[闇商人]氏の原稿(『画報』八三号「湘南屋主人言上」)を拝見したのですが、よくご存知なことだと小林氏の博学ぶりに感服はしたのですが、たまさかのミスもあるようです。訳語の点で、私の乏しい知識のうちで気のついたことをまず一点。
「主計」の英訳なんですが海軍の場合はpaymasterと訳すのが正しい。quartermasterが「主計」の意味を示すのは主に陸軍です。手短にいうと、quarterの意味が陸海軍で違うからで、陸軍のquarterは「官舎、宿営」のことを指すので(それゆえ司令部をHeadquarterという)、それが「補給・給養」と結び付くのは、中世の絶対主義王制のもとでの傭兵軍隊では、雇った部隊の兵士(王国が指揮官ごと部隊を雇う時は指揮官も含め)の給与糧食の調達が軍の司令部のもっとも重要な役目だったからです(傭兵軍隊は君主に対する忠誠心―それ以前の封建国家での騎士階級の軍隊の意味でも、それ以後の近代国民国家の軍隊の意味でも―はないので、給養が不十分ならすぐ逃亡してしまうから)。ドイツ参謀本部のもともとの出発点が(別にドイツに限らずヨーロッパのどこの国の軍隊でも国軍最高司令部の出発点は同じなのだが、渡部昇一『ドイツ参謀本部』―ただし秦郁彦氏によるとあの書はほとんど剽窃でできているという―以降ドイツの話をするのが一番通りがよくなってしまった)作戦ではなく補給の元締めとして出発した(作戦は宮廷内の国王の軍事顧問たち側近を中心に構成される軍事内局が指揮官の人事権とともに握っていた)という歴史を知るなら、陸軍においては「統帥」と「補給」が極めて密接な関係にあるということが容易に了解できましょう。(ついでにいうと日本の参謀本部は傭兵軍隊の経験を経なかったので最初から作戦中心、というより作戦一本槍で発足し発展した。旧日本軍の補給軽視を日本軍統帥部の「遅れてきた」ゆえのヨーロッパと違った始源のあり方に原因がある、とする見解がある)
英国陸軍の准士官(英米の准士官制度は日本のものとかなり違うので日本の尺度で考えると混乱をきたすことがままあるが、今回はそれに関しては省略)のなかにquartermaster
sergeant major(略称R.S.M)というのがありますが(WO1とWO2の間の階級)、このquartermasterは「給与・給養」の意味でしょうね。
海軍におけるquartemasterの意味は[闇商人]氏が文中で説明しているとおりではありますが……またこの語は別に商船に限ったものではありませんので、海軍でも舵取りのことをquartermasterと申します(手許のGuid
Rosignoli “Naval and Marine Badges and Insignia of World War
2”;BLANDFORD,1980,UKでも合衆国海軍の操舵下士官をquartermasterと称している―階級章に舵輪のマークがついているので主計ではないだろう―)。
なお、旧海軍では(陸軍でも同じようなもんでしたが)「主計」は経理と給養を含みましたが(おおざっぱに考えれば今日の自衛隊でいう「後方」――これは自衛隊では米軍のlogistics(兵站)の公式の訳語として使用していますが――の概念に近い)、狭義の経理業務を担当したのは少尉以上の士官(広く考えても下士官)以上で、一般の兵が担任するのは給養業務だけでした(逆もまた真なりで、いくら大兵団の厨房でもシェフが将校または相当官などということはない)。
要するに海軍では(商船を含めて)主計・補給・給養を担当する人間にquartermasterを関することは、私の知る限り(というと権威も何もあったもんではないが)ありません。手許の研究社の『英和中辞典』を引いても、補給の意味のquartermasterはすべて陸軍の用例に限られています。
なお付け加えておくと、海軍主計官としては昔はpurserが使われていましたが、英国海軍では一八五二年以降paymasterの語に変わったそうです。
ところで、quartermasterが民間の「操舵手」なら、海軍の「操舵手」ってのはなんて言うんでしょうね?(^_^;)
次に、英訳とは離れるのですが、もう一つ。
「注解」*10での、「機動隊」と「陸自」とが「イトコ同士」とはどういう意味でしょうか。(警視庁の)機動隊の前身「警視庁予備隊」と、陸上自衛隊の前身「警察予備隊」がそれぞれ自治体警察、国家地方警察の「予備隊」であり、自治体警察と国家地方警察が「兄弟」関係にあった、という認識に基づいた発言なのでしょうか。とすれば、警察予備隊創設の経緯につき、若干の事実誤認が指摘できると思いますので、以下そのことについて簡単に触れておきます。
警察予備隊創設の経緯は比較的よく知られた事実です。一九五〇年七月八日に連合国最高司令官マッカーサー合衆国陸軍元帥より吉田茂総理大臣へ宛てられた一通の書簡から警察予備隊の歴史は始まります。
「日本政府に対し人員七万五〇〇〇人からなる警察予備隊(National Police
Reserve)を設立し、現在海上保安庁のもとにある人員をさらに八〇〇〇人増加する権限を認める」
文面上は「認可」でしたが実質的には「命令」でした。この書簡以前に日本政府の側からNationai Police
Reserve創設に関するいかなる打診も行なわれておらず、この書簡は何らかの案件に対する回答ではなかったからです。そのことは当該National Police
Reserveの編制腹案はおろか、訳語すら準備されていなかったことからもわかります。このマッカーサー書簡は午前中に届けられ、その日の午後から大慌てで新組織編制のための作業がスタートしたといいます。七月八日以後の編制作業に関する事実関係の詳細は多くの文献によって紹介されているのでここでは割愛するとして、本稿の論題からして重要なのは以下の点でしょう。
第一は、マッカーサー書簡から一ヶ月後の八月七日に制定された「警察予備隊令」(政令第二六〇号)の第一条に、次のように警察予備隊の目的が掲げられていることです。
「わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、国家地方警察および自治体警察の警察力を補う」
第二点は第三条で、「警察予備隊は、治安維持のための特別の必要がある場合において、内閣総理大臣の命を受け行動するものとする」と警察予備隊の最高の指揮命令者に関して規定している点です。
警察予備隊が国家地方警察の予備隊であるとする説は、二つの事実誤認を含むものと考えられます。第一は法文上から明らかなように、警察予備隊は、国家地方警察のみの補完勢力ではなく、自治体警察を含めた国内のすべての警察力を補うものと規定されているという点です。
第二は、より重要な点ですが、第三条から明らかなように、警察予備隊はいわゆる「警察力」を越えた、警察とは違う別個の治安維持組織であるということです。従って、後述する警視庁内の予備隊とは根本的に意味が異なります。いま、装備などのハードウエアはさておき、この点を指揮命令系統から簡単に説明すると、以下のようになります。
敗戦後、内務省解体にともない再編された日本の警察組織は、当初次のような仕組みになっていました。
旧警察法(一九四七年一二月公布、四八年三月施行)体制下での警察組織◎国家地方警察 国家公安委員会(国家非常事態対策など一部の運営につき全国的な権限を持つ)
◎自治体警察 |
一九四五年の敗戦後、警察は内閣の直接指揮下を離れ(これは警察機構が中央官庁である内務省の完全な一元的支配下にあった戦前の警察制度の弊害の反省の上に立った処置である)自治体警察と国家地方警察の二つに分割されました。
このうち国家地方警察は一部の運営のみ国家公安委員会が行い、ほとんどの管理業務は都道府県の公安委員会と全国六区の警察管区本部が行うことになっていました(従って現行警察法よりも国家公安委員会の権限は著しく制限されていた)。
国家公安委員会の委員は内閣が任命しましたが、その任命には両議院の同意を必要とするものとされました。都道府県、あるいは市町村の公安委員もこれと同じく、自治体首長が議会の同意を得て任命されました。このことは警察機構の監督機関のトップに議会のチェックが入ることを意味します。また警視総監を含め警察官の任免は各公安委員会が所轄した。従って内閣、および中央官庁は警察の人事権に関して直接介入することはできない仕組みになっていました。なお、現行警察法では国家公安委員会の長は国務大臣(多く自治大臣が兼任)です。(ただし兼任とはいっても自治大臣の職掌に警察行政が入るのではなく、国家公安委員会委員長の職が国務大臣にあてられているのである。警察行政のトップである警察庁長官は所轄大臣を持たず、内閣総理大臣の管轄下にある。また、現行警察法でも国の警察機関―警察庁など―は国家公安委員会の監督下にある。その点注意を要する。国家公安委員会委員の任命に両議院の同意を必要とするのは現行警察法でも同じである。付言しておくと現行制度では国の警察機関の職員、警視庁・道府県警の警視正以上の階級の職員は国家公務員であり、それ以外の警察職員は地方公務員であって人事権についても極端な一元化は避けられている)
一方、警察予備隊は法文(警察予備隊令第三条)に明らかなように内閣総理大臣直属であり(上部機関である予備隊本部―旧軍流にいえば統帥部―長官は総理大臣の任命であるが、本部長官は閣僚でも議員でもなく、また国家公安委員会とも全く関係ない)当時の国家地方警察と命令系統が根本的に異なります。警察予備隊の人事権を含めた指揮命令系統は総理が一元的に握るところであり、その存在目的を含め、組織編制一切が政令によって定められていたので、創設に際して議会によるチェックが行なわれる余地がありませんでした。いいかえれば吉田総理のきわめて強いリーダーシップによって誕生した(そもそもの発端は占領軍の意志でしたが)のが警察予備隊といえるでしょう。内閣による一元的統制支配をできるかぎり回避しようとこころみた警察法の対極に立つ組織運営と評価できます。
従って警察予備隊を国家地方警察の予備隊とは称しえないし、だからこそマッカーサー書簡で冠せられていた「国家」の二文字は実際の予備隊編成の途上で外されたのです(日本政府の公式の法令・政令等では「国家警察予備隊」と称したものは菅見の限りない)。
警視庁の機動隊の誕生までを簡単に年表風にまとめると次のようになります。
1933年 5月
10月警視二名を増員
警視二名のもとに特別警備隊を置く(三〇七名)1944年 警視庁警備隊に改編(二五五〇名) 1947年 12月 内務省廃止 1948年 警視庁予備隊四区隊を置く(二五四六名) 警視庁はこの年東京都特別区の自治体警察となり、東京都下の警察は警視庁、国家地方警察、三多摩自治体警察の三本建て体制 1854年 警視庁、東京都警察本部となる(警察法全面改正により国家地方警察廃止) 1952年 予備隊に特科部隊(私服、装甲、放水、特務各中隊)を増設 1957年 予備隊を機動隊に改編
以上の経緯から明らかなように、警視庁予備隊は警視庁の内部の組織であり、現職の警視庁職員をもって編成されたものでした。
「予備」という語には、(1)危急に際して投入しておく控置兵力 (2)戦時その他緊急事に際して招集されるなどの非常勤の人員・部隊 の二つの意味があります。法文で警察力の補完勢力と位置づけられた(実体としての性質はともかく)警察予備隊の「予備」は(2)の意味でしょう。軍の「予備役」という場合の「予備」、あるいは海軍の「予備士官」の「予備」なども(2)の意味です。
海軍の「予備士官」とは「予備役士官」とは別のもので、文部省直轄(官立)の商船乗組員養成学校―高等商船学校・水産講習所遠洋漁業科(以上予備士官)、商船学校(予備下士官)―を経て海員となったもので、「海軍予備員」―予備士官・予備下士官を総称していう。のちに予備兵もできた―として戦時に軍に招集される義務を持つもの―戦前は前記官立海員養成学校卒業者は海軍予備員となるのが義務であった―をいう。商船乗組員養成の学校で基礎軍事課目を履修し、海員としての教育終了語に海軍の各学校に入る。この海軍予備員とはだからいわば、戦時に戦力化される「第二海軍」の構成員というべきものである。予備員と予備役士官・下士官の最大の相違は、予備員は軍務につかない平時の間も、取得資格と経験に応じて予備員としての官階を進級する点にある。
なお(2)の意味での予備軍は日本の旧軍、またかつてのソ連やヨーロッパ諸国の軍隊では、戦時にのみ編成され平時には普通置かれないのですが、合衆国では連邦軍の現役兵力の補完として常設の州兵部隊が設置されているのはよく知られていますね。Nationai
Police Reserveの発想が占領軍の側から出されたこととあわせ、常設の予備隊という構想がいかにも合衆国的なのは興味深いものがあります。
それに対して、かつて警備隊といい機動隊という名称に替わった警視庁の「予備隊」は(1)の戦略予備の意味である、といいえると思うのですがいかがでしょうか。なお、ドイツの機動隊に相当する組織はBereitschaftspolizeiといい、これもそのものずばり「警察予備隊」(ドイツ語のbereitschaftは「待機する」の意)です(韓国では「戦闘警察隊」というがこれはスペインなどと同じ発想のネーミングである)。
以上、翻訳とは離れた些事につきいささか多弁を弄しましたが、「警視庁予備隊」
と「警察予備隊」とを「イトコ同士」とする論に引っ掛かりを覚えるのは、実は英訳云々以前の、こうした用語についての意味のとらえ方のズレに起因するのかも知れません。
このほか、*5の「換字暗号(サイファー)」という表現にもちょっと引っ掛るものがあるのですが、これも検討し始めると長くなりそうなので今回は省略します。
追記として、『甲州画報』82号「湘南屋主人謹言」についても若干の疑義があるので手許の資料に基づいて私見を略述する。前後で文体の斉一を欠くことになるがとり急ぎ一点(一項目)のみのこととし、諒とされたい。
「注解」*1につき。
その一。掌水雷長など、いわゆる「掌長」クラス(クラスと付けた場合、「掌**長」だけでなく、信号長、操舵長などの職も含む)は特務士官に限られるのではなく、実際には准士官(分隊士たる准士官。「特准」とも称した)が任用される例が多かった。特務士官の人員は昭和のはじめで約一〇〇〇名、一方艦船は昭和一〇年度、連合艦隊に在籍していたものだけで六八隻あったので、掌長クラスすべてを特務少、中尉だけでまかなうことは数字的にも不可能である。また、この一〇〇〇名のなかには分隊長勤務につく特務大尉や、予科練出身のパイロットの特務士官を含んでいるのである。なお、特務中尉以上の階級ができたのは一九二〇年のことであり、それまでは特務士官は少尉相当の一階級しかなかった(これを兵曹長といい、一九二〇年以前は下士の最上位を上等兵曹といった)ので、一九二〇年以前は掌長クラスに特務中尉をあてようにも、そのような階級を持った人間が存在しなかったのである。一九二〇年といえば戦艦「長門」が就役した年であるが、この頃の掌長クラスは兵曹長だけで人数を充足できたのであろうか?
その二。特務少尉が四〇歳前後というが、これはやや過大な数字だろう。実際には早いと一五年ぐらいで特務少尉になる例もあり(水上艦の場合。戦艦武蔵の沈没時の方位盤射手がそうだったという。パイロットはさらに短く一〇年程度のことが多い。規定などについては省略に任すが)、平均的なコースだと下士になるまで六年、下士の服務年限六年、下士の再役二年終わったあとの再々役で准士官となりここまでで約一二から一四年、准士官を最短の実役停年でパスすれば一五から一七年程度で特務少尉となる。特務士官への任用はきわめてきびしい選抜が課せられるのは事実である。ことによれば一八年から二〇年程度かかる例も珍しくはなかったかも知れないが、その場合でも四〇歳の特務少尉というのは二〇歳の徴兵年令で海軍入りしていることになるので、代表例としてはいささか不適当だろう。海軍に志願できる年令は(特別年少兵、少年飛行兵などを除くと)一七歳なので、特務少尉に進級の年令は三五歳前後がいいところではないだろうか。
その三。海軍正規士官の専門の決定時期だが、いくらなんでも大尉になるまで専門の術科教育が行なわれない、ということはない。兵学校卒業後、少尉候補生を経て任官したあと、少中尉の時代に術科教育がちゃんと行なわれるのである。たとえば、キスカ撤退作戦の指揮官として有名な木村昌福中将の場合、
1913年 12月 海軍兵学校卒(四一期) 1914年 12月 海軍少尉 1916年 12月 中尉 1917年 6月 海軍水雷学校普通科卒 12月 海軍砲術学校普通科卒
となっていて、中尉時代に水雷と砲術の基礎を実施学校で訓練されている。またソロモンで戦死した駆逐艦乗の吉川潔少将(戦死後全軍布告・二階級特進)の場合は、
1922年 6月 海兵卒(五〇期) 1923年 9月 少尉 1924年 4月 砲術学校普通科卒 7月 水雷学校普通科学生 12月 汐風乗組 1925年 12月 中尉・第三号掃海艇乗組
と、少尉時代にやはり砲術、水雷の実施学校を経ているのである。
一方、この事情は実はパイロットも同じであって、たとえば源田実大佐の場合
1924年 7月 海兵卒(五二期) 1925年 12月 少尉 1927年 4月 砲術学校普通科卒 7月 水雷学校普通科卒・出雲乗組 12月 中尉 1928年 12月 飛行学生(一九期)
と、中尉で飛行学生になる前にひととおり砲術、水雷の教育を受けていたのであった。
この術科(実施)学校普通科の課程は、兵学校出身の正規現役将校は少中尉時代に必ず履修することとなっているコースであり、自己の専門を決めるのは(航空関係も含めて)この少中尉時代なのである。もっとも履修期間は四〜六ヶ月でしかないが。
その後、大尉時代に砲術、水雷、航海などの高等科課程を経る将校もあり、また海軍大学校へ進むものもある(実際には将官への道をねらうものは、高等科学生と海大甲種学生の両方を経ることが多かった。高等科学生としての成績が進級の考課上、重視されたからである)が、こちらの方は誰でもというわけではなく、典型的な「車引き」(駆逐艦乗)だった上述の木村中将も、水雷学生の高等科、海大のいずれも出ていない。
「大尉時代に専門分野を決め…」とあるのは、おそらくこの高等科学生のことを指しているのだと思われるが、実はこの高等科はそこを出ているほうがエリートなのであり、大艦の術科長、分隊長でも当該術科の高等科学生出身者でないという例は多くないにせよ皆無ではない(例えば『海上護衛戦』の著者として有名であり近時物故された大井篤大佐は大尉時代に戦艦「日向」と「扶桑」の分隊長を勤めているが、高等科学生を経ておらず、少佐時代に海大の甲種学生になっている。また大井大佐と海兵同期(五一期)の実松譲大佐は中尉時代に海大航海学生を経ただけでその後「吹雪」の水雷長を勤めている。もっとも、実松大佐も大尉時代にやはり海大甲種学生になっているのであるが)。
このほか「*2」以下にもいくつか言及すべき点が散見するが一々をあげるのはあまりに煩瑣に過ぎるので、上述をその一半の代表にかえることとする。すべてについて詳細に検討を行なうのは他日の機会に譲りたい。
ついでなのでもう二点だけ簡単に指摘する。
「*2」歩兵中隊の定数を一二〇〜一五〇としているが歩兵中隊の定数は時代によ
って違う。日露戦争当時の中隊定数は戦時と平時とで異なっており、兵卒の場合平時一二〇、戦時一五〇である(ただしこれは実際に小銃をもって戦闘に参加する歩兵兵卒の数である。実際の動員時には中隊あたり輜重兵や輸卒など中隊あたり三〇名程度増員するがこの人数は一二〇から一五〇への増員の中には含まれない)。その後山梨軍縮(一九二二年)の際平時の一個中隊定数を戦時と同様の一五〇とし、聯隊内の中隊(定数は戦時・平時共に一五〇のまま)数を平時九個、戦時一二個とした。その後一九三六年に聯隊内の中隊定数を平時・戦時共に九に固定し、代わりに大隊内に機関銃中隊、歩兵砲小隊を設置した。なおこの三六年改正の編制(ただし実施されたのはそれより後である)での歩兵分隊一個の小銃数は一二挺である。
軍制は時代によってかなり相違しているものなので、特に数字を明確に挙げて記述する場合、いつの時代のことなのかをはっきりさせる必要があろう。
「*15」pressgangは古語ではなく、「(軍隊に)強制徴募する」のほか、「(人に)強制する、強いる」の動詞の意味も持っている語である。「強いる」意味でなら現代語でも通用する。(あまり頻繁に使われる語ではないようだが)またこの語に触れるなら悪名高い英国海軍のimpressment(一般には帆船時代、上陸中の民間商船の海員を海軍艦艇乗組員として拉致監禁(!)することを任務とした、艦艇乗組員で編成される「強制徴募隊」またはそれの行なう強制徴募行為のことをいう。
C・S・フォレスターのホーンブロワー・シリーズ中『海軍士官候補生』などに描写がある。こちらの方は主に米国の歴史学で使われる古語である。ただしフォレスターは英国の作家)について書き落とすのはやや公平を欠くといえるだろう。もちろん小林氏のこの処置は分量を慮ってのものと信じるが。