小泉八雲(ハーン)と出雲大社、神話、神々の世界。最近では、出雲ドーム、娯楽提供者の一人である石飛卓美先生。それが筆者にとって島根県に就ての全知識だった。後は義務教育程度の読書知識しかない。毎度の事ながら勉強不足。
その島根県大田(おおだ)市の南西に三瓶山(さんべさん)がある。山岳雑誌や山岳ガイドには「必ず」と言っていいぐらいに取り上げられている。
大山隠岐国立公園に属するトロイデの死火山。白山火山帯に属している。山名の由来については、国引き神話に佐比売(さひめ)山と呼ばれていたのがなまったとか、大きな三つの瓶が見つかったとか、その他いろいろ伝えられているが、本当のところは定かではない。
では「神々の世界」へ。
長いアプローチの末、八二四円の幕営料を支払って北ノ原のキャンプ場にテントを張った。
最近のキャンプ場は、シャワーから水洗トイレ、コインランドリーに売店や電話、エトセトラが当たり前で、テントを張れない人の為に専用スタッフもいたり、予約まで必要なところもあるらしい。ついでにショットバーや映画館、ホテル、ゲームセンターやコンビニ、ディスコ、スナックやカラオケも作れば完璧ではないか。
腐っていても仕方がない。サブザックに食料等を装備して出発したのは午前一一時だった。
五分程歩くと姫逃池(ひめのがいけ)に出る。北の原の草原の中にあるこの池は湖としては最後のかたちと説明書きにはあった。植物が腐って湖が埋り、この池が自然消滅するのも地質年代的に、それほど遠い未来のことではないらしい。この池にも「取ってひっつけた」ような悲恋物語があるが、スペースの都合上省略する。
姫逃池から見上げる男三瓶山はかなりの急斜面がそのまま頂上まで続いている。正直なところ、見上げているとうんざりする。
姫逃池を巻くようにして中国自然歩道を暫く歩くと男三瓶山への道標があり、いよいよ登山道へと入って行く。暫くは見晴らしの効かない杉の植林地の急登を歩く。 杉の植林地を過ぎると、ブナの原生林となり勾配はますます増して、登山道はジグザグ道になる。体長一〇センチ程度のムカデがあちらこちらにいる。よく見ると必ず二匹ずつのペアでいる。交尾のシーズンなのだろうか?恋路の邪魔をしては申し訳ないので、よけながら歩く。本当は、踏み付けるのが気持ち悪いだけだ。
ジグザグ道を行くのは面倒なので真直に直進すると、いっぺんで疲れてしまった。倒木に腰を降ろしてチョコレートを食べ水を飲み休息する。あまり長い間休息していると、吐いた息に反応して、上から蛭がバラバラっと落ちて来そうな気がしてノンビリとしていられない。
初老夫婦のハイカーに追い越されたので出発した。すぐに追い越した。汗濁になって登っていると、倒木が道を塞いでいる。倒木をよじ登り、一〇〇〇メートルの導標を通過し、男三瓶山の頂上が近づくと緩やかな勾配となる。もう一息だと思い歩いていると、いきなり雑木林から抜け出して、目の前に野原が広がった。あちらこちらからウグイスのさえずりが聞こえる。天上の楽園。この野原の小高いところが標高一一二六メートルの男三瓶山の頂上である。小さな石の社があり、遮るものが無い為、三六〇度のパノラマを楽しめる。日本海や日御岬、銀色にきらめく出雲ドームが一際目に付いた。残念ながら大山は霞んで見えなかった。
一二時を少し回っていた。パノラマを楽しみながらパンを取りだして昼食にする。シェラカップにインスタント珈琲を入れ、ドイツ陸軍御用達の超小型携帯ストーブ「Esbit」で恒例の野点てをやった。風があってなかなか沸かない。
頂上には三,四〇人はいただろうか?三瓶山火口を見下ろしていると空中庭園のような気がしてきた。火口を取巻くように女三瓶山、子三瓶山、孫三瓶山が見下ろせる。男三瓶山も含め、外輪山である。勿論先史時代に火山活動は停止している。
火口壁の内側は室の内と呼ばれ、最後の爆裂噴火によって形成されたとある。火口南端に室の内池が濁った水を湛えているが見えるが、貧栄養湖でプランクトンが極端に不足しているために魚は生息できないらしい。立山の室堂にあるミクリガ池に環境が似ている。また、鳥地獄では動物の死骸が見つかっているとのこと。原因はサリンほど強烈ではないけれど、二酸化炭素が発生しているらしい。平坦な火口の底にも絨毯を敷き詰めたように原生林で覆われていた。
男三瓶山の頂上には立派な避難小屋があるが、ドアの取っ手の内側が潰れて無くなっている為、閉めると外から開けてもらわない限り閉じ込められたままである。いざとなれば、窓から出ればよいのだが。
三瓶山縦走路と書かれた導標に沿って降りて行くと、いきなり「犬戻し」と呼ばれる痩せ尾根の、木の根と露岩のミックスされた険しい急な降りとなる。クライミング用語で表現すれば「T級の岩場」といったところか。足下に気を付けながら降りると、ユートピアと呼ばれるピークに着く。ここから女三瓶山までは眺望のよい緩やかな尾根歩きとなる。男三瓶山によって風が遮られて蒸し暑い。去年の夏の大山みたいに赤トンボが群れを成して飛んでいる。白いテッポウユリなんかが咲いていて目を楽しませてくれる。
縦走路を進と緩やかなピークに中国電力のマイクロウェーブアンテナや各放送局のアンテナ群が林立していた。これが女三瓶山のピークで、二万五千分之の一国土地理院発行の地図によると、標高九五〇メートル程ある。
予定では、火口の底に降りるつもりだったが、風が出て来て曇りだしたので、雨になる前に太平山手前のコルから東の原へ下山することにした。人に遠慮することなく、勝手に予定を変更できるのが単独行のメリットだ。
女三瓶山からコルまでは綺麗に道が舗装されている。あれだけのアンテナのメンテナンスを考慮すれば当然のことだろう。
コルから東側は東の原と呼ばれ、麓まで草原が続いていて眺望が楽しめる。積雪期にはスキー場になり、近くに三瓶温泉もあり、賑わうとのこと。
賑やかな音楽が流れている。リフトが動いていて利用出来るが、筆者にも週末ハイカーとしてのプライドがある。リフト乗り場の横から草原に出て、下のリフト乗り場まで駆け降りた。
下のリフト乗り場で水を補給して、自動販売機で7UP(清涼飲料水)を買って飲んだ。東の原から北の原までは、道路幅員三〜四メートル程のサイクリングロードがあり、加熱アスファルトやマガダンで舗装されており、側溝も整備されていて、休息所まである立派なものだったが、自転車も人も通ってはいなかった。北の原まで歩いたが、誰一人出合うことはなかった。
車内から見た西の原の方が人工建造物もなく、静かで落ち着いた雰囲気だった。草原の向こうに男三瓶山と孫三瓶山があって昔のままの雰囲気があるのだが。
北の原バス停の便は一日に一本だけ。次のバスまで一七時間待たなければならない。テントの中で池波正太郎の「鬼平犯科帳」でも読みながら待つとしよう。
踏査 平成六年七月二日