男が世紀をまたぐとき

黒川[師団付撮影班]憲昭

 激動の二十世紀。
 そして、まだ混沌としてその全貌が掴みがたい、二十一世紀。
 これは或る男が 世紀を越える、その瞬間のレポートである。

 二十世紀末はぎりぎりまで忙しかった。
 なにせ12月30日まで、目一杯働かせてくれたのだから。
 去年からデバッグに派遣されているのだが、年内最終のROM焼きが12月29日まで大幅にずれ込んだため、バグ修正達成率の数字を“若干”でもいいから引き上げるべく、30日の勤務を上司に“希望”されたのだ。
 この手の希望をいったい誰が断れよう?
 日銭で働く貧乏人に対する雇い主の配慮に、ありがたくて涙がでる。
 で、30日は全く人気のない工場の片隅でお仕事。
 本社、関連会社の社員は、前日までに仕事を切り上げており(なにせ彼らは労働組合に加入しているのだ、これは20世紀の輝かしい成果ともいえる)、人気のない工場の片隅でデバッグをやった。
 そのおかげで、達成率は本当に“若干”上昇した。
 加えて、ほとんど修正個所がなかったので、大規模なテストのやり直しや、大幅な数字の書き換えなどの事務作業もほとんどなく、作業自体はほとんど午前中に終了した。
 たぶん、あわれな派遣業者のために、本社側の労働者諸君が、仕事の手を抜いてくれたのだろう。世紀末にも、労働者の団結は残っているようだ。
 偉大な、マルクス、レーニンに感謝!

 大晦日は朝から、これまでさぼっていた部屋の掃除。
 主に紙と埃を主成分とした、大量の塵芥の中、賽の河原の石積みに似た作業を行う。さらに家の床拭き、パソコンの解体掃除などで午前は終了。
 昼食は世紀末だが、年越しそば。
 午後一番に、洗車、終了と共にみぞれが降り出す。いわゆるマーフィーの法則というやつだ。
 水っぱなをたらしながら家に入ると、プリンタは年賀状の印刷を終えていたので、急いで文句をひねり出し、片っ端から書いていく(急ぎすぎて意味不明の文章が続出し、新年早々ひんしゅくをかうこととなるが、それはまた別の話だ)。
 ようやく、年賀状が出来上がったのが、今世紀最後の郵便ポストの収集十分前。投函しにゆくついでに今世紀最後の(我ながらしつこいな)買い物に出かける。
 本屋にいくと2001年版の、現代用語の基礎知識、イミダス、知恵蔵が並び、一冊だけだったが理科年表も置いてあった。で、それらを見ながら瞬時どれかを買おうかと思ったが、年が明けたら安くなる古書店を思いだしたので、買わずに帰った。
 その日は早めに風呂に入ってから、夕食で一杯飲む。
 さあ、いよいよミレニアムのカウントダウン。その前に少々疲れたので、一時間ほど布団横たわり……。

 目が覚めると、太陽が輝いていた。
 それも空の高いところに。
 世紀越えのカウントダウンも聴くことなく、昼まで眠りこけてしまったのだ。
 まさか新世紀を寝過ごしてしまうとは……。
 そのことに気が付くと、まるで充電池が切れるかのように、へにゃへにゃと気力が萎え、正月一日は寝たきりとなってしまった。

 翌二日。昼まで寝ていて、夕方からは恒例の「人外協新年会INエーデルワイス」に参加。
 これについては、毎年のことだが断片的な記憶しかない。外連の主席を皆で迫害したことや、知らない人(たぶんエーデルワイスの常連さんだろう)が乾杯の音頭を三回もとったこと。タハ、オモチロイと叫んだこと。女性に蹴られたこと。
 最後の方ではマラカスとタンバリンを降りながら、大声でクレイジーキャッツをがなっていたのを微かに憶えている。

 正月三日は、例によって頭痛により始まり、翌日から仕事が始まる予定だったので、終日おとなしく寝ていた。もちろんお宮参りになどいけるわけがなく、トイレにいくのにすら決意が必要だった。
 いつもならば、己と世間に対する悔恨と憐憫という、二日酔い定番の楽しみがあるのだが、新世紀からは嘘、見栄、愚痴、の三悪を廃絶する事にしたので、寝ながらやることに窮し、ここで始めて本格的な読書を開始した。
 その日の夜に、急遽仕事の開始が6日からにずれ込むとの連絡をうけ、喜びの舞を踊ったため、頭痛がぶり返したりしたが、読書は続行された。

「女(わたし)には向かない職業2」いしいひさいち
「ミトコンドリアと生きる」瀬名秀明・太田成男
「いざとなりゃ本くらい読むわよ」高橋源一郎
「Mrクイン」シェイマス・スミス
「未来放浪ガルディーンB大豪快」火浦功
「ダイバーはパラオの海をめざす」太田耕輔
「タツモリ家の食卓2」古橋秀之
「単独行」加藤文太郎
「フルメタル・パニック」賀東招二。
 われながらほとんど脈絡のない組み合わせだ。
 手近にあったつんどく本を、とりあえず片っ端から手に取り、読みにくいものは、放り投げて次をあたる、という読み方をした結果なのだから、こんなものだろうが。
 そうそう、
「SFマガジン2月号」
 というのもあったっけ。
 ほとんどがヤングアダルトなのは、新世紀はヤングアダルトからはじまる、というような戦略的な見地から……、ではなく酒に疲れた頭には「夜会に向かう三人の農夫」より、「クラッシャージョウ・連帯惑星ピザンの危機」の方がフィットしただけだ。
 軽いものばかりの中で、「単独行」だけが異彩を放っているが、これは前世紀に図書館で偶然見つけて、借りておいたものだ。
「白き嶺の男」
「孤高の人」
 の原点となった本として、一応目を通しておこうという意図からだったが、読み終わってから大いに反省させられた。
 正月にたった独りで、山奥の湯治場に籠もる、寂しさと比べて、ぬくぬくと布団の中で本読む自分を反省した。
 が、布団から出る出ないはまた、別の話だ。
 結局本格的に起きあがったのは、奇しくも、七草の日と同時であった。

 以上が、或る男が世紀を越える瞬間を記録した、ほぼ一部始終である。
 この記録を、わが妹に読ませたところ、
「ただの連休と何処が違うんだ?」
 といった。
 この文章を読んでいてそういう疑問を持った方も多いだろうが、ここで逆に問うてみたい。
 二十一世紀だからといって、なにか変わったことでもあるのかい?

(でも、人外協の皆様。本年もよろしくお願いします)



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