怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。 深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。 ――フリードリッヒ・ニーチェ 【ツァラトゥストラはかくかく語りき】より
いまさらこの文章を引用しなくてはならないのは、あまり賢いことではないのだが。 神を殺して発狂した哲学者が、“向こう側”へ渡る前に語った言葉が、これほどまでに痛切に響くのは心が弱っているからなのだろうか。 闇がせまっている。 「輝ける未来」が手の届かない彼岸であることを、知りたくもないのに、知らされてしまった我々は。回りの風景が黄昏の中へ、輪郭線を無くしながら消えてゆくのを、ただ途方にくれて眺めている。 帰るべき家は己が手で焼き払ってしまった。 そして、訪れる闇の暗さと冷たさを思い、戦慄と絶望に身を震わせながら、荒野に立っているのだ。 星々の輝きはあまりに遠く、凍り付く我が身を暖めてはくれない。ただ、唯一この冷えた身体を暖めてくれるのは、隣に座った人の薄い胸。 しかし、その人の姿もまた、闇のなかへと消えてゆく。 ぬくもりだけを信じて夜を越すことが、果たしてできるのだろうか? それは冷えた手が、凍り、腐り落ちる前の、偽りの暖かさではないと、断言できる人は幸せだ。 ああ、 (といきのあといったいなににいのればいいのだ)
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や〜めた。 …………までの調子で、このまま最後まで進めてもよかったのだが。読み返してみて、あんまし面白くないからやめ。 連載が押せ押せになるのはいつものことだが。 今回は画報の締め切り直前に、大阪で小学生が8人殺された事件を聞いて、ただでさえ停滞している原稿がいよいよ進まなくなっちまった。 かなりブルー入って、今回は落としてもいいかな、とチラッと考えたのだが。考えてみりゃ身内が死んだわけでもなし。世間で理不尽な大量殺人起こるたびに、原稿を止めていたら、なんも書けんようになってしまう。 でも、なんだな。 殺された人間より、殺した人間の方が、はるかに歳が近い。ということを聞くとある種いいようもない気分になるね。 しかも今回は精神安定剤でラリッて殺っちまったと、初めに報道されたので、同じような薬を常用している俺としては、正直ビビッちまった。 でも、考えてみるとおかしな話だ。 抗ウツ系のドラッグは飲むと眠くなるんだ。 それか考えるがタルくなって、ボケーっとしてしまうか。 無駄に考えが滑りまっくて、ほっといても脳味噌がオーバーヒートするような奴に対して、あの手の薬は処方される。 要はメルトダウウンしないための減速材みたいなものなんだよあの手の薬は、俺の感触ではね。 たぶん、あの事件では本人を初め少し文法を、取り違えているんだろうな。 「精神安定剤を十錠飲んで錯乱してしまった」 ではなく。 「精神安定剤を十錠飲んで“も”錯乱が治まらなかった」 というのが正しいんじゃないのかな。 これは俺の憶測なんだけどさ。 今の向精神薬ってソッコウで効くのはかなり少なくなっているらしい。 だってあんまり効きが良すぎたら、ブロンとか、ハルシオン、それにヘロイン(さすがにこいつはまだ試したことはないが)と同じように使う奴らがでてくるだろ。 それに、少々頭が病んでいるからといって、仕事をしなくてもいい、というほど世間は甘くない。いまの世の中ってやつは昔と比べてハードなんだ。薬でボケーとしているくらいなら身体を動かせって、エライ奴らもいってるだろ。 そんな。社会の要請と科学の進歩のおかげで、いまの向精神薬はマイルドでもよく効くんだ。 けれども今回の事件で一つ思い知らされたのは、 「薬をのませていてもそれだけでは、殺人を止めることができない」 ってことだね。 考えてみたら、あの犯人の手の中には悪い札しかなかったもんな。 30も半ばを過ぎた中年。精神病者。前科者。無職。独り暮らし。デフレで先の見えない不景気。 まあ犯人には、これまでいわれていきたような未来はないだろうな。 でも、これだけでは知らない子供達を殺しまくる理由になんか、全然なんないけどさ。 なんてったって、事件が起きた大阪には1万人以上のホームレス・ピープルが路上に寝てるんだ。アパートに住んでて、クルマまで持っている奴に情状酌量の余地はないよ。 仮にこんなショボイ理由で殺しちまったとしたら、東京の上野や大阪の阿倍野あたりでは、今頃パレスチナのガザ地区も真っ青な殺って殺られて状態になっているはずだよきっと。 じゃあどうして8人も殺したかというと……。 基地外(打った文字がこう変換された。ATOKにも自主規制がかかっているのがよくわかる)ということになるんだよな。 そうしないともたないよ、社会が。 全ての人間の魂は基本的に善であり、犯罪を起こしたのは、環境が悪かったか、脳の器質に欠陥があったからだ。 というのが俺達の間では暗黙の了解であって。 人間の魂の中には、生まれつき悪をなさざる得ないようなものもあって、そいつらは環境が最良で、脳も好調なのに運命的に闇に落ちていってしまう。 なんてことをいったら、白い目で見られて、つまはじきにあってしまう。 個人の持つキャラクターなんて、30年くらい前に抹殺されしまったんだ。 昔は、異常な人間が出てきたとき、まず新聞にコメントを載せたのは三島由紀夫や石川達三といった「文学者」だった。だって、前世紀には文学者くらいしか、キャラクター=個性という訳のわかんないものを、商売として考えている奴らはいなかったものな。 いまでは、精神学者、精神科医といった、キャラクターを分類して修理するのをのを商売にしている奴が、仕事の延長としてコメントをだしている。 現実的かつ現場主義に世の中が進歩したんだろうな。だって文学が魂を良い方向に導いた、なんて寝言だよ。それよりも治療によって心の病が治ったというほうが、遙かに気が利いてる。 「文学とは魂を向上させるためにある」 うえの「」の後に“(笑)”とつけてしまわないためには、とうの昔に墓に入った夏目漱石や森鴎外みたいな明治の文豪を、現世に引っぱり出すような、トリッキーな手法をとらなきゃなんない、というくらいに文学の世界は進歩したんだ。 あるいは、読者がひねくれて(大人になってともいえる)普通じゃウケなくなったんだ。 だって、サービス残業したり、i-modeでメール送ったり、モー娘の歌覚えたり、渡る世間は鬼ばかりを観るだけで一日はあっという間に過ぎてしまう。 みんな忙しいんだよ。 面白くなければ、当然本なんか読まれないさ。 なんの話をしてたんだっけ。 薬だけでは殺人を止められないって、話だったな。 だからどうだっていわれたらしょうがないけど。 俺達は自分や肉親、親しい人がいつでも理不尽に殺される可能性があることを覚悟しなきゃならない。昔からそうだったんだけど。未来が遠のき、しかも神様も殺された今では、この覚悟をするのはとてもシビアだ。 そして、この無慈悲な確率を下げるための具体的な方法はいまのところない、というのが俺の考えだ。間違っていたら教えて欲しい。本気でそう思う。 いやひとつだけあるような気がする。 陳腐だと、笑わないでくれたらいいだけど。 たぶんみんな自分のことだけで精一杯だろうけど。 もし、少しでも余裕があったら、誰かの話を聞いてやって欲しい。 他人の話なんて、ほとんどが自分勝手で、退屈で、うっとおしいというのは否定しない。 聞いたからといって、おばあさんの知恵袋ほどにも役に立たないし。酷いときには、相手のブルーな気持ちを抱え込まされるはめにもなるだろう。 けれども、もしあなたが、誰かの話を聞くことによって、その誰かは少しは気分が楽になるかもしれない。 人の心の中の物語が腐敗し、饐えた臭いをまき散らす前に、少しでも風をいれてやることで、もしかすると腐敗が止められるかもしれない。 正直、自分でも誰かの話を聞く、と言うことに対して、ホンマかいな? とも思うし、効くのかよそれ? ときかれてハイと大きな声で答えられるわけではない。 ただ、もし誰かがいつも自分の中の物語を聞いて、頷いてくれたならたぶん楽になるな、と思うんだ。 どうか知らない誰かに少しだけ優しくして欲しい。 これから長い夜が始まる。歴史学ではこの闇のことを「中世」と呼ぶ。これから来る闇には神という小さな光すらない。この闇の中で、頼れるのは他人の優しい体温だけなのだから。