伯耆大山

中野[日本以外全部沈没]浩三

 今年の夏は散々だった。クライミングのやり過ぎで、右腕が腱鞘炎になる。
 医者は言う「痛いだけで化膿しているわけとちゃうから問題あらへん」と。その「痛いだけ」が問題なのだが。暫くはクライミングを慎んで、またハイキングを始めることにしよう。と思えば山は悪天候ばかりだった。一つ鳥取県の大山の話でも。
 伯耆大山(ほうきだいせん)。アホでも知っている有名な山。山陰地方の大山隠岐国立公園に属する独立峰。出雲(いずも)から見た形が富士山に似ていることから、出雲富士と呼ばれているとか。大山の頂上は弥山(みせん)で1711メートル、最高点は剣ヶ峰と呼ばれ1729メートルあり中国地方第一位の高峰になっている。白山火山帯に属する死火山で、100万年前から2万年前にかけて3回の噴火によって形成されたカルデラにトロイデが重なった複合火山とされているが、当然噴火の記録はない。神代からの霊峰で、古くから信仰の対象として奉られた、伝説的には日本最古(だと思う)の山。有名な国引きの伝説は今更説明するまでもないだろう。

 日本本土に一週間で3つもの台風が上陸し、雨ばかり降ってうんざりする。7月も30日になってようやく気象庁の梅雨明け宣言が出た(後日、今年の梅雨明け宣言は撤回され、特定できなかったらしい)。しかし梅雨空のようにうっとうしい空模様にかわりはなかった。だからといって、快晴を臨んでの山行なんて期待していたのでは山なんて行けない。降ったら降ったで、行けるところまで行ってみよう。駄目なら駄目で引返せばいい。そんな思いで7月30日の晩に出発した。
 一泊二日の縦走装備で22時55分、大阪発の夜行寝台急行「だいせん」に乗り込んだ。曇空で蒸し暑く明日の天気が心配だったが、翌朝目を覚ますと雨は降っていなかった。列車から見た大山はガスっていて見えない。5時57分、米子(よなご)に到着。バスの待ち時間に朝食を済ませる。7時20分に米子から大山寺行きのバスに乗り8時10分に大山寺に到着。ここの標高が既に700mだから頂上までは1000mの登りになる。冬ならばスキー客で、夏ならば登山客で賑わうので、土産物屋や宿泊施設ばかりの観光集落となっている。
 警察官のいない留守の大山寺警察官駐在所に登山届けを出して、アスファルト道路を暫く登って道を間違えたことに気がついた。このまままっすぐ登って行けば、長雨と台風によって崖崩れで通行止めになっていると駐在所の掲示板に表示されていた。右に曲がって佐陀川を渡る。100メートルほど下流には立派な橋が架かっているのだが。
 川を渡って真直行くと階段に行き当たる。そこを左に、つまり上に向って歩いて行くと階段が終わって、阿弥陀堂と呼ばれる御堂があり広場のようになっている。そこには夏山登山道の一合目の標識がたっている。ここから登山道になるが、なんかすごく人が多い。その為であろう、道がよく整備されている。ブナの原生林の為に見通しはきかないが、合目や海抜が100メートル上昇する毎に標高を示す標識が交互にたてられている。登るに従い、道が少しずつ勾配を増していく。
 10時に五合目に着いた。此の辺りからブナ林は無くなり低木ばかりになり見通しがよくなる。五合目のすぐ上だった。元谷のガレ場が大堰堤で仕切られているのが見え、大山の崩落の凄さを物語っていた。本来ならば此から日本海や島根半島が見えるはずなのだが、ガスっていて見えなかった。登るに従い人の数が増えていくような気がする。50リットルのザックに15キロの装備。人の目を引きつける。降りて来た登山者に凄い装備だと言われたので、剣ヶ峰からユートピアに縦走するつもりだと言うと、縦走は崩落が激しく、オマケにガスが出て台風続きで地盤が緩んでいて禁止されていると言われた。ここまで来てそれはないよ。完全装備で行ってみたら……って、なんだか、気のせいか、最近このパターンが多いような気がする。
 出合う人、出合う人に「凄い装備ですね」と言われ「ボッカ訓練です」と照れ隠しで言っていた。湿度が高く、蒸し暑いために汗が蒸発しないで流れるばかり。身体が冷却されないので、すぐにへたばる。もっとも、日頃から「ハンコやボールペンよりも重たいのは持ったことがない」等と豪語しているから、1000メートル位の山でへたばるのだ(笑ってくれ平野<東京忍者>隊員)。
 六合目には避難小屋があった。林間学校の児童が大勢いて、わいわいと騒いでいる。海抜1500メートルまで登ったときに、中学生の林間学校の生徒達と擦れ違った。上からゾロゾロと降りて来て道を譲ってくれない。山では登り優先が礼儀なのだが、彼らには通用しなかった。馬鹿みたいな装備を担いで、通勤ラッシュの気分を味わって、自分がなんで此にいるのだろう? こんな処で何をしているのだろう? なんて疑問を感じる。勿論好きで来ているのだが……
 七合目になると、低木も無くなり森林限界を突破したような開放感がある。岩がゴロゴロとしていて、やっと山らしくなってきた。2リットルの「六甲のおいしい水」(渡瀬恒彦のCFでコンビニやスーパー等で販売されている京阪神では有名な天然水、ミネラルウォーターです)をラッパ飲みしていると、デイパックでさえ、男に持たせて、手ブラでゼイゼイ言いながら登って来た女の子に拍手された。ふがいない、自分の装備ぐらい自分で担げ。それが出来なければ山なんか来ないで、下界でイケイケの姉チャンでもやっとれ。
 視界が開け、ガスの切れ間からユートピア避難小屋が尾根に建っているのが見えた。本来なら今夜はそこで一泊するつもりだった。大山北壁はガスっていて見えない。
 八合目にきて、南側斜面に出る。冷たい南風が吹いていて涼しいが、大量の湿気を含んでいて「気持ちが良い」とまではいかない。じっとしていると肌寒いのでウインドブレーカーを着る。此から頂上までは緩やかな高原状になっていて、天然記念物の大山キャラボクの純林があり、保護の為に、尾瀬沼を思わせるような立派な木でできた歩道が整備されていて、目を楽しませてくれる。
 頂上小屋に到着した。登り始めて3時間近く経っていた。頂上小屋でインスタントラーメンをつくって食る。縦走は無理だと小屋の主に止められた。とりあえずザックを置いて弥山まで行ってみた。ガスの為に視界が悪い。
 六合目から上、特に頂上まで来ると、赤トンボが何千何万と飛んでいて、止まっている赤トンボを小学生ぐらいの男の子が素手で捕まえていた。水場もないのに、どうしてトンボがいるのか分からないが、頂上にいたある登山者が、土の中からトンボが出て来るのを見たと言う。本当だろうか? 蝉じゃあるまいし、信じられない。この赤トンボを見ていると、故植村直巳がヒマラヤに遠征したときに、適当に生えている野草を摘んで、赤トンボを捕まえて、適当に切り刻んでテンプラの「かき揚げ」にして材料を教えずに皆に夕食のおかずにして食べさせた、と小西政継が書いていたのを思い出した。
 剣ヶ峰への道に「これより先危険」と大山遭難防止協会の看板が嫌味っぽくたっていた。面白くないので、弥山の山頂でケルンを作って遊んでいると、「あっ、楽しそう。本当はケルンなんて作っちゃダメなんでしょ」「ダメだよね」なんて言って、皆がゾロゾロ寄って来て、一緒になってケルンを積み始めた。山頂は5、60センチ程高くなった。しかし、ガスっていて荒涼とした山頂で保育園児ほどの男の子がケルンを積み上げている光景を目にして、行った事はないけれど、地獄の「賽の河原」を思いだした。子供が親の供養の為「一つ積んでは、父の為……」と言って石を積んでいると、鬼が来て崩していくと言われている、あれ。
 山頂でガスが晴れるのを待って、1時間ほど皆と山談義。晴れないので帰ろうと九合目近くまで降りると晴れてきた。急いで弥山山頂まで引返してみると、南壁や剣ヶ峰がガスの晴れ間から見ることができた。ゴジラの背びれのみたいな稜線が剣ヶ峰まで続いている。「行ける」と思い、歩きだしたら、えらい剣幕で止められた。どこが危険なのか分からないが、レスキュー隊なんかに追いかけられてはたまらないので、おとなしく引返した。納得できない。登りと同じ道を引返して下山。
 標高差1000メートルというのは、大阪近辺在住或は住んでいた方なら御存知だろうが、金剛山とたいしてかわらない。あくまでも標高差だけの話である。
 麓まで降りると、バスが来るまで1時間ほどあるが、米子がお祭でバスが遅れているとのこと。暇つぶしに食堂に入ると客はいなかった。「大山(だいせん)蕎麦」を食べ、店のおやじさんに、大山の縦走路は危険なのかと聞くと、剣ヶ峰に行くまでに「駱駝の瘤」と呼ばれる岩場があってそこが危ないらしい。10年ほど前までは道があったが、その後の崩落が激しく現在は整備された道はないが、行って行けないことはないとか。いろいろと話を聞いていると、二十歳ぐらいの娘さんが入って来て、暫くメニューをみていて蚊のなくような声でオーダーした。「大山(おおやま)蕎麦ください」「?。あぁー、大山(だいせん)蕎麦ね」とおやじさん。

伯耆大山



back index next