どことは知れぬ、うらぶれた路地の一角にあるバーで、客たちが百物語に興じていた……。
「さて、そろそろわたしにもお話しをさせていただいて、よろしいかな?」
そう言ったのは、この店の開店と同時にやって来て、一番奥のカウンター席に座
って一人ちびちびと電気ぶらん≠呑んでいた男だった。
他の客は、今の今までそんな所に男が座っていたとは、気づいてはいなかったようだ。たが、テーブル席に座っていた女が、
「いいんじゃない。喋らせてあげたら……」と、けだるげに言ったので、おもむろにその男は話しを始めた。
「実は、わたしの女房の話なんですがね……。
女房が亡くなったのが半年程前ですから、あれは、そう、1年程前の事です。
わたしはね、ミズナの炊いた物が、そりゃあ好物でしてね。女房は、よく近くの山の沼地に群生しているそのミズナを取って来てくれたんです。
その日も一人でそこへ行って、自転車の荷台に積んだ駕篭いっぱいになるほどミズナを取って来てくれたんです。
こう言っちゃあなんですが、うちの女房は料理が得意でしてね。その日も、ふたりでビールなんかを呑みながら、そのミズナの炊いたやつを食べたんです。はい。
とっても美味しかったですよ。
さて、その日の夜の事です。わたしたち夫婦は、いつもなら10時頃には蒲団に入って眠ってしまうんですが、その日は蒸暑い夜でしてね、なかなか寝つけなかったんです。わたしも、何度も何度も寝返りを打っていた記憶があります。
で、深夜にね、ふと目が覚めると、女房が、背中が痒いといってボリボリと孫の手を使って掻いているんですよ。こう、痒い痒い……、ってね。
なんだかものすごいものを見てしまったような気がしました。
それをしているのが自分の女房じゃなかったら、きっと気味が悪くなって逃げ出していたと思いますよ。
もちろん、わたしは逃げませんでしたとも。あたりまえですけどね。いや、それよりも、女房のパジャマを背中の上まで持上げて、そこを見てやったんです。
女房の背中は、蟲に刺されたような赤い腫れが幾つもあったので、そこへウナ・コーワを塗ってやりました。
今おもえば、奇妙な腫れでした。ん? なぜって? えぇ、えぇ、その赤い腫れの中心に、ほんの小さな白い核があったんです。なにかの卵みたいなね……。
ウナ・コーワを塗ってやった事で、わたしはさっさと寝てしまったんですが、女房の方は、朝までずっと起きていて、その間、ずっと背中を掻きむしっていたようです。
よほど、痒かったのですね。あまりに強く掻きむしったので、背中の皮がすこし捲れてしまっていて、赤い腫れの中心に有ったその白い核の幾つかは、こそぎ落としたようになっていました。なーに、すべてではなくって、ほんの2〜3ヶだけなんですけどね。
ところが、それほど痒がっていたのに、昼ごろには、何も感じ無くなってしまったらしく、掻くのを止めてしまったのです。もちろん、皮が捲れてしまった所は血が滲んでいましたが、赤い腫れも、白い核も、全て消えてしまっていたんです。
その後一月ぐらいは何事もなく、そんな事が有った事さえ忘れてしまっていた頃、女房がね、『私の体の中に、蟲が棲る……』って言うんです。あんまりしつこく言うので、医者へ連れて行き、レントゲンも取ってもらったんですが、なんの異常もありませんでした。
それでもやっぱり『蟲が棲る』って言うんです。で、しかたなく、精神科の医者にもつれていきました、はい。
そこの医者は、なんだかややっこしい病名を口にしてましたが、ようは、ストレスの一種なんだと、そう言っていました。
そんな事があったので、女房は、もうわたしにはなにも言わなくなってしまったんです。
心配をかけまいと思ったんですかねぇー。
たぶん、まだ蟲が身体に棲みついているって思っていたはずですよ。
その頃から、女房はあまり物を食べなくなっていきました。わたしも、色々と食べさせようとしたんですが、その時は、いちおう食べ物を口にするんですが、あとで全て吐き出していたようです。で、半年もしないうちに女房は衰弱してしまい、そのまま、あっけなく死んでしまいました。
亡くなる直前になってやっとわかったんですが、女房の身体には、やっぱり蟲が棲みついていたんです。
『あなたは信じていないようですが、私の身体の中は、もう蟲で一杯になってしま
ったんです。ほら、こんなふうに……』
そう言って女房は、左手で自分の右手を包むように持つと、そのまま手袋でも脱ぐように右手の皮をズルッって取ったんです。そしたらそこには、何匹ともしれないような細くて長い白い蟲が、女房の手の形に絡まりあって蠕動していたんです。
『ほら、ねっ、あなた、よく見て……』
女房は、その蟲の手で、わたしの身体を触りに来たんです。
その時の事は、今でも時々夢に出てくるんですよ……。
……おっと、もうこんな時間だ。ちょいと野暮用でね。わたしは先に失礼させていただきますよ。
じゃっ、失礼」
それだけを言うと、その男はカウンターのスツールを降り、料金を支払って、戸口の方へと向かった。
その時、別の客が鞄につけていたキーホルダーに男の右手が引掛かり、なんと、その男の手の皮が、ズルリと剥けてしまったのである。
その右手は、手の形をした白い蟲たちが蠕動していた……。
……やはははは、おそまつでした。
では、次回のテーマは『図書館』です。
CD版、桂枝雀落語らいぶより、『茶漬えんま』と『貧乏神』を聞きながら・・。
1994.08.16, PM,22:35,