谷甲州と言えば、航空宇宙軍史に代表されるハードなSFだけでなく、山岳小説や冒険小説にも「遥かなり神々の座」「凍樹の森」といった秀作がありますが、「天を越える旅人」は、「岳人」という伝統ある「山岳」雑誌に連載されていた、しかし紛れもない「SF」です。リアルな山岳描写と仏教的世界観の独特の雰囲気に加え、宇宙の構造を論じるスケールの大きさまでもが堪能できます。もちろん、甲州ならではの「寒さ」に加えて「魂」「死者」「悪霊」といった言葉もふんだんに登場しますので、暑い夏には特にお勧めの一冊です。
本稿はあくまでこの作品を楽しむ一助となることを目的としています。まだ読んでいない方で興味を持たれた方は、実際に購入して読んで見られることを是非お勧めします。
雪山で遭難・凍死するという、とてつもなく寒い夢に悩まされていたミグマは、それを実際に経験した転生前の自分を探る旅に出た。古毛布にズック靴という軽装、おまけに高所登山がどういうものかも知らない状態で、死にそうになりながら、それでも体力にものを言わせてチベットの峠を越えた彼は、ギャルツェン・ゴンパ(寺)に住み着いていた僧ダンズンに出会う。ミグマの話を聞いた彼は、夢と現実の境を取り除く、夢見による瞑想法という幽体離脱の秘術をミグマに伝授した。
「そやけどこれ使うんやったら経験つまんとあかんで」
転生前の自分がナムギャルという人物であることをつきとめたミグマは、ヤシュティ・ヒマール登頂の目的を知るべく、宇宙の構造が描かれているという曼陀羅を求めてカリンポンのゴンパへとたどりついた。
踊りだす尊像。曼陀羅に描かれた仮想現実の世界へと没入してゆくミグマ。しかし、曼陀羅に書かれていたのはヤシュティ・ヒマールを中心とする限られた領域でしかなかった。
「この曼陀羅には宇宙の構造が書かれてるんとちゃうんか…」
「お前の世界認識は、まちがっている!」驚いたことに、曼陀羅に書かれていた仮想現実世界の一部であるはずのナムギャルは「生きて」いた。そしてミグマに曼陀羅の真の広がりを垣間見せたのだった。
「まだまだ経験が足りんのう。バーチャばっかりやっとったらあかんで。自分の足で歩いてみんと」
さて、実際の雪山での経験をつむべくシェルパとなったミグマは、バルドゥチュリへの登山でソナムと共に悪霊退治をすることになった。が、ナムギャルに恨みを持つ20年前の悪霊・ロブサンによって自分自身が悪霊へと堕ちてしまう…。
考えることを放棄してグレてしまったミグマだった悪霊は、今度はロブサンとしてミグマに相対することとなった。しかし、それはミグマではなく、ナムギャルだった。
「…そやから言うたやろうが。おまえには現実世界での経験が足りひんて。ほら、もっかいミラレパからなぞるんや」
十年後、あちこちを自分の足で歩いて経験をつみ、現実世界の認識を深めたミグマは、いよいよヤシュティ・ヒマールに挑んだ。しかし、ヤシュティは意地悪だった。
「おまえに登頂する資格があるんか?この世界の構造もろくに知らんくせに」
しかしミグマも負けてはいない。
「何ゆうてんねん。おまえこそ知ってんのか?ここから一歩も動かれへんくせに」
「よっしゃ。ほんなら答えてみい…。第1問。朝に4本足、昼は2本足、夕べには3本足になるんは何や?」
「おまえはスフィンクスか。そりゃ人間のことやろ」
「やるな…。そやけど次が本番やで。第2問。この宇宙を支配してる物理法則はどんなんや」
(そんなもん知らんぞ…)答えに窮するミグマを雪崩がおそった…。
ミグマは肉体を抜けだし、幽体のまま宇宙空間へと飛んだ。めいっぱい加速しても速さが変化しないことから光の伝播速度を確認した。通りがかりの彗星の核を加速してみると質量とエネルギーの関係がわかった。こうしてミグマは物理法則を…光速不変の原理から、不確定性原理まで構築していった…。
ついにミグマはヤシュティ・ヒマールへと登頂し、異なる物理法則を持つ異世界への通廊を抜けるための資格を手に入れた。しかし、その先に行くためには肉体の放棄が必要だった…。
(せっかくのこの宇宙についての知識はどうなるんや…)悩むミグマ。(そやけど…)
「…よっしゃ、それでええ。身体のほうはしゃあないな。ま、いつか帰ってこれるんやったらええわ」
(帰ってきたら、あの曼陀羅にまた書き加えたる…)
そしてミグマは異世界へと旅立った。
「天を越える旅人」に登場する宇宙の構造を書いた曼陀羅はなかなか魅力的なものです。そこで、人外協の隊員がミグマの代わりに曼陀羅に没入した場合を想定してみました。
またこんなものを書いてしまいました。今回はなんと甲州先生にまでご登場いただいてしまいました。なお、これを読んで本当に「読んだふり」ができるとは思わないように。甲州作品をなめてはいけません。それから、前述のエピソードはあくまで私の個人的な解釈によるもので、登場人物本人の考えでは(たぶん)ないことを明記しておきます。