THE LONG AND WINDING ROAD

黒川[師団付撮影班]憲昭

「熱があります。胃腸も良くありません」
医師
「風邪だとおもいますが。ところで最近、香港へ旅行したことは?」
「ありません。昨日まで北京にいましたが」
医師
「……」(無言で席をたつ)
「ウソです。中国大陸に足あとをつけたことはありません」
医師
「風邪薬と抗生剤、胃薬を出しておきます」
「行ったのはトロントです」
医師
「……」(再び席を立つ)
「ウソです。すいません」
医師
「お大事に」

 というわけで、風邪による下痢のためしばらくおとなしくしていました。
 この手の病は、日に十数回のトイレ通いを科すことで、えてして凡人に対して哲学的な思考をもたらすものであります。ソクラテス、プラトンなどの哲学者が皆痩せていたという話にもうなずけます。
 トイレとパソコンを往復しながら、締め切りの過ぎた画報の連載を書く見聞録子においてはなおさら、といいたいところですが、あにやはからん哲学どころか連載のネタすら生まれません。
 どうやら粗忽なことに、哲学をトイレに流してしまったようです。

 こんなドタバタを毎度繰り返しながら、気がつくと連載50回を迎えることが出来ました。
 これもひとえに読者の方々による暖かい声援と、編集に関わった方達の叱咤と激励そして忍耐のたまものであります。またこの機会をお借りしまして特に毎月原稿を書き続けてきた私自身に感謝します。

 おめでとう。
 ありがとう。
 ぱちぱちぱちぱちぱちぱち(拍手)
                  −終わり−

 この続きは映画館でお楽しみ下さい。
 ……。
 …………。
 ウソです。すいません。
 一度やってみたかったのでついやってしまいましたが、もうしません。というかこんなことをやってしまった人はあらゆる意味でエライひとです。
 よく刺されませんでしたね。
 それで懲りずに、もう一度やってみようと考えるのはもう天才というか紙一重というか……。それを受けて本気で造り、秋にも公開しようという会社もいかがなものか。
 いろいろと外野からとやかくいうことはできますが、某エヴァンゲリオンも見聞録もやっていることはたいして変わらないかもしれません。
 某エヴァは過去のアニメや特撮、見聞録は主にエッセイの「型」に意識的によりかかって、なんとかその場その場を切り抜けてきました。
 エヴァがどんな作品を参考にしたかは、現在たくさんの本が出版されていますし、この秋頃からまた評論が出始めるでしょうが、見聞録についてはこれから先どう考えても出るはずがありません。
 よって見聞録子自身が、なにをパクッたのかを今回書くことで懺悔としたいと思います。
「彼らの流儀」沢木耕太郎 新潮文庫
 新聞に連載されたコラムをまとめたものです。
 書かれた人物の視点による三人称。
 作者の視点で登場人物の心理を代弁する三人称。
 心理描写を意図的に避けた外観のみの三人称。
 書簡体。
 ざっと取り上げただけでも、著者が意識的に文章の「型」、文体を意識的に使い分けているのがよくわかり、割と最近の作品であることもあって初めのうちはよく真似をしました。
「世相講談(上・下)」山口瞳 角川文庫
 沢木氏があるコラムで文体を学ぶために参考になったと書かれているのを読んでから、あちこち探し回りネット上の古書店で手に入れました。
 昭和47年出版であり、30年経ったいまではとっつきにくいかもしれません。でも読み始めれば面白いものです。
 タイトルのとおり講談がベースになっているのですが落語、新聞の将棋欄、私小説、スポーツ記事、ノンフィクション、とにかく様々な文体を駆使して書かれており、昔の方が言葉がたくさんあったことがうかがえます。
「アメリカン・ビート」ボブ・グリーン
「男のコラム」マイク・ロイコ
 共に河出文庫。
 コラムがもっとも盛んな本場米国の物を選りすぐり翻訳したものです。
 毎日毎日、新聞にコラムを何年も乗せ続ける。しかもインターネットの日記のように基本として他人の評価に左右されないならまだしも、人気がなくなればすぐに交代させられ路頭に迷う世界。
 そんな世界の第一人者の技はほとんど芸とよべるものです。特に事件無いとき、いかにコラムをつくるかという点で見ると面白いでしょう。
「週刊文春」文芸春秋社
 現在発売されている週刊誌のなかでもっともコラムが充実しているものだと思います。
 小林信彦、中村うさぎ、土屋賢二、千崎学、椎名誠、林真理子、堀井憲一郎、高島俊男、室井滋(敬称略)ほか各界の文章名人が毎週書くコラムは、人によって好みはあるでしょうが、連載というものを学ぶのに多いに参考としております。
 伊集院静氏、故ナンシー関氏なども過去に連載をされておられました。
「アフリカの爆弾」「農協月へゆく」角川文庫、など。筒井康隆氏の短編集すべて。
 筒井康隆氏は文体の実験、改造、変革に力を注いだ前衛作家としての評価が、その膨大かつ良質な作品群のわりには、低いものしか与えられておりません。ですがこの状況も早晩変わってくるでしょう。
 特に初期の作品において、筒井氏の日本語は論理的で透明度が高く、英米系の作家をおもわせるような、日本人離れしたところがあります。しかもその伝える内容が異質異様意外なものとなっている、ということに感嘆するしかありません。
 これから画報になにか文章を書かれる方もおられるでしょうが、もしよろしければその前に本棚から筒井氏の短編集を手に取られてはいかかでしょう。
もっとも読み始めたおかげで原稿が手につかない恐れもありますのでご注意を。
 このほかにもまだ数多くの本や雑誌を紹介したいのですが、それを続けていたら紙面が尽きてしまいそうなのでここまでとします。

 ただ文体を知っていればどんな連載でもこなせるかというと、難しいと思います。
 これはあくまで私個人の乏しい経験によるものですが、文体だけで文章を書き続けることができるのはこの見聞録のようなものなら、たぶん五回くらい、良く持って半年くらいが限度といった気がします。
 文体を真似るということは、他人の思考、論理、信条、姿勢、思考を真似ることです。いわば他人の世界観というレンズを借りて、対象をペンで撮影することと同じことなのです。
 レンズを借りて、というところが誤解されるかもしれませんのでもう少し付け加えると、当然ですが「世界観というレンズ」は借りることができません。
借りるというよりも、自分で真似てつくることが必要です。また内部の構造もある程度は推察できますが、それでも推察の範囲を超えることはどうしても出来ないのです。
 推察の精度をあげて、なるべくオリジナルのものに近づけるためには、唯一内部の構造があきらかな自分自身のレンズの構造と似たものであるのが望ましいですし、そのようなレンズ、すなわち文体が自在に使えるものとなるはずです。
 構造も解らず下手な猿まねレンズで撮った画は良いものとはなりません。文体の勉強は連載のために必要ではありますが、十分条件ではないということを、痛切に感じるところであることを告白します。

 これからまた色々な方が甲州画報に文章を載せられるでしょう。最後に自分自身が再確認するためにも、甲州画報のための文章について最低限心がけることを書いて終わりとしたいとおもいます。

甲州画報は「谷甲州ファンクラブ」の会誌である
 谷甲州の作品を愛する人達が読者なのですから、その好むところはやはり谷甲州の本を読めばわかるのです。そこからあまり離れないように。

簡潔、明快、明瞭
 画報の読者は数理的な思考に長けた人達です。渋滞、無駄な繰り返し、主語・述語の錯綜を嫌います。
論理の飛躍は望むところですが、踏切点、着地点以上に飛躍運動の論理的な説明を重視しています。

「おもろい」というのが最上の誉め言葉
 関西弁のおもろい、イコール「面白い」ではありません。ニュアンスが異なることに注意をはらって下さい。
 おもろいは笑いの要素でありますが、それはおかしな自分自身という冷静な自己認識にたったものでなければいけません。
 説明するとこんな感じでかなりのページ数が必要ですし、なによりおもろくありません。その感覚を掴むためには、むつかしいくなく、関西人を友人に持つだけですぐわかるでしょう。



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