利は続けた。
「医者も両親も反対した。俺も初めは反対だった。でも二人でいろいろと話し合った。それで決めたんだ」
その声からは、困ったような、そのくせ少しばかり誇らしげな気持ちが伝わってきた。
「確かに、やばい。子供どころか母親も一緒にダメになる可能性があるのも承知している。でも産みたいって泣かれるとな」
しばらく、沈黙が流れた。
「そうか、そうなると出産祝いを考えなければならないな」
こういうと、皿利はいつもの皮肉な声でいった。
「失礼ながら佐無椀のセンスにはまるで期待していない。できれば現金が有り難い」
「手前えにじゃねえ、美保ちゃんと子供にだ」
「俺の子供でもある。そういうわけで、しばらくは辞表を叩きつける訳にいかなくなった」
皿利の言動に感じた違和感の正体がわかった。そうか奴も父親になるのか。それならば……。思いついたことを皿利にいってみた。
「もし良ければ、奥さんと話した事について書いてみないか? とてもいいものが書けることは保証する」
「でも、そんなもの面白いと思う奴がいるかな?」
「少なくとも、ここに一人。そしてこれから生まれてくるもう一人とあわせて、二人はいる」
「そうだな、考えてみてもいいな」
皿利は少し照れたようにいった。
「でも、社内報には使えないぞ」
それはそうだった。何か手はないだろうか。例えばこれまで話してきた事で使えそうな事は……。
「書ける事が、あるじゃないか」
思わず声が大きくなった。あまりに簡単な事を見落としていた。
「? なんだ?」
「これまで話してきた、社内のコンピュータ化で起きたトラブルについてさ。具体的な事例は山ほどあるし、失敗談というのは第三者にとっては実に面白い」
「しかも、読んでいる人間にとっては、自分以外にこんなドジな野郎がいるということで精神安定剤としての効果もある」
「つまり、役に立つということだな」
そこで少し考えてから、皿利はいった。
「そのトラブルに対する対処法も載せたら親切だな。たとえば、さっきのHPML形態とやらの解決法とか」
「HTML形式だ。まあ、わかる範囲で協力するよ」
そういうわけで、なんとか話はまとまった。
電話を切ったときには時計の針は既に、夜明けを示していた。
雨戸を開けると、空はかなり明るくなっており、東の山の端が淡い朱色にそまり始めている。配達を終えた新聞販売店のバイクが走っていく。
このまま少し眠ろうかと思ったが、皿利は今日も仕事だと思うとなんとなく眠るのがためらわれた。
そこでリターンキーを叩いて、パソコンの待機状態を解除した。
追記:この皿利の編集した電子社内報は好評をもって迎えられた。おかげで皿利は一定の発言力を確保する事が出来、ポルシェからの俳句欄に対する意見も平然と受け流せた。
ただ問題もあった。この記事の影響で皿利はコンピュータ通と誤解され、社内のシステムを組んだSEとの折衝を任されることになってしまったのだが、それはまた別の話だ。
『HTML形式メールと日本の針路に対する考察と展望』 最初にHTML形式のメールを送信することによる社会への弊害について述べる。その後、余裕が有ればこの問題に、さらに悪しき慣習と自己中心的なメーカーやユーザーに立ち向かう方法について考察する。
HTML形式のメールとは、HTMLを用いテキストメールでは表現できない文字の飾りや整形、画像などをメールで送るための手法である。 (阪本) |