或る冬の日記から

黒川[師団付撮影班]憲昭

某月某日

 昨日、花屋で鉢植えを買った。
 店先ではまだ一輪も咲いていなかった。今日見ると、細い枝の上に並んだ小さな白い蕾の幾つかが、暖房の効いた部屋の中で開いていた。六畳間にハーブと蜜を混ぜ合わせたような香りが満ちた。
 試みにストーブを止めてみた。薬缶からの蒸気が止まり、部屋の温度が下がりだすと、とたんに香りも衰え始める。花も心なしか生気がなくなったようだ。
 再びストーブをつけ、薬缶が音を立て、暖かさが戻ってくると共にまた香りが漂い始めた。いっとき開くのを止めた蕾も、またそろそろと頭をもたげてくる。
 今日は一日花の前で過ごした。

某月某日

 梅田の映画館にて「ナビィの恋」を観る。
 平日の午後一時開演だというのに、百席弱のシートは七割方埋まっていた。観客の年齢はばらけていたが、かなり高齢の人が二、三いた事に驚いた。
 予告編が終わると、碧い海がスクリーンに現れた。
 少しくたびれ始めた連絡船、野暮ったい乗客達の服装、海から突き出た白い崖、その上に経つ通信塔、錆が浮き出て半分壊れたような軽自動車、そしてあまりに蒼くて暗くさえ感じる南洋の青空……。
 冒頭にそれらが目に飛び込んできた瞬間から、僕はこの映画を冷静に見ることが出来なくなってしまった。風景が、旅した土地の記憶を強く呼び覚まし、涙が流れた。
 それから上映時間中、何気ないシーンにもことごとく心を揺さぶられ続け、気がつくと終わっていた。であるので、この作品について語ることは止めておく。
(でも一言だけ、映画の中でのフィドル=ヴァイオリン演奏だけでも聞きにいって損はない。)

某月某日

 突然、左の方でボトリという音がした。
 そちらを向くと、今度は右側でボトリ。
 とっさに空を見上げて予想通りのものを見つけると、あわてて道の真ん中へ飛び退いた。
 そして安全な場所へ避難してから、あらためて電線の上に群がったツグミ達を睨みつけた。
 冬もようやく後半にさしかかったころ、住宅街にツグミの群がやってくる。鳥にとっては食糧難のこの時期、庭に植えてある栃や千両などの実は願ってもない栄養源だ。
 別に、それらの実を食べることについて異議を唱えるつもりはない。欲しいんだったら幾らでも持っていくがいいとも思う。問題は、群全体が一斉に食事をした後すぐ近くの電線の上で、これまた一斉に小休止をとることだ。
 たまたま、その下に置かれた自動車は悲惨なことになるのはいうまでもない。ちなみに、鳥のフンという奴は一度乾燥するとこびりついて落とすのにひどく苦労する。
 この分では、もう後二、三日で奴らは我が家の庭を襲撃するだろう。その前に、要所へビニールシートを掛けておかなければ。

某月某日

 異形コレクションvol.15「宇宙生物ゾーン」を読む。
 このコレクション、出来の善し悪しが各巻ごとにかなりばらつきがあって、毎回買うときにはちょっとした博打の気分が味わえるのだが、今回はラインナップを見ただけで素直に購入。
 予想に違わずかなり楽しめた。特に眉村卓の作品で、名前の後にアルファベット記号が付いているのを見つけて大いに喜ぶ。
 で、確かに面白かったのだが一つだけ疑問が残った。
 内容といい、SFマガジン2月号のような執筆陣といい、これって本当にホラーか?
〈付記〉
 指摘されて気がついたのだが、サブタイトルから「ホラー」という文字が消えていた。なるほど。

某月某日

 雨戸を開けると世界が白く染まっていた。
 二月に入ってから何度目の雪だろう。
 東北や日本海側ならともかく、関西ではこれだけ雪が積もるのは珍しいことだ。テレビをつけると、各地の雪の様子と共にこんなやりとりがあった。
 アナウンサー問う「長期予報では暖冬になるということだったのですが」
 気象予報士曰く「そうなのですが、この二月は観測史上十位に入るほどの寒さとなりました」
 しれっとした顔でいってのけた後、今週の気象予報を読み上げるのを見ながら、気象予報士というのは結構よい商売のように思えてならなかった。

某月某日

「なんなんだ、この便利さは!?」
 思わず声を上げたのはある寒い深夜のことだ。
 文章が上手く書けないと愚痴っているとある人が「アイデアツリー」というシェアウエアを勧めてくれた。
 翌日、早速ダウンロードして使ってみたのだが、あまりの使い勝手の良さにあげたのが、冒頭の声だった。
 これまで、メモ帳や情報カードを辺りにまき散らしながらやってきた作業が、画面の中だけで格段に効率よく出来る。あちこち紙の束をめくっていた従来の方法がひどく愚かに感じられた。
 操作法はエクスプローラやワープロソフトに準拠しているのですぐ覚えられるし、ソフト自体がひどく軽いのでストレスがまったく感じられない。
 これほどまでに便利なものが2千円也で手に入るとは、まったくいままで俺は何をやってきたのだろう。

某月某日

 風邪をひいて寝込む。
 天井がいつもより高く感じられ、逆にドアが近くに感じられる。熱のせいで脳の距離感を司る部分がおかしくなっているらしい。
 ある友人は、風邪をひくと時計の秒針を刻む音にすら我慢できなくなるという。また、味覚が変わって普段あまり口にしないような甘いものが食べたくなる、という者もいる。
 明日は、事情があって出かけねばならないので、今日中に風邪を治してしまわねばならない。なので、あまり気が進まないがいつもの民間療法を試してみることにした。
 洗面器にお湯をはって顔をつける。そして、片方の鼻の穴を押さえ、もう一方から思い切り湯を吸い込んで、出す。それを何度か繰り返して鼻孔を洗浄する。終わったら、もう一方も同じように。
 はっきりいって苦しいが、これで鼻づまりはかなりの確率で直るのでよろしければ。なお、洗面器の中で溺死しないようにすること。

某月某日

 日当たりの良い場所では梅が満開になっている。
 沈丁花のつぼみも膨らみ、花壇では春咲きの球根が芽を出し始めた。
 冬枯れの風景も、あと一月もしたならば萌葱色へと染まっていることだろう。
 頭の上に重い鉛を置かれたような冬もあと少しでおしまい。
 もうすぐ春がやってくる。
 さて、今年はどんな桜を見ることになるのだろうか?。



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