宮之浦岳

中野[日本以外全部沈没]浩三

  三回目にして最大の遠出をすることになった。宮之浦岳の名を聞いて鹿児島県の屋久島を連想した人がいれば山の好きな人だろう。その方面ではかなり有名な、西日本で三番目に高い山、深田百名山の百番目の山でもある。しかし縦走には見事に失敗した。1935メートルの宮之浦岳のピークが踏めなかった。

 12月28日御用納め。20時47分にKと臨時夜行寝台「霧島」に乗り込んで翌日の11時25分に西鹿児島に着く。あいにくの土砂降りの雨と言うより、ちょっとした嵐。地元の人は桜島から吹き出した火山灰が洗い流されて、恵みの雨だと言っていたが、我々にとってはチケットまで買っていたジェットホイル「トッピー」が欠航して鹿児島のビジネスホテルで一日足止めを食らってしまい災難である。確かにホテルで洗いものをしようと水道水を張ると底に桜島から噴出した火山灰が沈澱していた。
 翌朝、雨は上がっていたが、天気はすっきりしない。火山灰を噴き出している桜島に雪が積もり、冷たい季節風が錦江湾に吹き付けている。この冬初めて桜島に雪が積ったらしい。当然、宮之浦岳にもかなりの積雪があるだろう。なにもこんな時に降らんかてええのに。
 8時過ぎに鹿児島本港を出港し、フェリーで宮之浦港まで4時間半。乗客の半数は帰省客、観光客、1/4は釣り客、残りは登山者。錦江湾から桜島が見えなくなると開聞岳が見えて来るが、ガスっていて頂上がよく見えない。フェリーは錦江湾から大隅海峡に出た途端に激しくうねりだして、筆者は宮之浦岳に接岸するまでの間トイレ備え付けのバケツとすっかり仲良くなっていた。「兄ちゃん、そんな事では山は登れんで」釣り客の一人が言うのを筆者はバケツに顔を埋めながら聞き流していた。
 13時接岸。雨。タクシーで白谷林道を走り白谷雲水峡で下車。積った雪の上にみぞれ混じりの雨が降る。屋根付きの休憩所があるので、ヤッケを着こんで、ロング・スパッツをはいてクラッカーとチーズで昼食を済ます。
 14時、白谷山荘を目指して出発。屋久杉の根がはり出していて歩き辛いが、あちこちに標識が出ているので一般道を歩いている限りは道に迷うことはない。とは言え、20sの装備は重たい。15時30分に白谷山荘に到着した。先客が二人いた。
 白谷山荘、一応有人小屋となっているが、シーズン・オフなのだろうか?管理人がいなかった。蛍光燈はあるが送電はされていないし、床はボコボコ。しかし水道は出るし、トイレが付いているうえに建物は鉄骨でしっかりとしているのが有難い。
 スペア(小型ガソリンストーブ)で湯を沸かし、アルファ米の山菜おこわとペミカン(野菜を炒めてバターまたはラード等で固めた保存食)にロースハムにコンソメを入れたスープを作って夕食。18時にシュラフに潜り込んで寝るが寝つけるものではない。しかし他にすることがないので寝る。明日は晴れることを祈りつつ。
 12月30日、6時30分起床。まだ夜明け前で真っ暗。アルファ米に「ちょっと雑炊」、シーチキンのノンオイル、FD(フリーズドライ)の野菜を入れた雑炊が朝食。ゴミをビニール袋に入れて一緒にパッキングして出発したのは8時30分。
 曇。白谷山荘から辻峠まで20分のコースタイムだが50分もかかってしまった。
先行きが不安である。そして辻峠を境に、ここからが霧島屋久国立公園に入る。ここからトロ道出合まで標高差300メートルほど降る。気温が上がるにつれ樹木に積っていた雪や氷が溶けだしてポタポタと水滴が落ちてきて雨が降っているのと同じだ。
 ぬかるんだ雪や張りだした根に足を捕られて歩き辛い。一般道とは言え道があるような無いような、トレース(足跡)が無いと道に迷いそう。
 トロ道出合に出ると、かつてトロッコが走っていたレールがそのまま一般道にな
っている。行動食を食べて一休み。レールの上は迷うこともなく障害物もなく歩きやすい。しばらく歩くと三代杉が立っている。看板の説明には「三代杉は(中略)約3500年にわたって生き続けています。一代目……樹齢約2000年と推定され約1500年前に倒れたものと思われる。二代目……一代目の樹木に実が落ちて親木をまたいで0成長した。これはおよそ500年前に倒れた。樹齢約1000年と推定される。三代目……二代目の株に芽を出し成長して現在に至る」とある。
 大株歩道入口までレールが続く。途中数箇所、渓谷にレールが架かっていてその真ん中に幅30a程の板がひいてあり、ヒヤッとした。ここ大株歩道入口から高塚小屋までたいした距離ではないが、標高差が550メートルの急坂。途中、400年前に伐採した根回り32メートルのウィルスン株や、あの有名な推定樹齢が7200年と言われる縄文杉や大王杉なんかがあり結構名所になっている。しかし此等の有名杉に負けず劣らずの名前が付いてもおかしくないようなねじれた巨大杉がゴロゴロある。
 30a程の積雪。よく雪山はゴミが落ちていなくて綺麗だというが、場所にもよるのだろうが人の行くところ現実はキジ撃ち(大キジは大便、小キジは小便、から
っキジはおなら、女性の場合は花摘みとも言うらしい。小キジを撃つと言えば小便に行くこと。語源については筆者の知るところではない)をした跡が結構ある。
 休息したりしながら高塚小屋に着いたのは15時30分だった。汚ない無人小屋に先客二名。当然水道も電気もない。しかしトイレはあるし、何よりテントで寝ることを思えばまだ良い。寝場所を確保して、食事の用意である。水場が分からないので雪を溶かして夕飯を作る。昨夜とメニューが同じと言うのも情けないような気がする。デザートは雪にコンデンスミルクをたっぷりかけて食べた。意外と美味しい。
 夕方になると人が増えてくる。20名収容可能の小屋だが実際は10名も入ればいっぱいである。18時30分、アメリカ人のアベックが入ってきた。何とか場所を空けてやると喜んでいた。女の子の方は日本の高校の英語の教師か講師をやっているらしいが、片言の日本語しか話せない。兄ちゃんの方がわりと流暢な日本語を話してくれる。この雪山をロング・スパッツも着けずにキャラバンシューズなんか覆いてよくやる。彼らで最後だろうと思っていると、19時に男3名、女3名の横浜から来た学生パーティーが淀川小屋から12時間かかって縦走してきた。ラッセル、御苦労様です。しかし彼らの入るスペースは残念ながら無い。外でテントを張る。その間に小屋に泊まっている我々は彼らの為に雪をコッヘルに入れて溶かし珈琲を沸かす。スペアをプレヒートし、ゴォーという音と共に青白い炎が勢いよく噴き出す。スペアの音を聞いているだけで暖まりそうだと学生パーティーのリーダーは言う。
 12月31日、5時起床。キジ撃ちにいこうとしたら、戸が凍り付いている。無理に開けようとすると戸が外れた。アルファ米とインスタント味噌汁の簡単な朝食。天気予報はネガティブな事しか言わない。アメリカの兄ちゃんが地図を出して字が読めないというので読み方を教える。読めない地図を持って山歩きとは……。
 7時出発。学生さん6人でラッセルしてあるのでルートを外すことはないだろう。第二展望台迄、石楠花が行く手を阻む。こんな所でブッシュこぎをするとは思わなかった。見通しの悪い樹林帯の中にボコッと見晴らしの良い所を展望台と言っている。樹木や岩に付着したエビノシッポが風の強さを物語っていた。平石付近になると樹林帯は過ぎたが表面はアイスバーンになっていて滑りやすくガスも出て風も強くなってきた。シュタイクアイゼンを持ってこなかったのが悔まれる。ここが本当に珊瑚礁もある南の島なのかと疑いたくなる。平石を過ぎるとガスはますますその密度を増し、辺り一面真白でトレースも消えていく。Kの姿も見失いそう。ホワイトアウト寸前。身体の力が抜けて行く。あと500メートル、標高差で200メートル、時間にして30分程の距離で宮之浦岳のピークだが退路を絶たれる前に撤退する。
 17時に高塚小屋まで引返すが、予想どうり満員で入れない。仕方がないのでテントを張りその隣にツェルトを張って荷物をほりこむ。体力を消耗し尽くしているので食欲がまるでない。悪い事にはシュラフを濡らしている。ミゾレが降る。寒さで眠れず20時頃NHKの天気予報を聞こうとするが歌謡番組ばかりをやっていた。つまらん番組をやって、呪ってやる。後に判明したが大晦日NHK恒例の歌番組だった。
 翌日、雨が降っている。雪もだいぶ緩んでいる。食欲もなく、体力も消耗して吐き気がする。Kが心配してラーメンを作ってくれたが一口食べたのがやっとだった。皆が出て行った高塚小屋に一日、Kと共に沈澱することにする。何もかもびしょぬれである。これが元日だと認めたくはない。鹿児島のH氏がエスケープルートを教えてくれた。H氏が神様に思える。感謝。夕方まで永い時間だった。
 夕方になると亦狭く汚ない小屋は満員になった。単独行が殆どだった。今朝、大阪を飛行機で鹿児島へ、そしてYS−11で屋久島まで来て今夜は高塚小屋で泊ま
っている神戸から来たおじさん。ついでにヘリで頂上まで行けば良い。明日に宮之浦岳に登って明後日には法事のために岐阜へ帰らなければならないおじさん。どうやって帰るつもりだろう。雪山は初めてだという熊本の兄ちゃん。一人で来るのにガスランタンは贅沢だ。
 2日、7時にラーメンを一口食べ珈琲をテルモスに入れ出発した。わずかに薄日が差していたがすぐに小雨が降り出した。縄文杉、ウィルスン株を経て大株歩道入口で小休憩。食欲が今頃になって出てきた。トロッコ道を降る。途中、林業が盛んだった頃の廃村があって、小学校のグランド跡がヘリポートになっていた。歩きながら有りったけの行動食を食べる。ビスケット、チョコレート、サラミ、バームクーヘン、チーズ、レーズン、アーモンド等。食べたものがそのままエネルギーに変換されて行くのが分かる。なんと筆者の不調は精神的ストレスとシャリバテが原因だった。高さ50メートル、延長200メートル程、幅員30a程のレール上に作られた怖い橋梁が二箇所ほどあった。渡っている最中、滑って尻餅をつく。痛かった。落ちたらもっと痛いだろう。荒川ダムまで殆ど休みなしに歩いた。12時30分、荒川ダムで予約客を待っているタクシーがいたので無線でタクシーを呼んでもらい、文明社会に復帰できた。ここからは金が通用する社会。
 宮の浦までタクシーで屋久島を1/4周程して民宿「おふくろ」に着いた。
 我々がルックザックを置き、濡れたものを干してホッとしていると「部屋空いてませんか?」と玄関で声がしたので見ると、高塚小屋で一緒だった滋賀の兄ちゃんではないか。「あいにくと満室で」と断られそうになっていたので、同室でよければと申し出ると「助かった」と三人で泊まることになった。
 民宿で、山で出たゴミを処分し、ぼたぼたに濡れて倍程の重さになった登山靴を乾かし、風呂に入り新鮮な刺身を食べて麦酒を飲み、まともな食事にありついて、乾いた布団に寝れて、ああ文明社会は有難い。今回の山行ではKに多大な迷惑をかけたし、失敗はしたし、また数多くの教訓も残した。泊り客に、声は掛けなかったが人外協の某女性隊員によく似た人がいたが……さて、いつリターンマッチをやろうか。屋久島は深田久弥なんか読んでいるとギャップを感じて仕方がない。雨と雪ばかりの島だった。人外協の隊員なら当然、堀晁ぐらいは読んでいるだろう彼の作品に、あのトリニティーと下級の遺跡調査員が登場する「密の底」があるが、それに登場する雨ばかりが降り、決して晴れることがない惑星。そんな島だった。

 

宮之浦岳



back index next