浪速赤色乗合自動車見聞録

黒川[師団付撮影班]憲昭

 六月の大阪はとにかく暑かった。
 梅雨前線が太平洋南海上でさぼっていたおかげで、今月の日本列島は最高気温30度の夏日が続いている。
 真っ昼間の大阪市内ではコンクリートからの照り返しに、クーラーからの廃熱も相まって、スーツを着て歩いていると熱射病で死にそうになる。
 なのでこのところ昼頃はあまり出歩かず、冷房の効いたオフィスでなんとか仕事をしているふりができないか、と頭を悩ませているサラリーマンが多いのではないだろうか?
 でも、どんなに知恵を絞ったところで、営業職は取引先にゆかねばならず、つねに営業所のミラが使えるわけでもまたない。
 新人の女性社員を連れて、福島の取引先を訪れたときのわが父も、気が付くと自分が灼熱の大阪市内に取り残されたのだと遅蒔きながら気が付いたのであった。
 最寄りの地下鉄の駅までは、地上をかなり歩かねばならない。タクシーは何台もはしってゆくが、それはミニモニの最新曲と同じくらい父と関係がなかった。
 げんなりしながら天を仰いだとき、父の視界の片隅に、なにかがよぎった。
 はるかビルの間をまがる赤い自動車。
 消防車?
 女性社員は父が認めたものを指さしてちょうど赤バスが着たから、野田まであれでゆきませんか、と提案した。
 なるほどあれが赤バスか。
 赤い、洒落た感じの、乗り合いバスがこちらにやってくる。父のすぐ側にあった。
 あれは、どこまで乗っても100円なんですよ、といわれて父は乗ってみる気になった。
 赤バスとは、大阪市交通局が市内で運行する小型のコミュニティーバスの通称だ。
 路線は全て循環で小さな車体を生かして、狭い通りにも設定された細かな路線設定と、一律100円の低運賃が人気となっている。
 この赤バスについてのニュースはどこかでみたことがあったし、そういえば環状線の中からも、赤いバスが走っているのをみたことがあったことを、父は遅まきながら思いだした。
 乗車賃100円を先に払う。
 乗り込むとき、床が低く、スロープも備え付けられていて、高齢者・障害者に配慮したところはなお好い印象を与えた。
 30人乗りの車内には、父と新人社員そして同じ停留所からのった人の、合計三人。
 三人はそれぞれに余裕をもって、進行方向に向かった座席に座った。
「ご乗車まことにありがとうございます」
 運転手がいった。
「えー、皆様、なにか手近なものにお掴まりくださるようお願いいたします」
 マニュアルどおりのセリフにしても、あまりにばかげた言いぐさだと父には感じた。
「現在、エンジンが不調で、加速中に急にエンストする危険があります」
 !?
「なお電気系統も修理中でありまして、マイク、及び停車表示ボタンは使用出来ません。お降りの方はどうか直接声をかけてください」
 父はとっさに降りようと思ったが、バスは既に大川沿いを走り出していた。
 女性社員に何か言おうと横を向くと、彼女は目の前の座席の下を見つめている。そちらをみると大型のスパナ他、父の知らない自動車整備用の工具がたくさん積まれていた。
 ここにいたって父は思った。とりあえずクーラーが効いているからよしとするか。電気系統が故障しているにかかわらず、幸いなことにクーラーは動いていた。
 ぶおー。
 エンジンをふかし気味に赤バスは走ってゆく。
「えー、このバスは実際よく故障するんですわ」
 運転手は話し続ける。サービスなのか愚痴なのか、判然としないが、とにかく父は拝聴することにした。
「これ、フランスのルノー社製なんです。この会社の車はよく故障するそうですな。じっさい、コレも試験のときからよく故障しおったんです」
 まあ、全てのルノーが悪いわけでもないが、マイカーとして買うならばある種の覚悟が必要であるのは、ルノーファンにも異議のないだろう。
「とにかくエンジンが小さい。3400ccしかないから、ちょっとした坂もようのぼらへん」
 3400ccというのは数字が半端すぎるので、たぶん父の聞き間違えだろう。
 そう思って、見聞録子はネットで赤バスの排気量を調べてみたが、残念ながら発見することはできなかった。そのかわり、バスを愛好する人々が世に多数いることと、その背後にはさらに大きな"鉄チャン"のネットワークがあることを知った。
 まあそれはともかく。
 ルノーといえば名車"4CV"を引き合いに出すまでもなくコンパクトで洒落たイメージであり、間違っても大排気量で有無をいわさずという感じではない。
 バスやトラックなどの商用車的なものを、ルノーに求めて選定した方が悪いような気も、見聞録子個人としてはしないでもない。
「わたしも日本車がええと思うんですが、手頃な大きさで、床の低いバスというのが、日本にはありゃしませんのや」
 父はバスについてほとんど知識はなかったので、そんなものかと思った。
「でもそうゆうたかて、こない故障ばかりするもんを使わされる方もたまりまへんわ」
 運転手はぼやき続ける。
「ほんまいうとこのバスも修理するはずやったんですが、これ以上バスが少なくなると、時刻表が守れんようになるさかい。しょうがなくだましだまし使うとります。
 ご乗車の皆さん。これから少し坂をのぼりますので気いつけてください」
 父は前の座席の背もたれを掴んだ。
 ぶおー。ぶぉん。
 怪しいエンジン音を響かせながら赤バスは坂道を上る。
 新浪速筋にへの道は上り坂だが、自転車で上がることが出来るくらいの坂道である。というかそれまでその道が上りになっているということを、父は知らなかった。
 ぶぅん。
 幸いなことに、エンストする事もなく、バスは坂を上りきり新浪速筋に入った。
「このバスは一応バリアフリーということにはなっているんですが、まだまだ改良の余地がありまして」
 運転手はさらに解説する。
「例えば車椅子用のスロープも、使いはるひとからは、まだまだ急やといわれます。また車椅子を固定するのももう一工夫欲しいそうですわ」
 父もそんな記事を、読んだことがあるような気がしたので、たぶんそうなのだろう。
 乗り込んでから十分。
 他に乗降客もなく、車は野田阪神に到着し、父は女性社員とともにバスを降りた。
 ぶおん。
 といって赤バスは走っていった。
 車内でみた循環ルートによれば、これからあのバスの行く手には、いくつか坂道があるはずだった。
 父は同乗した女性社員に意見を求めた。
「あれ、運転手がよくないです」
 それは父も感じた。仮にも大阪市の職員なのだから、あなり乗客に対して、身内に対する不平不満をいうのはどうかしている。
「それもそうですけど。運転がへたくそすぎます」 それはエンジンの調子が悪かったからでは。
「ヨーロッパ車なんですからもう少し、シフトをこまめに変えて。エンジンに負担をかけないような走り方をしないといけません。
 発進したら、すぐトップにいれて、あとはアクセルを踏み込むだけなら、誰にだってできます」
 いわれればなるほどと思った。
 父が最初に乗った営業車はテントウムシと呼ばれたスバル360であった。あれに乗っているときは阪急の踏切の真ん中でエンストを起こすなど、実にいろいろなことを経験したが。おかげで運転技術は格段に上達した。
「最近オートマばっかりですけど。あれって運転が面白くないと思いませんか?」
 ちなみにここ十数年来、父はオートマ車を乗り続けていたので、なんとなく恥ずかしかった。
 ところで赤バスといい、この新人女性社員といい今日は意外な発見が多かった。
「あのバス可愛かったから、また乗ってみたいですね」
 女性社員はいった。
 父はその意見には同意する気はなかったが、とりあえず、たった100円で面白いネタを仕入れたのだからよしとすることにした。

【筆者注】
 今回は父から聞いた話を、見聞録子が多少脚色して書いたものであり、内容の責任は全て筆者にあります。また赤バスが機械的なトラブルから事故に至ったケースもまだ報告されていないことを、付け加えておきます。皆さんも、大阪の街を訪れたときはぜひ赤バスをご利用下さい。そのころには運転手のしゃべりがもう少し練られているはずですので。



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