手紙を書くのは苦手である。
人一倍苦手である。
その苦手な手紙の事を書いているので、文体までもがいつもの“ですます調”から、“である調”に変ってしまっているのである。
これは、大変な事なのだ。
ところが、ことほどさように手紙を書くのは苦手なくせに、手紙を読むのは、いたって大好きなのである。
で、手紙を読むのが好きなのに、届いた手紙の返事を書けないから、読みたい手紙が届かない。と言う、なんだかややこしい話になってしまうのである。やれやれ・・・。
そんなに苦手な手紙の事なら、わざわざここに書かなくったっていいじゃないか。とお思いでしょうが、苦手な事だからこそ、一度こうして書いておく必要があると考えたわけである。
実はここだけの話なのだが、一説によると、ぼくと相方の麻衣子さんは、文通によって結ばれた事になっているらしい。これは、上記の部分を読んでもらっても解るように、はっきり言って、デマである。ただし、たしかに恋愛中は、かなり多くの手紙を書いていたのは事実である。
おそらくこの時期にぼくは、一生分の手紙を書いてしまったのではないかと思う。
ところで、その一方の麻衣子さんの方であるが、彼女は、ぼくなんかと違い、とんでもない手紙魔である。以前聞いた話によると、電話を使って話をしたり、また、直接逢って話をしたりするよりも、手紙でコミュニケーションをとるほうが、得意なので、好きなんだそうである。
そんなわけだから、かなり多くの手紙を、ものすごい勢いで書いて出すので、必然的に返事が帰ってくる手紙の量も桁違いに多いのだ。ぼくなんかには、うらやましいかぎりである。
さて、ではなぜぼくがこれほど手紙を書く事が苦手なのかを、自分なりに分析してみようと思う。(分析したからと言って、どうなるものでもないのだが・・・)
そもそもこんなふうに文章を書いているのだから、手紙のような、文字を使ったコミニュケーションが得意であるように思われがちだが、なんのなんの、この文章と手紙は、まったく別物であると断言しよう。
そもそもぼくの書いているこの文章や小説などは、一様読者の事を考えてはいるものの、落語なんかと同じで、不特定多数を相手にして書いているため、相手の反応の仕方を適当にこちらで判断しながら書いているのである。
ところが手紙は、喋る事と同じで、特定の人を相手にしているため、その相手の反応によって言葉のニュアンスを変えなければいけないように思うのだ。
ぼくは、自分で言ってしまうのもなんなんだけど、喋るのはかなり得意な方だと思う。特に、一対一で、身振り手振りをまじえて話をするのは大好きだし、また、そうする事によって、すぐに相手の反応が解るし、それによって臨機応変に相手に接する事ができる。もちろん電話で話をするのも得意なんだけど、それにした所で、身振り手振りが出来ない事と、相手の顔が見えない事に対する不安があるのだ。で、手紙はというと、相手の返事が返ってくるまで待たねばならず、電話で話をする以上に相手の反応がまるでわからないのだ。そこでついつい、電話で話ができる相手には電話ですませてしまったりしてしまうのである。
ところが世の中には、そうそう電話でばかり話が出来ない相手がいるのだ。こういう相手には、どうあれ手紙を書く必要があるのだが、前記のような理由で、なかなか書き出す踏ん切りがつかず、で、ついつい書くのがのびのびになってしまうのである。しかも、書き出すのがのびればのびるほど、話題がどんどん古くなってしまい、ますます手紙を書くのがおっくうになるという、最悪の事態に至るわけである。
もちろんこれでは快適な対人関係が結べないので、過去に何度も改善の努力はしてみたのだが、結果は、原状維持のままであった。
過去の一番ひどい例だと、手紙をもらってから、返事を出すまでに、一年以上の歳月が過ぎ去っていた事がある。でもこれなどはいい方で、いまだに返事を返していない人も何人かいるので、たぶんもうその相手は、ぼくに手紙を書いた事さえ忘れ去っているのではないだろうか・・・やれやれ。
で、まぁそんなわけなので、この文章を読んだ人のなかで、ぼくに手紙を出してくれた方は、長い目でみてやって下さい。
また、これからぼくに手紙を出そうかと考えているあなたは、そこの所をよく理解したうえで、気をながくしておまち下さい。よろしくね。
というわけで、今回はここまで。次回のテーマは、『釣り』。ではまた・・・。
ジューダス・プリースト、「背信の門」を聞きながら・・・。
1993.05.02, AM,04:27,