第四十三話

阿部和司

 林さんが「第五話」として、地下鉄で声を掛けられたお話しを書かれておりましたが、私にも似たような体験があります。
 それは、勤め先の社員旅行で、韓国はソウルへと出かけた時の事でした。
 日程の殆どが自由行動だったので、私はこれ幸いと独りでソウル市内をフラフラしておりました。
 「安重根義士記念館」(伊藤博文を射殺した人ですね。)に立ち寄り、2時間ほど資料やら何やらを見て、外の広場に出てきた時です。
 見ると、一人の地元の老人が、私の方へ歩み寄ってきます。
 そして、突然、私の腕を掴むなり、何かしきりにわめき始めたのです。生憎、私が理解できる言語は、日本語と津軽弁と新潟弁と秋田弁だけなので、その老人が何を言っているのか、さっぱり判りません。彼がまくしたてているのが、韓国語である事くらいは判りますが、それだけです。何の助けにもなりません。
 私はてっきり「日本人はここに来るんじゃない!」と云っているのかなと思ったのですが、ふと頭の中で言葉が浮かんできました。
私は(日本語で)その浮かんだままに、老人に話し掛けました。
 「あんたも、無事で何よりだった…」
 何が何よりなのか、喋ってる私の方が聴きたい位です。
 ところが、どうも、老人の方は了解したようで、突然ボロボロ涙を流し始めました。そして、もう長い事使わなかったであろう日本語で一言。
 「有り難う…」と呟くと、こちらに手を振りながら、去っていきました。
 訳も判らず、取り残された私は、一部始終を見ていた周囲の人々の訝し気な視線に居たたまれなくなり、その場を離れたのでした。



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