太った!

黒川[師団付撮影班]憲昭

 横浜駅地下通路を、勤め先に向かっていた。
 横浜駅を東西に移動する通路は一カ所だけ(来春、南北に新しい地下道ができる)。毎朝、ひどく混雑する。
 さらにその日の朝は通路中央に、背が高く、筋肉質、一様に刈り上げヘアーの外国人達が、理由はわからないがたむろしていたため、若干遠回りになったが通路の西端を歩かねばならなかった。
 前からやってくる、焼売屋のカートをよけながら右をみると、小太りで、残暑に汗まみれになったおやじがいた。
(こっち、くんなおっさん)
 と、とっさに思ったが、よけた弾みが予想より大きく、おっさんの腕に肘が当たった。予想以上に、というか、人間とは思えないほど堅い腕に肘が当たり、ついでに肩があたった。
(これ、ガラスじゃねえか)
 その時初めて、通路西側にショウウィンドーがあることに気がついた。その瞬間、さらに後ろから、トン、と押されて…。
 磨き抜かれたショウウィンドウに、汗を墨汁に使った、魚拓ならぬ人拓ができあがった。
 ショウウィンドウの中で、秋の装いに身を包んだクマの人形達が笑っていた。
「おまえ、横浜に来てだいぶ太ったな」
 今朝の出来事をきいた友人がいった。
「ベルトの穴は前とかわらねえぜ」
 私は客観的な事実を述べる。
「でも、顔が丸くなったな」
 友人が、あくまでも自己の感覚を元にした意見を表明しているうちに、昼食が運ばれてきた。
 友人はカレー。
 私には本日の定食、フライの盛り合わせとミニうどん。
 考えてみると、友人は毎度のようにカレーを選んでいる。栄養が偏らないか、人ごとながら心配だ。
「いつものことながら、脂っこいもんばかり喰ってるな」
 カレー好きの友人いった。
「定食には毎回サラダがつくから、問題ない」
 むしろ、カレーばかりというのは、絶対になにかの成人病になるはずだ。
「そうなのか?」
「定食というのは、大人の給食だ」
「へえ、そうなのか」
 また一つ友人は賢くなった。
「ところで、その、ミニうどんも、栄養学的な見地に基づくものなのか?」
「いや、これはこの店のサービスだ」
 ことここにいたって、自分が"若干"太ったことは認めなければならないだろう。
 だが、好きで太った訳ではないのだ。
 独り暮らしをしている、もしくはその経験のある人には良くおわかりだろうが、とにかく食い物屋
の品書きは、カロリーの高いものが、これでもかというくらいに並んでいる。
 それ以外のもので、仮に焼き魚定食を選んだなら、それは焼きすぎて半ば炭化しかけているか、生焼けかのどちらかである。刺身定食は高い割に、マグロの刺身が三きれほどしか乗っておらず、これだけでは飢え死にしかねない。
 人間らしく、少しはバリエーションのある、コストパフォーマンスに適した食事をしたいと思うならば、どうしてもコロッケ定食や、焼肉定食を選ばざる得ない仕組みになっているのだ。
 夕食は、職場のコミュニケーションを円滑にするために、やむを得ず飲み屋にゆかなければならない。これは職業人の宿命である。
「とりあえず、生中」
 と誰かがいったときに、私は食生活向上のためにウーロン茶にしたい、と口を挟むことは、私にはできない。
(広い世間には、最初からウーロン茶を頼む人間もいる。たいていの場合、かれは早晩退職するか、出世するかのどちらかのようだ)
 飲み会が終わって、日付が変わる頃になっても、牛丼屋やラーメン屋が営業しているというのが、横浜が都会たるゆえんである。
「みそラーメン」
 といって、カウンターに座る頃には、食生活云々の思考は、どこかへいってしまっているのが毎度のことだ。
「みんな都会が悪かったんだ」
 私はカウンターに向かって呟いた。
「ヘボな演歌のサビじゃあるまいし」
"昼飯はカレー"の友人がいった。
 シシャモをかじりながら、私は、せめてクリスタルキングくらいにしてくれないかと思った。
「とにかく、痩せないとやばいぞ」
「そりゃそうだ」
 共通の友人が、フットサルの最中に心筋梗塞で倒れた直後だっので、いつになく真剣な会話となった。
「まあ、あいつはタバコをやってたからなあ」
 ちなみに私はタバコを吸わない。
「酒飲んだ後に、牛丼特盛りを食う方が、よっぽど身体に良くないと思うが」
 たしか牛丼にはニコチンは入っていなかったはずだったが?
「この前、見舞いにいったが、アレ(心筋梗塞)は苦しいらしいぞ」
「俺も聞いた。話半分としても、あまり体験したくはないな」
 幸い、運ばれた先の病院が良かったから、一命を取り留めたらしいが、一時は危なかったようだ。
「タバコも酒も禁止。さらにあと十キロ痩せろとの厳命が、医者と奥さんから下ったそうな」
「まあ、天罰だな」
 私が素直に感想を述べると、カレー愛好家は黙って肩をすくめた。
「正直にいって。俺も少しは痩せなきゃならんとは、常々思っているんだ」
 私はいつになく殊勝な気持ちになっていた。
「"すこし"ね」
「別にスーパーモデルになる気はないから、標準の範囲に収まればいいんだ」
「良かったよ。モデルになるとかいいだしたら、救急車を呼ばなきゃいかんところだ」
 何色の救急車かはあえて聞かなかった。
「それでも痩せる努力はしてるんだ」
「へえ。白鳥が泳ぐがごとくか」
 ?
「ほかからはその努力が、まるで、見えない」
 抗議しようとしたら。
「じゃあいったいどんな努力をしてるんだ?」
 といわれたので、少し、考えた。
「とりあえず、駅では階段を使うようにしている」
「みんなそうだろう? まさか、駅のエレベータに乗ったことがあるのか?」
 正直にいうと、つい出来心で乗ったことはある。
 他に、普段健康のため心がけていることといえば。
「列車の中では、席が空いていても座らない」
「で、具体的に何分ぐらい?」
「俺は鉄道方面の趣味はないから、よくしらない」「各駅停車で四駅目だっけ?」
「いや、三駅目だ」
 どうやら、この方面も分が悪い。
「そう、最近、健康食品を選ぶようにしている」
「そりゃ初耳だ。玄米でも喰っているのか」
「うんにゃ。自宅で飲んでいる発泡酒を、A社の青い缶の、ダイエットビールに変えた」
「ダイエットビールか。まずくないか?」
「ダイエットとつく割にはいけるよ」
「ふうん」
「なので、普通の発泡酒よりも、倍は飲める」
「それじゃ同じだよ」
 どうやら横浜に来てから、太った、らしい。
 体重計を買ってくればすぐにわかることだが、とてもじゃないが恐ろしくて、そんなものに乗ることはできない。
 だが、将来的な成人病の危険性もさることながら、近日中に、これから着なければならない去年の冬服に身体を合わせるためにも、痩せなければならない。
「でも、ダイエットといってもなあ」
 これまで挑戦した、数々の奇妙なダイエット法を思い出しながら、私は暗澹たる気持ちになった。
「いい方法があるぞ」
 友人がいった。
「断食か?」
「まあ、それも効くらしいが、それよりも毎食カレーにしてみろ。絶対に痩せる」
「なんか、身体に悪そうだが」
「まさか。インド人はカレーが主食だ」
 それはそうだが。
「それに、太ったインド人をみたことがあるか?」
「サイババ」
「ありゃ、宗教だから。とにかく一般的なインド人は皆痩せている」
「食い物というよりも、経済的な理由の方が大きいとおもうんだが」
「とにかく俺は、お前よりも痩せている」
 それは事実だった。
「お前もカレーをくえ。そうすれば絶対に痩せる」
 カレーは好物だったので、そうすることに異存はなかったが…。
「一つ質問していいか?」
「何なりと」
 ダイバダッタの様に微笑みながら友人はいった。
「カツカレーは喰っていいのか?」
「ダメ!!」
 私は、カレーダイエットの実行に、いまだに踏み切れないでいる。



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