空中王国の見学者

黒川[師団付撮影班]憲昭

 いまから三ヶ月ほど前のことだ。裏山の神社からの帰り、参道を歩いていると木槌の音がした。まだ霜と共に夜明けを迎える二月のころ。葉を落とし、火事で燃え尽きた家のような冬木立に、乾いた響きが時折休みながら、それでも止まることなく続いていった。
(神社で屋根の修繕が始まったのだろうか)
 そう思ったが、いまさっき柏手を打ち、鈴を鳴らしてきた神社では誰とも会わなかったし、工事の車も見なかったのですぐにうち消した。神社までは、軽自動車が一台通るのがやっとの参道が一本あるだけで、そこを登って、降りてくる途中のこの場所まですれ違う人もいなかった。
 音源を探るために耳を澄ませる。どうやら結構遠いところか、あるいは高いところで、槌をふるっている様子だった。あり得ないと思いつつも、期待を込めて、葉を落とした周囲の木々を注意深く観察してた。
 すると梢に近い幹の、ちょうど反り返った所に、ほとんど地面に背中をむけた格好で、少しずつ先端に向かいながら、頭を激しく振りながら、自前の槌を打ち込む姿があった。
「キツツキだ」
 呟いた言葉は、木を叩く音のみが続く林の中で、かなり大きく耳に聞こえた。
(テレビでしか見たことがないような珍しい鳥が、こんな住宅地の側にいるなんて)
 この呟きが聞こえたのか、あるいは梢に達したためか。キツツキは次の瞬間、林の奥へ飛び去り、すぐに姿が見えなくった。同時に全ての音が消えた。 林は再び静かな眠りに落ちた。
 だが、それまでは廃墟のようにしかみえなかった木立の間に、何かが息づいているような気配が消えることなく残った。
 翌日、参道を歩いていると、またキツツキが木を叩いている音が聞こえた。その時は姿をみつけることが出来なかったが、かわりに緑色の小鳥が数羽、まるで枝の間で追いかけをしているように、飛び回っているのを発見した。
 そのまた翌日は、またキツツキを見ることが出来た。それ以外にも、近くの枝に別の種類の小さな鳥が、群なのだろうか、けっこうたくさんいた。
 次の日も、そのまた次の日も、鳥たちの姿を見た。どうも日を追って増えていくようにかんじられた。そのころから心の中で小さな博物学者が目覚めたようだった。それは小学校以来ずいぶん久しぶりのことだった。

 三月に入ってから、ペンタックスの小さな双眼鏡と、野鳥のポケット図鑑を購入した。
 そして、水たまりに氷が張った春は名のみのある日、にわかバードウォッチャーは、首から新品の双眼鏡をぶらさげて裏山の神社へと向かった。
 山道にはいると、早速、木の枝に尾羽の長い小鳥がいるのを見つけた。興奮しながら小鳥に双眼鏡を向けピントを合わせると。
(あれ、いない?)
 双眼鏡から目を離し、枝をみるが確かにそこで、なにやら毛繕いをしている小鳥がちゃんといた。
 もう一度双眼鏡を向けた。
 だがいない。
 双眼鏡を右に動かす、と移動する視野の左隅で何かが動いた。
 双眼鏡を左に戻すが、見つからない……。
 もう一度、今度はゆっくりと右へ振っていくと。(いた!)
 視野の中で、目の所に黒い線の入った鳥が、枝にくちばしをこすりつけるような動作をしていた。
 もっと細部を観察するために目を凝らすと、急に視野が薄い膜に包まれたように曇ってゆき、すぐに何も見えなくなった。
 寒気のなか、吐息が接眼レンズを曇らせてしまったためだった。
 あわてて、シャツの裾でレンズを拭いたが、終わって顔を上げたとき、鳥の姿は消えていた。
 気を取り直して、先程の鳥の名前を知ろうと、ポケット図鑑を開いた。ぱらぱらとめくるがどうも該当する鳥がよくわからなかった。これはというものもいくつかあったが、どうも色が違うような気がして、これだという確信は得られなかった。
 どうやら、造物主はクリエイティブな才能が乏しいのか、あるいは細かいバリエーションを増やすのが好きなのか、とにかく微妙に違ったものがひどく多い。
 図鑑を閉じて、改めて木立を見回した。
(どうやら、バードウォッチングというのは、一筋縄ではいかないみたいだ)
 林の奥で、たぶんなにかに似たような鳥が、高い声で鳴いた。

 その日の夜、光学機器メーカーのホームページを開き、スペックについての解説を読んだ。それによれば双眼鏡に記入された、8*21/8.3°という記述は、(倍率八倍)*(レンズ直径21ミリ)/(実視界6.2°)という意味らしい。
 用語説明によると、実視界とは双眼鏡を動かさずに見ることのできる範囲を、対物レンズの中心から測った角度。この場合1000mでは108.3mの範囲を見ることができる。
 ということは、5mの距離では直径0.541mの 範囲しか見ることができない。鳥のとまっている枝から、見ている場所までの距離はこれよりさらに短い場合が多いので、見える範囲は30cmくらいと考えていいだろう。
 裸眼の視野は180°を超えており、そこからいきなり見える範囲が100分の1以下になるのだから、よほど対象へ視線を固定しなければ、すぐに見失ってしまうのは道理だった。
 また、レンズの直径は大きいほど、対象が暗くてもよく見えるようになるとあった。つまり解像度が上がる訳だ。当然といえば当然の記述を読みながら、ふと図鑑の鳥が実際みた物と違う理由に思いいたった。
 図鑑に使われた写真は当たり前だが良く撮れている。具体的にいえば順光(撮影者の背中に光源がある)で、適正な(もっとも細部まで描写された)露出で撮影されているということだ。
 今日、双眼鏡を向けた鳥は林の中にいた。いくら葉を落としているといっても、やはり林の中は暗い。しかも太陽は逆光(撮影者の正面)に近かった。
 これでは、見た目が黒っぽくならない方がどうかしている。普段、自動的に露出が補正されたテレビカメラの画像を見慣れたせいで、実際の見え方もそういうものだと、無意識に刷り込まれてしまっていたのようだった。
 図鑑でそれらしいと思った鳥を、色を無視してみれば、なるほどそれらしい特徴を備えている。ということは、枝に止まっていたのはどうやらエナガらしかった。
 ホームページを読みすすめてゆくと、双眼鏡の世界もかなり奥が深いことがわかってきた。ペンタックス以外にも、ニコンやツァイスなどのレンズメーカーが、それぞれに工夫を凝らした製品を発売していた。
 中でも、ニコンの製品にかなり良さそうなものがあった。もっと、大きめの双眼鏡の方が、倍率も変えられるなど、機能的に優れていた。
 通信を終えたとき、物欲がふつふつとたぎっていた。同時に、これまではホームページの広告について、疑問をもっていたのだが、それも完全に氷解していた。

 翌朝はシベリアから寒気が入って、ひどく冷え込んだ。それでも起き出すのに何の苦労もなかった。 外にでると、冷たい空気の中へ、かすかに甘い香りが溶けていた。庭の片隅の梅が数輪、ほころんでいた。
(さあ、今日はどんな鳥がいるのだろう)
 そう考えると、自然に顔がにやけてくる。
 と、その時。後ろから妹に呼び止められた。
「?」
「お兄ちゃんそんな格好で何処いくの?」
 そんな格好? いつものようにジーンズに黒のMA1という服装はそんなにおかしいだろうか。そういおうとしたとき、妹は胸を指さしていった。
「そんな物をぶらさげて、ご近所を歩かないで」
 胸には、首からぶらさがった双眼鏡があった。
「昨日の回覧に書いてあったでしょ、最近おかしな人がうろついていて注意しろいって」
 そんな回覧はみた記憶が無かったが……。
「双眼鏡なんか持って歩いてたら、のぞきと間違えられてもしょうがないわ」
 周囲の空気よりも冷酷にいうと、妹は温かい家の中に戻っていった。目の前でドアが閉まるのをみてから、双眼鏡を首からはずした。
 ちいさなそれは上手い具合にジャンパーのポケットに治まった。
 もっと大きな双眼鏡を買うのは、しばらく延期した方がよさそうだった。



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