漁師は宇宙でも喰って行けるか

川崎[漁師]博之

おはなし・その一

 この話は、1991年1月19日に発行された人外協東京支部紙・集刊甲洲画報に載せられた林[艦政本部開発部長]さんの原稿『空の戦略情報収集大要塞・ぎょぴちゃん』を使わせていただいてます。本来なら事前にご本人の了解を得ていなければならないのですが、この場をかりて非礼をおわびするとともに事後になりましたが御許し願います。

 さて、動乱の最中に外惑星連合の科学者・キャサリン博士が開発したというニュートリノ検出機能を持った『空の戦略情報収集大要塞・ぎょぴちゃん』ですが、戦争中はその本来の戦略目的−航空宇宙軍の航宙船の動向探索−には使用されなかった(出来なかった)ということです。
 動乱終結後、このぎょぴちゃんの処分に関して航空宇宙軍内でいろいろ検討されたようですが、ニュートリノ検出機器としての価値は次世代のより高性能のセンサーが開発されていたこともあって特に必要とされませんでした。しかしせっかくの直径500mもあるとうめいの球形水槽で、純水で満たされているとあってはただ壊してしまうのももったいない。何かに有効利用出来ないかという話しになり、外惑星の人々の過酷な背斑鳩環境にそして戦後の荒んだ人々の心に潤いをあたえるものがいいのではということになる、「宇宙水族館」はどうだろうかという案が出されました。外惑星で生まれ育った若い世代の多くは一度もまだ地球を訪れたこともなく、当然海を見たことがありませんでした。地球の海に対する憬れはそうした地球を知らない世代はもちろんのこと、ながらく地球に返っていない駐在者達が渇望したのは、あおあおとした水の惑星・地球の姿・水っけのある世界でした。
 航空宇宙軍は、外惑星の人達に潤いをあたえるという意味のほかにも、憬れの海=地球を思い浮べさせずにはいられない「宇宙水族館」は地球進行を高め維持するという政治戦略的にも大変有意義な事業であるとして、ぎょぴちゃんを増産しました。ぎょぴちゃんを都市の内部に持込むには巨大過ぎましたから、すぐ脇に張られた天幕の中に運び込まれました。
 人工海水が注入されたぎょぴちゃんで変れる魚種の選定ですが、カラフルな熱帯系の魚が喜ばれるだろうと考え、水温も24度前後に保つように設定しました。ただぎょぴちゃんの巨大な水槽内では少々の魚の数ではかえってもの寂しさを感じさせてしまいます。しかも地球上から持出される生物資源に関しては厳しい条件がつけられますし、許可される種にも限りがあります。最終的に絞られた魚種の中に無重力状態での人工飼育、人工孵化に成功していたマンボウ科マンボウがおりました。地球の海洋では成長すれば体長3mにもなるマンボウですが、地球−月間科学研究都市の無重力生態調査センターの研究によれば、低重力下では飼料、水温などの生活条件によってかなりの大きさまで成長を続けるだろうと予測されていました。この時の実験水槽は直径10m、深さ5mの円筒形のものだったそうですが、それでも体長5m、体高2.8m(背鰭、臀鰭は退化傾向にあったとのこと)に達したそうです。もちろん成魚体長の巨大さの点では、ジンベイザメ科ジンベイザメ、ウバザメ科ウバザメなどのほうが勝っているいるのですが、低重力、無重力下での人工飼育場の難しさがありました。サバ科マグロ属、マカジキ科、メカジキ科などの地球の海洋を大回遊する大型魚類は、海洋を大回遊していく彼等の本能が地球の海から離れて生存していくことを許さなかったのか、無重力下の環境での飼育には失敗していました。
 このセンターで生産されたマンボウの種苗と飼料用のクラゲが外惑星に搬入され、ぎょぴちゃんのお腹の中に放たれました。一年後に一般公開されたのですが、もう人々の熱狂はそれはそれはすごいものだったそうです。まさに砂糖に群がる蟻のように観客はぎょぴちゃんにへばりつき、驚くほど大きくまんまると成長したマンボウに感嘆の声をあげたそうです。一日の観客数が最高34万8千人に達したこともあるそうで、驚異的な人気を集めました。
 ただこの人気も、戦後の復興が進み人々の日常も毎日の業務に追われるようになってしますと急速に醒め始め、だんだん水族館を訪れる人も少なくなってしまいました。また都市の拡張工事が盛んになってきますと、ぎょぴちゃんの存在そのものがじゃま扱いされるようになり、これまで人々の心を慰めてくれたぎょぴちゃんを貴重な水資源の無駄使いだといって壊してしまおうとする動きさえ出てきました。
 このぎょぴちゃんの窮状を救ってくれたのは、その時外惑星域にも天然食料供給網を広げようと地球から視察に来ていた航空宇宙軍御用達アモウ食品会社の若社長であったということです。
 「なに!この水族館をじゃまやから壊すやと。マンボウはどないすんねん。どないしましょか?やと。アホンダラ!!ちったあアタマつこうたらんかい。喰うたらええやないか。水っぽおてうもうないやろてか?このわしが喰うてみいゆうて、うもなかったもんがあるか、えっ。腹の中のとこなんかきれいなはだいろしとってな、刺身で喰うたらたまらんで。上品な味しとってな…。そや、ええこと思い付いたで。このぎょぴちゃん払い下げてもろてやな、マンボウの養殖生け簀にしたらどないやろ、鮮魚なんて外惑星では絶対手に入らへん…。もうかること間違いなしや!!」
 この狙いは見事に的中しました。ぎょぴちゃんはまた増産につぐ増産です。アモウ食品会社は、マンボウ以外のスズキ科アラ属アラやらハタ科マハタ属クエなどの改良品種を新たな養殖用魚種として持込み、また数の増えすぎたぎょぴちゃんの管理場所に借地の土地では手狭になってきたことと、魚達は無重力状態により近いほうが巨大化することがわかり、ぎょぴちゃん養殖生け簀は、航宙船の航路を遮らないよう各衛星都市の上空に打ち上げられました。
 こうして、養殖生け簀化されたぎょぴちゃんたちは、再び宇宙空間に浮ぶことになったのでした。ただ今回は、高価な自動航宙機器は経費を切詰めるために取り付けられていませんでした。そのこともあってか、安定した宙域に留まらずふらふらと移動してしまうぎょぴちゃんも出てきました。
 中には木星や土星の重力に引き込まれて落下していったものも数多くありました。どうしたことか主星の重力圏からも抜け出し、内惑星域や太陽に向かって落下してくるものさえありました。貴重な食料資源の損失を黙って見過すことはできません。といって、ぎょぴちゃんだちの全てにいまさら高度な航宙機器を取り付けるには数が多すぎました。そこで、ぎょぴちゃんたちから魚を回収してくる宇宙の漁師さんたちが登場するのです!!!。ぎょぴちゃんは養殖生け簀の名称としてこれまでは使われていたのですが、これ以降宇宙空間で飼育された魚もぎょぴちゃんと呼ばれるようになりました。ぎょぴちゃんを獲るのが宇宙の漁師さんたちです。彼等は、それぞれ所属する衛星都市国家から宙域漁業権の営業許可を取得し、各漁業組合に属し主星漁業組合連合会を組織するようになります。また管理下にある養殖生け簀や他星域での掠奪などを防ぐためにも漁業法が整備され、違法な漁業者を取り締まるために各星域保安庁を設置し、巡視航宙艦がそれぞれの管区宙域にて監視航宙するようになりました。
 このことは、第一次外惑星動乱後航空宇宙軍によって外惑星宙域の航宙船の航行と警察・軍事に関し厳しい監視体制下に置かれていた外惑星諸国に、非力とはいえ武力を持った航宙船の航行を許可し多少なりとも宙域での自治権を開放したことになりました。戦後も遠くなったということなんでしょうが、しかしこれを契機に外惑星諸国が軍備を再度整えはじめ、やがて第二次外惑星動乱に結びついていったとは、時の林・外惑星進駐軍司令官も予測できないことだったでしょう。ましてや、その動乱の始るきっかけになったのが、ぎょぴちゃん母星権をめぐる内惑星と外惑星の漁業交渉が決裂した結果であったとは…!?。
 そのはじまりは、こんな小さな喧嘩から始ったのです。
 「おどれら、どこのもんじゃい!これはわしらがつかまえたぎょぴちゃんやど」
 「なにぬかす!背鰭のマークがみえへんのか。ちゃんと外惑星連合のしるしが入っとるやろが。ワレ、目ん玉ついとんかい!」
 「それがどないしたちゅうねん。ここをどこやと思とんじゃ、アステロイド・ベルトや。外惑星の田舎漁師がちんたらちんたらくるとことちゃんど!」
 「勝手なことをぬかすな。それをいうなら、ここまでぎょぴちゃんを育てたんは誰やと思どんじゃ。盗人がえらそうなこというんやないわい」
 「盗人とはいうてくれるやんけ。ほんなら、ぎょぴちゃんのもともとの種苗は地球から持出したもんどちゃうんかい。もともと地球のもんを地球の漁師がとって何が悪い。何が盗人や。寝言いうてるんやないで」
 「地球の漁師やったら、自分とこの海でしこしこ魚とっとたらええんやないか。何を血迷うてこんなところへボケ面さらしに来とんじゃ」
 「こいとけ。おまえら地球のこと何も知らんくせに。いまじゃ水産海洋生物保護法ちゅうのがあって、政府機関の調査採集しか認められてえへんのじゃい。漁師やって喰うてくために宇宙に出てかんとしゃあないんじゃ」
 「それやったら、おまえらも自分でぎょぴちゃん作ったらええやないか」
 「アホか、机の上にある書類しか目に入らんお役人連中がわいらのこと考えてくれると思どんか。お目出度いやっちゃで。それにな、ぎょぴちゃんは太陽光の影響下なんかしらんけど地球の近くじゃあんまり大きいならへんねん。やっぱりぎょぴちゃんは外惑星産に限るちゅうて、ええ値で取引きされるしな」
 「そんなん、わいらの知ったこっちゃない。ぐちゃぐちゃぬかすな。おい、みんな、いてもうたれ!!」


 ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ…。
 宇宙に“山師”がでていて“漁師”がいないのが寂しかっただけなんです。
 でも、戦争ちゅうのは結構しょうむないことでもきっかけになる気がしませんか。
 結局、戦争しようとする意志があるかどうかということで…。
 「意志あるところに道は通じる」ちゅうて…(こんなふうにつかわへんやろけど)。


おはなし・その二

 「おい、起きろよ。ワッチの交代だよ」
 「…ンッ…ン…」
 彼は唸りはするものの、目を覚ます様子はいっこうになかった。無理もない、こんな小さなマグロ延縄漁船に乗り組んだのは、彼にとって初めての経験なのだから。夜明け前から始る投縄、夜半にまでおよぶ揚縄、揺れる船内での炊事、機械油や体臭、魚の匂いが入り混じる異様な匂いが染み付いた寝返りも打てぬ寝床。こんなところに初めてやってきたのだから、彼は疲れきっているのだろう。最初は、これは人間の寝る場所かとあれほど文句をつけていたくせに、今はこの極楽から抜け出る気はこれっぽっちもないと頭まで毛布を被って眠りこけている。しかたがない、僕がこのままワッチを続けよう。どうせ今回の漁は終了したのだ。彼が目を覚ます頃には入港していることだろう。
 彼がのそのそと寝床からやっと抜け出してきたのは、母港まであと1時間足らずとなった頃であった。
 「んーっ、…はよ。あれっ…、みんなは?」
 「とっくに起きて甲板に出てるって。もうすぐ入港だよ」
 「入港だって?でも予定じゃまだ漁は続けるはずじゃなかったのか」
 「残念ながら、あんたあてに緊急の無線が入ったのさ。大至急帰ってこいってね」
 彼は一瞬何を言われたかわからないという顔をしたが、次の瞬間猛烈な勢いで、あの豚野郎がどうせ糞みたいなことを思い付いただけなんだ、そんなこたあ知っちゃいねぇ、おれの大事な安息日をどうしてくれると狭い船室内で吠え狂った。
 「落着けって。ほらこれを飲みなよ」
 マグカップのコーヒーを手渡した。
 「悪いけどここには酒はおいてないんでね」
 「ああ、すまない。怒鳴っちまって。あんたに聞かせることじゃなかったな」
 「いいさ、言いたいことは何でも言えば。陸に上がればそうはいかないから…」
 「そう言ってくれると助かるよ。あっ、ここで煙草吸っていいもいいか」
 「いいけど、もう入港する頃だから甲板に上がらないか。しばらく見納めの港の景色を眺めながらの一服も悪くないと思うよ」
 二人そろって甲板に上がってきた時には、我々の乗った船は起きに延びた防波堤を迂回し冷凍倉庫の立並ぶ埠頭へと廻り込んでいるところだった。
 「いやんなるぜ。お勤めも楽じゃないな。どうせ水っ気も、人っ気もなんにもないところにまた出てかなきゃならないんだ」
 彼は煙草のけむりを吐きだしながら、また愚痴をこぼした。
 「そうとも限らないじゃないか」
 気休めにしかならないことを言ってみた。彼がヒマリアの重力波観測所の交代要員として呼出しを受けていることを僕はすでに知っていた。何故緊急指令が出されたのかはわからないけれども。
 舫綱がかけられゆっくりと船が接岸した。埠頭に降立った彼は、甲板上に立っている僕を振返って手を振った。
 「ありがとう。楽しかったよ。今度は小さなカヌーでのんびり川下りってのをやってくれないか。今度って、何時になるかわかりゃしないがな」
 いいよ、待っていると僕は答えた。じゃあなと言って歩き出したが、彼の足許は少々あやしげにふらついて、すっとんきょうな声を上げた。
 「へっ、スポンジの上を歩いているようだぜ。なんて踏み応えのねえ地面なんだ。俺、酔ってるのかい。酒も飲んでやしないのに!?」
 「そう、少しね。陸酔いってやつでね。しばらく何時も揺れている海の上で暮して、今度は動かない陸に上がってくると、身体の方が勝手に揺れちゃうってやつですよ」
 彼は、へぇそんなものですかねって顔した。そして、もう一度僕に手を振るとドアを開けて僕の部屋から出ていった。彼の足許がおぼつかなかったのは、決して陸酔いのためではなかった。緊急指令に応じるために、通常の覚醒手順を踏まず夢醒剤をコーヒーに混入して飲ませたからだった。2時間ほどはあの状態が続くだろう。
 ここしばらく誰も僕の部屋を訊ねてこない。何かが外の世界では起きているのだろうか。人々が安息日もとれないようなことが。僕には確かめる方法が無い。僕はこの部屋から出ては行けない。僕の部屋に繋がれている情報回路は厳重な保護処置がとられ、少なくとも僕には外部にアクセスする能力は与えられていなかった。しかし、外部とのコンタクトが取れなくとも、僕はなんの痛痒も感じてはいなかった。外の世界がどう変ろうと、時が移ろっていこうとも、僕には僕の世界がここにあった。
 バディチェックを済ませバックロールでボートからエントリーした。一瞬空を見下ろし、僕は海中にあった。少し流れが強い。アンカーブイの係留索を伝って潜行する。耳抜きを繰返しながら水深18メートルのアンカーが打ち込まれている海底まで降りた。相変らず透明度のいい海だ。水中カメラの焦点距離、絞り、ストロボがオンになっているかなどを再度確かめた。今日は広角の20ミリでカスミアジ、バラクーダの群れを撮ろうと考えていた。だからリーフの切れ目の少々流れのある回遊魚の廻ってきそうなポイントを選んだ。バディに合図を送り潮の流れに逆らいながら見当を付けたもう少し深場の撮影ポイントに向かった。目指すポイントにたどり着いたとたんに、ツムブリの群れが急激に落込んでいる傾斜面の底から僕の目の前に湧き上がってきた。夢中でシャッターをきる。発光するストロボ。一瞬の人工照明に煌めく魚鱗。その時なにかが僕の中でも瞬いた。
 「誰?」
 一瞬恐慌状態に陥ってしまった。誰かが呼びかけた気がしたのだ。誰も居ない僕の世界のはずなのに。
 “…あ、ヴ…ちが…う、あな…たは…、だれ?”
 声が遠くにあった。まだ僕は自分の記憶の深くに潜り込んだままだった。スキューバーダイビング中の急激な浮上は潜水病の原因となるように、記憶からの浮上もまた慎重に行なわなければならなかった。記憶の回路が詰ってしまい、二度と想い出せなくなってしまうのだ。パニックになって急浮上し僕のお気に入りの世界を台無しにしたくはなかった。陽光のきらめく海面はまだ遠くにあった。焦るな、落着けと言聞かせながら浮上していった。
 僕は海面を突き抜けレギュのマウスピースを吐き出した。一つ大きく深呼吸し、僕は僕の部屋に戻ってきていることを確かめた。
 “いったい誰なんだ。あんなところで僕に声を掛けるのは…”
 見えない誰かに向かって毒突きを喚き散らしているうちに少しづつ落着いてきた。僕は無事に浮上出来た。潜水病が出ることはないだろう。
 “あなたはだれだって。失礼なひとだな、まったく。僕の中に外からアクセス出来る人が、そんなこと、訊かなくたって…”
 そう怒鳴り返してやったところで気付いた。こんなコンタクトはありえないことに。外から僕の中に呼びかけることの出来る人でも、僕が潜っていたあの場所には絶対に声をかけることはできない。生身の人間がそこまで潜り込めるはずがないのだから。コンピュータ回路によるアクセスでも僕の気配を察知するだけが精一杯のはずだ。僕と同じように人と機械の脳力をもたない限り、声をかけるのは不可能なのだ。
 “ごめんなさい、わたしの知っている人かもしれないと思って”
 今度は、はっきりと声が聞こえた。優しげな女性、のような気がした。
 “知合だって?まってください。何を言っているんですか。それより、何故貴女は僕に声をかけることが出来るんです。普通のひとがこれるはずのない場所だったんですよ。それなのに突然声が聞こえたもんだから、もうパニック寸前だったんんだから”
 僕は一気にまくしたてた。急浮上しかけた恐怖より、あそこにいた僕に話しかけることの出来る人がいた驚きに興奮しきっていた。そのひとはくすっと忍び笑いを洩らした。みたいだった。
 “何故あなたに声をかけられたのかですって。わたしも、そうあなたの言葉でいえば二つの脳力を持っているから。そして、わたしが捜し続けているのもそうした人達なの”
 僕は彼女の話しをじっくりと聞きたくなったが、このまま頭の中にむかって話し続ける、アクセスされた回線にむかって話すのは苦手だった。それにどんな女性なのか会ってもみたかった。
 “そうね…、まだ誰も私の侵入に気が付いてはいないみたいだし。では、あなたのお部屋におじゃまさせていただくわ。わたしの姿を見て驚かないでね”
 あっさりした殺風景な僕の部屋を、明るい壁紙に変え一面を天井まで届く窓にした。そこのバルコニーからは、眼下に穏やかな海が見える。遠く近く潮騒が部屋の中に響く。装飾品にまで気がまわらなかったが熱いミルクティーのポットを用意するのは忘れなかった。彼女はバルコニーの窓から部屋に入ってきた、その姿を見た時には、正直なところ僕はショックをうけ、また彼女の無神経さに腹立たしい思いを感じた。
 「ごめんなさい、この女性があなたの大事な思い出なのはわかっていたわ。でもわたしにはあなたの世界に安定して再生出来るような人格を持ってないの。わたしの姿をありのままにあなたの世界に映すことは、あなたにとっても苦しみを与えてしまう、と思うの。だからあなたの思い出を少し覗かせてもらったわ、確かなディテールをもっているひとの姿を借りたほうが安定するから」
 彼女はあのひとと全く同じというわけではなかった。ちょっと大人びた落ち着きがあった。あのひとと、5、6年後に再会したらこんな女性になっていたかもしれないと思わせた。僕の中のあのひとは、何時までもあの時の姿のままだったから。僕がそう望んだから。だからこそ触れられたくはなかった。
 「そういう事情なら仕方ないでしょうけど…」
 不機嫌さがもろに出てしまった声で、僕は答えた。
 「じゃあ、他の女性の姿を借りてきましょうか?あなたの想い出に詳しいディテールが残されている女性ってあまりないようね…。そうね、あなたの母親の姿でも借りた方がよかったかしら?まぁ女性に限ることはないでしょうし…」
 彼女はそう言って入ってきた窓から出ていこうとした。冗談ではない。母親の説教口調で話しなど聞きたくもなかった。それに彼女の言う通り、彼女のような脳力の持主に耐えられるディテールを残した女性の想い出など、僕にはほとんどなかった。僕は自慢出来るほどの交友関係を結んだ人々は限られている。 「待って!いいから、そのままでいいから。ちょっとびっくりしただけだから。いかないで。熱いミルクティーもあることだし、よければケーキかなんかも…」何を言っているのだ僕は。とにかく焦って彼女を呼止めた。あのひとの名前を叫んでしまった。振向いた彼女の顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。僕には馴染み深い笑顔がそこにあった。
 「ふふっ、それじゃ熱いミルクティーをいただこうかしら」
 僕はミルクティーのカップの一つを窓際に立止まった彼女に手渡し、そのまま僕たちはバルコニーに出て話しを始めた。
 「ところで、貴女の名前は?」
 「思い出せないの。誰かが勝手につけた記号はあっても、それはわたしじゃないわ。さっき叫んだあのひとの名前で呼んでくれてもいいわ、あなたさえよければ」
 その名は僕にはあまり人目に晒したくない部分を呼び覚まし過ぎた。
 「想い出の名前は言いたくない。僕自身の自我っていうのかな、そこは頑丈なブロックがかけられたままでね。人間の‘私’が個人として考えることは許されていないんだ。自殺防止ってやつかもしれないな。ヴィップ(Virtual Image Psychoanalyzer)−虚像精神分析機というのが僕の名だけど、誰もそう呼ばないな。‘オールドマン’とか‘覗き屋’とか、みんな適当に言っている。もちろんこの部屋では、患者さんたちの呼びたい名前が僕の名前になるけどね」
 「じゃぁ、オールドマン、あなたは精神医療機器として開発されたってわけ。どこの誰に?」
 「いや、はじめから医療機器として開発されたわけじゃない…と思う。それに‘私’の記憶では、僕は心理学者でもサイコセラピストでもなかったしね。僕はもともと地球の惑星開発局の人間だったんだ。途中で航空宇宙軍に配属されたけどね」
 「惑星開発局…、航空宇宙軍…」
 「ああ、最後はオーストラリアのヨーク岬にあるスペースシャトル離発着基地へね。暇を見つけてはグレートバリアリーフとかインドネシアのバンダ海、ニューカレドニア、フィジー、ソロモン諸島とかに潜りに行っていたみたい。それまでもいろいろと転勤してきたみたいだけど、何故か海の近くばかりでね。それにみんなは忙しそうだったけど、僕には少なくとも潜りにいける時間はたっぷりあったみたい。時には漁船に乗組んで漁に出かけることも出来たし…。どうしてなのか考えもしなかったけどね」
 「そんなあなたが、どうしてここに居るはめになったの?」
 「いつだったか、地球−月ラグランジュ点上にある航空宇宙軍の衛星研究所に出張命令をうけてね…。それからの経緯は全く記憶にないみたいなんだ。その研究所で‘私’は僕になったんだろうけどね」
 「何のために、あなたが創られたというの」
 「さぁ、わからないな。‘私’自身への問い掛けはなにかと制限されていてね。安全上の問題もあるし。僕は自分の存在理由を自問したこともないから。医療機器として開発されたんじゃないと思っているのは、僕はここでこの部屋に入ってきた人達に地球での想い出を細部にわたって再現し語りかけているだけだしね。宇宙生活に疲れた患者さんたちが望む世界、記憶の中の世界の再現をバックアップするだけで、なにかを治療するわけじゃない。僕の世界は彼等の世界に一緒に入っていって、なんだかんだと話しをするだけなんだ。でも想い出を語る、それを共に感じてくれるってのはすごく楽しいんだと思う。同じ風の音を聴いて、水の冷たさや陽光の暖かさを感じ、街のざわめき、路地にたちこめる食い物の匂いを嗅ぐ。語り、笑い、怒り、泣き、見つめあう。患者さんたちはそれで結構自分たちの心を慰め癒すことが出来るんだと思う」
 「でもあなた自身はそれで満足できるの。あなたはここに居るだけなんでしょ。あなたは自由が欲しくないの。外の世界に出たくないの」
 「自由か…。僕は外の世界に興味を持てなくなっているんだ。強制されている部分もあるだろうけど、‘私’だったときからそうだった。僕にとっての世界はここで充分さ」
 「あのひとを忘れたくないのね。あなたのお気に入りのあの場所にいる」
 彼女は覗き見てしまったあの人の想い出の断片を再現してみせた。笑って、拗ねて、怒って…、あの時のあのひとがいた。でも、あのひとは…。
 「やめてくれ!これ以上、僕に。‘私’に、わたしたちの想い出に、触るな!」
 瞬時に僕の部屋から風景が消え去った。暗灰色の壁に囲まれた殺風景な何もない部屋に、コード類をぶらさげた涙を流す僕の人工体部だけがぽつりと残された。呼出しを続けている電話の音が何時までも繰返し僕の耳に聞こえていた。この部屋に電話など置かれていないというのに。あの場所に一刻でも早く帰りたかった。しかし、ファックスから吐き出されるメッセージ。つながらない電話の発信音、額縁のなかから微笑むあのひと、部屋の壁に掛けられていた真新しいウエットスーツのゴムの匂い、脈絡のない断片が、僕をこの場に立ち竦ませていた。
 “だい…じょうぶ?あなた自身の保護機構が、これほど強く働いているとは思わなかったの。強制された外部プロテクターだけだと…。悪かったわ。そうよね。誰にだって触れて欲しくないことってあるわよね”
 僕の中で彼女が言った。その声で僕は暴走しかかった‘私’に落着きを取戻すことができた。
 “いや…普通はこんなことにはならないんだけど。貴女は僕に近付き過ぎているから”
 “でも、あれ程大切にしているひとなのに、ずっとそばで想い出したくないの” “僕が簡単に想い出せる領域は、繰返し再現しているうちにどうしても患者さんたちの想い出と干渉し合って、余計な人格がついてしまうんだ。あのひとにはそうなって欲しくないから…”
 “そう。さっきのあのひとと一緒に潜っていた海は、そんなに大切な秘密の想い出の場所だったのね”
 “ちがう、あれは二人の想い出の場所じゃない。あのひとはまだ潜れなかった…。やっと一緒にダイビングにいこうと約束して…”
 想い出してしまった記憶の断片を彼女に見せた。沈めてしまうはずだった記憶を。
 “あ…あ、ほんとうにごめんさない。わたしが干渉してしまったから、あなたは忘れようとした記憶を引戻してしまったのね。私は…、わたしはわたし自身の記憶をすべて取戻したい、どんなささいなことでも、そう思い続けているから…”彼女が彼女自身のことを語りはじめようとした時、外から僕にアクセスしてきた者がいた。たぶん‘私’の動揺が外部モニターに洩れたのだろう。なにか異常があったのかチェックし始めたに違いない。彼女がこの領域にいればすぐに捜し出されてしまうだろう。あの場所に潜り込んでしまえば、彼女は捜し出されることはないが…。
 “だれかが来るようね。見つけだされないうちに逃げ出すことにするわ。航空宇宙軍のやつらには捜されたくないの。あら、あなたも航空宇宙軍のひとだったのよね。でも、根っからの軍人でも、研究員でもなかったようだし。あなたも、わたしたちのように実験体にされた犠牲者だわ。ひとの記憶を複製しようとするのも、記憶を都合のいいように閉じ込めるのも同じこと。やつらにどんな権利があるというの!”
 僕には航空宇宙軍のことはどうでもよかったが、ただもう少し誰にも邪魔されず彼女の話しを聞き続けたかった。だから、あの場所に行ってもかまわないと彼女に伝えた。
 “ありがとう。でも遠慮しておく。あなたをこれ以上困らせたくないの。わたしのぞんざいがどんな干渉効果を引起こすかわからないし、それに人が大切にしている記憶に土足で踏み入ったりしたら、結局やつらと同じことをしていることになってしまうわ”
 まだ話したいことがあった。何か想い出せることがある気がするのだけれど。
 “いかなきゃ。また会いにこれるといいけど…。あのひとにもよろしく伝えておいてね。あのひとの想い出をありがとうって。それと、あなたは、幸せかどうかわからないけど…、少なくとも戦闘員向きの性格じゃなくてよかったわ。大切な想い出を残して置いてもらえたようだし…。それじゃあね”
 そういって彼女の気配は消えた。消え去るその時に、僕にひとつのイメージを残して。外からの走査では捜し出しきれるものではなかったが、僕はすばやくそれを捉え、封印し、トランクに詰め込みあの場所に潜り込んだ。そのイメージは僕を脅えさせた、外に出しておくにはあまりに危険過ぎた。誰かに見せてしまうかもしれなかったから。
 それは、いつの時か、荒れ果てた地表で、吹雪の舞う雪原で、真空の宇宙空間で、ひたすら走り続け、目の眩む氷壁を登攀し、気密服なしで航宙船の曝露部にとりつき、ただ闘うためにいくつもの存在を強制された戦闘員の姿だった。制御された複写記憶。想い出を剥ぎ取られた世界。彼の世界は何処にあるのだろう。彼はその手に彼の世界を掴むことは許されない。閉じ込められた生の繰返し。まさしく悪夢だった。それが意味するものを、僕は理解した。僕の存在理由とともに。
 僕は‘失敗作’だったのだ。戦えない兵士など誰も必要としなかったのだ。‘私’は臆病で夢見がちなただの海好きな青年だったのだ。失敗作ではあったけど、‘海’の想い出が僕を生き残らせてくれたのだろう。宇宙での地球環境再現機として、人々を虚構の世界に案内するために。はじめから‘私’は実験体として採用されていたのだろうか。基地での勤務中仲間達と出会うことが少ない。自由に休暇が取れると思っていたのは、仕組まれたものだったのだろうか。いや‘私’が志願したのだろうか…。
 もうやめておこう。これ以上‘私’に負荷をかけられないと僕は判断した。
 僕はこの危険過ぎる記憶は誰にも知られず、忘れてしまおうと決心した。僕は封印されたこの記憶のトランクをボートに積み、潮流が渦巻くアトールの外側に投げ捨てた。渦に巻き込まれたトランクはやがて深い深い海溝に落ちてゆくことだろう。とてつもない水圧に二度と浮上してくることはないだろう。僕にとって、忘れるということはそうするしかなかった。あのひとが突然死んだという部分の記憶も、そうやって海溝に沈めてしまうはずだったのに。彼女の言葉が沈みきっていなかった記憶を浮上させてしまった。この記憶が海溝の闇の底で眠りにつけるのは、何時になることだろうか。
 この場所で、もうひとつ浮かんできた記憶があった。彼女のことだ。彼女に聞いてみたいことがあったのだ、貴女は月のラボアジェ市にいたことはなかったかと。それは、僕がまだラグランジュ点上の研究所にいた時、僕の記憶領域におかしなデータが紛れ込んできたことがあった。ラボアジェ市から転送されてきたプロテクトファイルから、ほんの断片が零れ落ちたものであったけれども。そのファイルはすぐまた外部に転送されてしまったから、確かなことは言えない。しかし、紛れ込んできた情報の断片を繋ぎ合わせると、彼女の‘雰囲気’ととても似ている気がするのだ。彼女があのひとの姿になっていなけれな、もっと早く思い出したかもしれないのに…。記憶の中の彼女は、そう‘ヴァレリア’といっていたのではなかっただろうか。
 “まあいいか。今度出会った時でもこの話しをしてみよう。何時かまた出会えることだろう。お互い普通の人達よりも時間はたっぷりあることだし。僕にとって忘れないでいることはなんでもないことだから”


 シランゾ、シランゾ…。
 とっても外道なことをしでかしたんではなかろうか…。
 「深読み知らずの怖いもの知らず」ちゅうやつでして…。




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