十一月も終わりに近いある金曜の夜ふけのことだ。
メールのチェックとメーリングリストへのレス・新規、電話での馬鹿話と長話などなどで、気がつくともう少しで土曜日になりかけている。
今日も原稿が書けなかった、明日は休みだもう一仕事、しかしなんだか首筋が寒いや。とりあえず霜月の夜を乗り切るべくアルコール燃料をコーヒーカップに投入するが、これだけでは体に悪い。かわきものをキーボードの側に広げて準備完了。
ところが誤算だったのは、使用したひげのおじさん印の国産アルコール燃料ははなはだ燃費が悪く、三十分もたたないうちに第二段を投入する羽目になったことだ。二杯がいつしか三杯となり、あげくのはてに白河夜船、このままゆられりゃ本気で凍死しかねない。
結局いつも通り、煎餅布団に一時退却し、それからすぐに夢の中へとずるずると撤退、というこれまたお定まりの展開とあいなった。
ところが、その夜はそこからが少し違った。半分寝ぼけながら夢の世界へやってくると、なにやら先客がいる。こちらの姿を見ると、まあこっちへ座んなと人んちの夢なのにいやに横柄だ。座るとすぐに、くどくどと説教を始めたのだから堪らない。
「俺はこの辺りの生まれで、その縁でご町内の面倒を見させてもらているが、お前さんという人にはほとほと愛想が尽きた、うんぬんかんぬん」
説教はされるわ、眠いわで、いったいここになにしに来たんだろう、と思っていると明け方頃ようやく解放された。去り際に。
「いいか、天王寺公園の大阪市立美術館で待ってるからな、絶対に来いよ」
という言葉を残して消えたのだが、せっかくの休みに迷惑な事だ。だがあの性格では下手に無視したら今夜にでも押し掛けて来かねない。あまり寝たきがしなかったが、とにかく布団から立ち上がろうとして、すっ転けた。どうも脚を寝違えたようだった。
天王寺駅のTISで二百円引き、八百円で売られていた入場券を買って、天王寺公園へと向かう。
公園入り口の所で餅を焼いている屋台の隣に、一辺一メートルほどの檻が置いてあり、中に雑巾色をした毛玉が丸まっている。段ボールに書かれた「ラスカル」という単語からあらいぐまだと見当を付けるが、腹に頭をつっこんでふて寝を決め込む姿は近所の性悪猫のようだった。寒風のたびにもぞもぞ動く姿になんとなく哀れを誘われ、カンパの箱に小銭を入れた。
公園の高い柵に囲まれた路上には、古着と古道具を商う人が多くいたが、ここの商品のレベルは木曜日のゴミ回収所に限りなく近い。いったい、片腕のとれたバイキン君やテレビのリモコンだけを買う人がどれだけいるのだろう? そんな店でも、並べられた商品を熱心に品定めする客がいることもすごいことだが。
その横では路上カラオケが大音量で演歌を流しており、一回二百円で歌うことが出来る。しかもバックダンス付きだ。数えてみたらカラオケの露天は前よりも一軒増えて五軒になっている。
長さ五メートル近いテーブルの上に、一万本近い音楽テープを並べている店があった。その全てが、どんなに好意的に考えても違法コピーにしか見えない。だってカセットラベルは全て白黒コピーを切り抜いたものなのだから。これを三本千円で売るとはよい度胸だ。
そんな道を十分ほどぶらぶら歩いて行くと、大阪市立美術館の前にでた。そこには「特別展、役行者と修験道の世界(十一月二日から十二月五日まで)」という看板が上がっている。チケットはあらかじめ買ってあったので、すぐにゲートを通るが、見ると券売機の前に結構人がいた。
ゲートから階段を上がると、すじ雲の流れる晩秋の空が広がっていた。数メートル下の世界が嘘のように静かだ。入園を有料化して天王寺公園からホームレスを閉め出したことに、いまなおいろいろな意見があるが、このような静寂を味わえる事の喜びはなかなかに捨てがたい。
館内に入ると、予想以上に人が多かった。盛況といっていいだろう。もっとも、美術展にしてはやけに数珠を持った人が多かった。ちなみに田中啓文先生のHP日記にあったように、仏像の前に小銭が置かれている事はなかった。あるいは皆、ラスカルにやったのかもしれない。
初めの展示にとても印象的な法起菩薩の頭部の木彫りがあった。解説には法起菩薩は五眼六臂とあり、説明どおりその顔には五つの眼があった。仏像は一つの顔に多くて三眼までというふうに思いこんでいたのだが、その仏像は普通より二つ眼余分にあって、しかもバランスよく配置されているというとても珍しいものだった。
その次のホールには、役行者の像が年代順にずらりと並べられて、時代ごとの変遷が一目でわかるようになっていた。役行者は憤怒を浮かべた顔、長頭巾に高下駄、そして左手に杖か法具という決まった様式がある。時代が古いものほど、表情が荒々しく、爪が伸びていたりして、いかにも異形の(もっと言えば鬼神に近い)人として表現されていた。また左右に侍る、前鬼、後鬼像も古い時代ほどより化け物らしく作られ、時代が下るにつれてしだいにいかにも鬼らしい様式に固定されていくのがよくわかった。個人的な感想を言えば技法は稚拙だが古いものほどより面白みがあった。
法起菩薩と同じく、修験道の神仏とされている蔵王権現も各時代ごとにかなりの数が並べられていたが、細部の様式はともかく全体的にどれもよく似通っているように感じ、役行者像ほど個性が感じられなかった。あるいはここら辺に、一応実在の人物とされるものと、神仏の違いが出ているのかもしれない。また、役行者、蔵王権現と同じ場所に不動明王を初めとする明王像の一群があり、なかなか迫力にとんだものだった。
それらの像を見て二つの事を感じた。一つは修験道の尊像にはなぜか異形のものが多いということだ。確かに、仏像には人の姿とはかけ離れたものが結構あるが、今回の展示ではその割合が一般の仏閣よりも明らかに多かった。頭や、手の数がたくさんある尊像が頻繁にあることについては修験道特有のなにかしらの意味があるのだろうが、特に解説はなかった。
もう一つは各像の表情がとても荒々しい事だ。東大寺二月堂の十二神将像なども豊かな表情をしているがどことなく上品な感じがする。ところが今回展示された像の多くは、豊かと言うよりも、むしろ荒っぽいという印象を持った。これも、もしかすると修験道と仏教の違いに関わってくるのかもしれない。
ところで、展示品を見ていて気になったのだが、マグライトを持って像や絵を照らす人がかなりいた。確かに、展示品の細部を見るのには便利なのだろうが、細部よりも全体の雰囲気を楽しみたいような者にとってはかなり煩わしく感じる。それに、館内が暗くしてあるのは展示品を保護するためでもあり、強い光を向けるのは作品にとってあまりよくないと思うのだがいかがだろう。
その他の展示品では三頭蛇身の姿に描かれた弁財天像やいろいろな種類の曼陀羅が印象に残った。そして、途中のパネルに役行者の生涯についてのパネルがあり、奈良県側の葛城山付近、つまり我が家のある地域で生まれた事を知った。
展示を見終わってミュージアムグッズを覗くと、図録や絵はがきと並んで、数珠や法具などあまり今回の展示とは直接関係のなさそうなものが多く並んでいた。特に、あの饅頭笠はいったいどのような人が買ってゆくのだろう?
美術館から出ると外はすでに日が落ちて、通天閣のネオンが輝いていた。階段を下りて行くと、風の中に演歌の声がだんだん強くなってゆく。義理も果たしたし、これで今夜からまたゆっくり寝られる。お祝いに新世界で酒でも飲んで帰ろうと思った。