冬の朝

黒川[師団付撮影班]憲昭

 休日の朝……。
 いやもう昼か。
 たいてい腹がへって目が覚める。
 とにかく飯がくいたいということしか考えていないわけで、本能にしたがいがばっとからだを布団からおこそうとする。
 次の瞬間、激痛によって枕に、いや枕は足下にあるので敷き布団に頭が落ちる。
 息づまる(ほんとに痛さで息ができないのだ)つかの間の静寂の後。
「グエーーーーー」
 という断末魔のカバのごとき悲鳴が響く。
 カバの死に水はとったことはないがたぶんそんななきごえだ。
 そして、これもまた反射的に、腕、脚、肩、などバーツのどこかを動かして。
「ウゲーーーーー」
 しめられるニワトリのような哀れな声をだす。
 七転八倒の惨状である。
 しかし、このような苦悩の声をあげて助けを請うているのに、薄情なことにも家人は誰も駆けつけようとはしない。
 たまに泊まりにきた妹がみにくることもあるが。 いたわりの言葉をかけるどころか、いかにも楽しげな表情で(七転八倒していて顔をみることはできないがなぜかわかるのだこれが)。
「いい年なんだからやめときなよ」
 などと賢しげにほざく。愚かものめ。ちなみに妹とは一つ違いだ。
「ほっときな」
 母の声がする。
「いくらいってもきかないから、もう好きにゲエとかオエとかいわせておき」
 ほおっておいてほしいかどうかは、本人の許可が必要だとおもうのだが、母はとんちゃくしない。むかしからそうだった。
 おうどん冷めてまうからはよたべ、と母にいわれ、妹は兄を見捨てていってしまう。
 残された私はとりあえず。
「ゴエーーーーー」
 と叫んでから、全身の筋肉痛をなるべく刺激しないように、ゆっくりと起きあがる。
 寝ていてもなにも発展しない。
 なにより、冷えたうどんは不味くて食べられたものではないからだ。

 足早に秋がやってきて、これまたそそくさと去っていったころから、体に変調を覚えた。
 はじめは腹部の軽い圧迫感だった。
 顔がむくんだように膨らみはじめ、駅の階段を上ると息切れがする。
 明らかに悪い兆候だった。
 好きな作家が病で死んだという報道を聞くにつれ、いよいよ病院で検査をうけなければならないと覚悟をきめた。
 その前に。フトおもいたって、念のため、風呂上がりに体重計に乗ってみた。
 針が回った。
 回って、回って……
 回りすぎた。
 体重計の針は75キロをさしていた
「ギョギョギョ」
 思わず、水木しげるのような悲鳴を上げてしまった。
「なんじゃこりゃあー」
 続いて松田優作。
「がちょーん」
 さらに谷啓。
(きりがないな。)
 とっさに、昼に喰った神座ラーメン餃子セット大盛りが、災いしたのだとおもった。でもそれだけでこんなことになるとは考えがたい。
 昨日の飲み会での食べ放題3400円プラス飲み放題2500のせいかもしれない。
 もしかすると宴会まえの昼飯のCOCO壱番館カツカレーセットも、あるいは一昨日の吉野屋特盛り玉子ダブル、さらに前の和幸ランチセットご飯おかわり無料もよくなかったのかも。
 そういえば回転寿司函館市場で5000円ほど費ったのは先週か。
 健康のため朝食は抜かないことにしている。
 テレビを観ながら、ストーブの前で食べるアイスクリームとポテチ、これら先進国で生まれた喜びを享受していないわけでもなかった。
 これらが原因の一部をなしていることは、不本意ではあるが認めざる得ない。私はじぶんでいうのものもなんだが、わりと謙虚な人間である。
 だがそれでも納得することはできなかった。
 許せない。誰かに責任をとってもらいたい。少なくともアメリカ人ならそう考えるだろう。ならば日本人だって許されてもいいはずだ。
 しかも今回の場合、幸いにして文句をいうべき相手については、すぐに思い当たった。

「そりゃ食べ過ぎですね。」
 文句をいったら即答された。
「それなら君にも責任があるはずだ」
 私は断言した。
 相手は不思議そうな顔をしている。どうも自分の立場をよくわかっていないようだ。ここはひとつ彼女の給料がどこからでているのか、再確認せねばならない。
「君はスポーツジムのインストラクターだ」
「そうですがそれがなにか?」
「私はジムの会員で毎日通っている」
「久しぶりにお会いしたような気がするのは、きのせいでしょうか?」
 気のせいだといってもよかったが、前述したように私は謙虚な人間だ。
「まあ、週のうち5回、いや3回としよう」
「そんなところですね」
「一生懸命自転車をこいで、サウナに入り、さらにプールで泳いでいる」
「泳ぐ距離、自転車をこぐ時間とかける負荷について教えていただけないでしょうか?」
「忘れた。つけくわえれば気が向いたらウェイトトレーニングもやることにしている」
「腹筋はさぼってませんよね?」
 私は先天的に腹筋に欠陥があることを告白した。あまり負担をかけると翌日会話に支障をきたすのだ。下手に笑ったりすると命にかかわる。
 そのことを伝えるとインストラクターはうなずいた。
「わざわざ、金を出して運動しにきて、これだけ体重が増えるということについて、インストラクターとして責任を感じてもいいとおもうのだが」
「つまり、寒くなって汗をかかなくなったうえ、食べ物が美味しくなって牛のように貪り喰って太ってしまった。その責任をとれ、といいたいわけですか」
 ようやく話がわかったようだ。
「責任を痛感します」
 みかけによらずなかなかによくできた人だ。
「毎日摂取するカロリーに見合った、トレーニングメニューをつくりましょう」
 嫌な予感がしたので恐る恐る聞いてみた。
「どんな感じのものになるかな?」
「そうですね、ラーメン一杯で350キロカロリーくらいですから、自転車だと負荷100ワットで1時間くらいこいでいただくことになります」
「…………」
「夕食がカツ丼でしたっけ? それならば自転車に加えて2000メートルほど泳ぎましょう」
 どうやら彼女は私を殺すつもりらしい。
 会員を減らすと、それだけインストラクターの給料も減ることがわからないのだろうか。
「でもこれくらいやらないと体重は減りませんよ」
 いやそれほどの大事業をやる必要性を感じられないのだが。
「ダイエットの原理は簡単です。摂取したカロリーよりも、消費したカロリーが上回るようにすればいいだけです」
 そりゃそうだろう。
「ラーメン、トンカツ、スキヤキ、てんぷら、ビール、唐揚げ、焼き肉、どれもこれもカロリーの固まりで、これだけのものを食べたら、フルマラソンをやるくらいのことをしないと駄目ですね」
「ポーツ中に死亡する事件が立て続けにおきている。特にマラソンの最中にばたばた死んでいる。まだ死にたくない」
 でも、と彼女はいった。
「ひとが死ぬ三大原因ってしってますか?」
 タバコ・高血圧・肥満。
 私もその記事は読んでいたが、とりあえず忘れるように努めていた。
「マラソンでも、肥満でも人は死ぬ」
 私は努めて冷静にいった。
 うなずくと彼女は明るくきいた。
「で、どちらにしますか?」
 私は少し考えてからいった。
「どっちもイヤん」

 イヤん、イヤん、バカん、駄目ん。
 こういってはみたが、いったところでどうなるというものではなかった。
 で、インストラクターととりあえず、現実的な妥協点を相談し、週末のフィットネスのクラスに参加することになった。
「格闘技の動きを取り入れた、すごくかんたんなもので、ストレス解消になりますよ」
 教えるのはくだんのインストラクターだった。彼女が空手の選手であることを初めて知った。そして知った以上断る理由はなくなった。
 どうやら、これから冬の朝は、筋肉痛と訪れるようである。



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