本来用語辞典とか注釈というのはそれなのに順序だって書くべきものなのですが、今回はランダムに思い付くままただ知っていることを行くことになりました。
必ずしも初心者向けという風にもならず、さりとて高度に専門的なものにもならず、本当に中途半端なものになってしまいましたが、『覇者の戦塵』の世界、というか雰囲気を理解する一助になれば・・・と思っています。やっぱりならんか・・・
陸軍将校とは?その教育体系と進級に関する事項を以下にまとめておこう。
[陸軍士官学校]
陸軍初級現役将校(将校の服役、すなわち現役・予備役・後備役については別途解説する)の養成機関、日本陸軍においては正規現役将校を育成する唯一の機関であった。明治初年の何度かの制度遍歴を経て一八七五年十二月、東京・市ヶ谷に設置、翌七十六年二月入校者を士官生徒第一期とする。士官生徒は一八八九年七月卒業の第一一期生で終わり、それ以後は士官候補生となった(士官候補生第一期の入学は八八年一一月、卒業は九〇年七月)。これが敗戦時の六一期生(予科士官学校在学中で、士官候補生はこの期が最後)まで続く。一九二〇年、教育課程の大改革があり、士官学校を予科と本科に分離、従来の中央幼年学校本科を士官学校予科に改編し幼年学校卒業者および将校を志願する試験合格者を同時に士官学校予科に入校させる制度に変わった。士官学校予科の受験には年齢制限はあったが、学歴は問わなかった(ただし中学四年卒業程度の学力が必要とされた)。一九三七年、士官学校予科は予科士官学校として独立し。翌年、航空兵科を専門に教育する陸軍航空士官学校が豊沢に開校した。航空士官学校進学者は予科士官学校卒業後士官候補生(後述)を経ず航空士官学校へ入学した。昭和一二、三年以後。士官学校という場合は、予科・航空を合わせた三校を指す場合もある。
卒業生の数は士官生徒一二八五名、士官候補生(六一期を含む)が五〇一九六名、別に少尉候補者(後述)が二六期まで一二一三三名、丁種学生が四期まで五三四名である。
[士官候補生]
元来ドイツで発達した制度である。その趣旨は将校を志願する少年を一般兵としてまず聯隊に入隊させ(この最初に入隊する聯隊を「原隊」という)、兵士としての基本教育を行ってから士官候補生として士官学校に派遣し、所定の修養の後見習士官として原隊に戻り、一定期間の後、原隊の将校団の選考と決議を経て任官するというもので、ギルドの師弟制度を軍隊に導入したものである。
日本、一九二〇年以後の制度では正規現役将校を志願するものはまず士官学校予科へ入校し、予科卒業後派遣聯隊と兵科が決された。士官候補生としての隊附勤務の間に、候補生は兵から軍曹までの階級を進む(海軍兵学校の場合は、下士官兵の階級を一切経ない)。陸士本科卒業後原隊にて再び見習士官として隊附勤務を経て(階級は軍曹であるが聯隊将校団の一員としての待遇を受ける)し容易に任官する。
[少尉候補者]
下士官より現役将校を養成する制度である。現役下士官は全て兵からの昇進によるので、徴兵で一般兵として入隊した者にとっては、在営中に士官学校予科試験を合格するのを除けば、将校へ昇進するほとんど唯一の手段であった。少尉候補者たる要件は軍曹以上の階級で試験に合格することであり、陸士ほか工科学校、飛行学校、憲兵練習所などで教育を受けた後見習士官となり任官する。ただし、陸士に入校するといっても教育課程は本科(生徒、士官候補生)とはまったく異なり身分も「学生」と称された。また、卒業後もすべての面で士官学校卒業者と差別され、一九三六年(日中戦争直前)までは中隊長(大体大尉級)にすらなれなかった(ということは将校になってもほとんどが少尉か進級してせいぜい中尉中どまりだったということである)。日中戦争後初級幹部の不足に伴い、敗戦直前には中佐、聯隊長までなったという例もあるというが(ただし全軍で数名とごくまれ)、最後まで陸大(後述)受験資格は与えられなかった。
[軍人の服役]
下士官と将校の軍務については若干異なるがここでは以下将校について略述する。
陸軍士官の身分は勅令たる「陸軍将校分限令」に定められている(一八九一年までこの勅令は海軍将校に対しても適用されていた)。これにより軍人の軍人の服務は現役・予備役・後備役に分けられる。いずれにも属さなくなった者が退役である。ただし、官としての身分は終身であり、免官によりその身分を喪失しない限りは、軍服を着用し官に相当する礼遇を受ける資格を終生有する。
現役とは、軍による所定の教育を終了し、分限令で定められた現役定限年数まで継続して将校の任務につく者と解してよい。予備役とは、現役を退き、又は現役として任官したる後予備役の身分に入った者をいい、現役とは別に人事管理がなされ招集によってはじめて軍務に就く。後備役とは予備役が終了した者が更に服務する者とされたが、一九四一年の改正で廃止された。
現役から予備役に入ることを編入といい、また転役とも称する。予備役から現役への復帰は原作的にありえず、予備役将校が招集され第一線部隊長になどに任官された際も、待遇はあくまで「現役にある予備役将校」となるのであって、「現役に復帰した予備役将校」となるのではない。したがって進級も予備役将校としてのそれとなるのである。また当然のことながら予備役将校は、軍の規定上その充当が現役将校に限られる職務(陸軍次官、参謀総長、参謀次官、軍事参議官)に補せられることはない。
[任官と補職]
「任官」とは官としての身分を国家から授与されることであり、「補職」とはあるポストに任命されることである。
官としての身分とは軍番の場合官等、すなわち階級のことを意味するで、任官とは下士官以上のすべての軍人(軍人の階級と官については後述)がある階級に任じられる際全てに用いられる。すなわち将校の場合初任(多くの場合少尉)のみならず大将に昇級するまで全てが「任官」である(辞令も「任××(階級名)」として発令される)。
補職とは部団隊長、陸軍省、参謀本部、その外学校など特務機関などの職に補せられることをいう。任官は統帥権の発動であるが(将校の昇進は原則として軍の最高司令官、国家元首の大権に属する。ただし実際には陸海軍省の担当部署が規定にしたがって管理した)、補職は官僚機構としての官僚管理としての人事官吏の一端であり、日本でも陸海軍ともに人事権は大臣にあった。なお一九四一年に規定が改定された後、現役将校の中で現職でなくなったものは予備役へ編入されることになったが、転役そのものは本来補職に関する人事処置ではなく統帥権の発動に属する。
また、陸軍大臣および次官(海軍も同じ)は一時期を除いて現役将校でなければならないとされたが、職としては法制上純然たる文官職であり、それは敗戦まで変わることはなかった(したがって一九四三年以後、首相兼陸相たる東条英機大将、海相たる嶋田繁太郎が武官職の参謀総長、軍令部総長を兼務した際は法制上も問題になった)。
[官吏の身分]
旧日本軍では下士官以上が「官吏」とされた。戦前の官吏は、親任官、勅任官、奏任官、判任官の四等に別れていたが、軍隊の階級との対照は次のとおりである。
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親任官は天皇が自ら任命する親任式によって任命するもの、勅任官は勅命によって任命するものである(以上二つを合わせて、狭義の「高等官」という)。奏任官とは、内閣総理大臣が奏請して勅裁を得て任命するもの(親任、勅任、奏任を合わせて広義の「高等官」という)、判任官とは大権の委譲に基づき、行政官庁が任命するものである(辞令の書式もそれぞれ異なる)。
武官と司法官については補職に関しても「親補職」というものがあった。これは天皇自ら補する親補式によって補せられる職のことをいい、勅任官であっても親補職にある間は親任官の待遇を受けた。例えば、陸軍では師団長には必ず中将であるが、師団長は親補職であるので、就任に際しては東京で親補式を行い、またその職にある間は親任官として遇されるのである。
[聯隊・中隊付(附)将校]
歩兵においては、一個聯隊は通例三個大隊、一個大隊は三個中隊(戦時には四個中隊)、一個中隊は三個小隊をもって構成されるものとしたが、平時の軍事組織の管理は聯隊−中隊を基軸とする(小隊は平時兵営の中では構成されない)。聯隊将校団は連隊長以下、大隊・中隊の長、および聯隊・大隊・中隊(本部)附将校で構成される(軍隊指揮官が指揮を取る組織は旅団以上を「司令部」とし、聯隊以下は「本部」と称する。ただし、参謀部があるのは師団司令部以上の編成の場合であり、旅団司令部には参謀将校はおらず、旅団長のスタッフは尉官級の旅団副官のみである)。聯隊、大隊の本部附将校はそれぞれの長の副官などの任務にあてられ、中隊(本部)附将校は中隊内務(教育係など)を担当するほか、戦時の小隊長要員でもある。ただしつ、中隊附将校は穂維持に中隊内務を担当することから、中隊指揮のラインというより中隊長のスタッフに属するものである。
[陸大]
「陸軍大学校」の略。日本陸軍における唯一の参謀将校の養成機関である。一八八三(明一六)年四月に開校、第一期生一五名が入校した。第一期入校者は既に士官学校設置後の世代に属し(ただし士官生徒制度)、一名を除いて全て士官学校卒業者である(陸士期数は二および三期。なお陸大一期生でただ一人非陸士卒だったのは、のちの東条英機大将の実父・東条英教−最終官等中将−である。彼は下士官教導団を経て将校に任官した。陸大卒業の席次は首席であった)。なお敗戦まで正規学生の卒業数は三〇〇七名を数えるが、陸士卒でないのは二名だけである。
受験資格は隊附勤務二年以上の経験を持つ中尉または少尉(日中戦争後は任官後八年以内の将校で隊附一年以上)で、所属長による推薦を必要とする。選抜試験は初審、再審と二段階に渡って行われ、最終的には四〇ないし五〇名を採用した(この数は陸士卒業者のほぼ一割に相当する)。受験には年齢制限はあるが回数に制限はないので、合格するまで(推薦を受ければ)何度でも受験することができた。合格までの平均受験回数は二回程度であるという。士官学校同期卒業でも陸大の卒業年次は必ずしも同一とは限らず、最大八期の開きがある例も存する。
「高等用兵に関する学術」を教育することを目的としたが、参謀科のない日本では(欧米では参謀将校は歩兵・砲兵など独立した一つの兵科であった。)兵科将校に参謀教育を施すということになり、しかも陸軍ではごく一部の例外を除いて陸大卒業者以外の者が参謀勤務につくことを認めなかったので(後述)、結果陸大が高級指揮官の育成も果たすことが期待されたが(日本では兵科学校の参謀勤務経験者が昇進し高級指揮官になるからである)、高級指揮官の教育に関してはついに不徹底に終わった。
陸大卒業者は参謀将校の勤務を独占したほか、全体の上位一割に属するというエリートの特権から、参謀本部のみならず陸軍省の枢要を占めるにいたった。進級に関しては、絶対的な優位に立っていたことが履歴の分析から証明される(これについては後述する)。この特権を示す記章として特別な卒業記章をつけたが、これを俗に「天保銭」と呼んだ。転じて陸大卒業者そのものを「天保銭」と称する場合も多い。
参謀将校は陸大卒業者のほか、年に一回、参謀総長の統裁で行われる参謀演習旅行の優秀者(毎年三〜四名)を参謀本部にて実務教育した「参謀要務の習得者」を参謀にあてた例がある(方面軍、軍など高級兵団ではなく、主に野戦師団の動員参謀。四〇名いたという)。このほか、太平洋戦争の戦局の進展に伴い、陸大非卒に関らず参謀職にある者が一九四四年度末で一三三名、員外学生七名がいた。また、敗戦直前には相当数を短期講習によって追加して不足分を補った。
[陸軍の人事]
以下は『月間 講習画報』三四号(一九九一年度三月)掲載の拙稿「秋津中尉は陸士何期か?」と重複するところがあるが、秋津中尉の陸士同期生を例に挙げ、陸軍将校の進級の一典型について若干まとめておくことにする。
秋津中尉は陸士三六期であると推定されるが(根拠は前記拙稿に譲る)、この三六期生の中から次の四人を選んで進級と補職の経緯を比較した表を下に示す。
この四人はそれぞれに特徴があり、例えば辻政信は陸士・陸大とも優等で主に軍令畑(参謀本部)の主要任務を歴任したエリート将校であった。西竹一はロス五輪馬術競技のゴールドメダリストとしてあまりにも有名であり、男爵、外相を父に持つ貴族だが、意外なことに陸士卒業席次はふるわず(席次は二四二番)、また陸大も出てない。騎兵科は輜重兵と並んで(のちには航空兵も)もっとも進級の早い兵科であるが、「無天」が補職の面で不利であったことは、彼の出自の優位を持ってしても覆しがたかったようだ。
閑院宮春仁王は、日露戦争に秋山好古と共に日本陸軍ただ二人の騎兵旅団長として出征し、後に元帥、参謀総長を長く務めた閑院宮載仁親王の第二王子であり、皇族として同期の出世頭であり(皇族は常に最短の実役停年数で進級する)、敗戦までに同期生でただ一人将官(少将)に普通進級した人物である(他の少将への進級者三名は全て戦死による特進である)。
最後にS氏は特に比較のために取り上げたので、部隊名なども固有番号を記載していない。陸軍の多数派である歩兵科将校でありかつ「無天」組という、三六期生の典型として提出したものである。
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陸士三 六期の卒業生は三三〇名、陸大を卒業したのは五二名である。陸大卒業者はおおむね士官学校の卒業者の一〇%内外であるが(三六期では一五%強となる)、敗戦時もっとも階級の高かったのは、前記の皇族と戦死による特進者の四名の少将を除くと大佐であり、その数は七五名である。これら大佐のうち陸大卒は四九名であり実に六五%を占める(このほか陸大卒に準ずる扱いを受ける、陸軍砲工学校卒業者が四名いる。なお同校は砲兵科、工兵科将校のみの学校である)。陸大卒の栄達ぶりが伺えよう。残り一八名のうち西竹一を含む六名は死後、大佐に進級したものである。
『覇者の戦塵』当時の日本の戦力は?また、日本軍は補給戦に敗れたといわれるが、太平洋戦争前の日本軍の補給はどうなっていたのだろうか?
[一九三一年同時の日本軍の戦力]
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柳条湖事件(壱、九弐壱年九月。満州事変の発端となった)当時の第二師団の駐箚部隊、留守部隊は次の通り。なお、『北満州油田占領』一三一頁参照のこと。また、同書二二〇頁から、秋津中尉の所属は歩兵第三旅団隷下の歩兵第二九聯隊であることがわかる。
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第二師団の満州駐箚は、一九三一年四月から三二年一二月までであり、その後第六師団と(熊本)と交代した。
なお、満州事変前の関東軍は、内地からの駐箚師団と、在満の独立守備隊六個大隊から編成されていた。
満州事変後の関東軍の編成は次の通り(満州事変中に内地から動員派遣されていた部隊は帰還したため、以下の編成からは除いてある。)
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[師団の兵站]
兵站とは「後方にあって作戦軍に必要な軍需品を供給・補充することの総称。作戦軍とその後方にある根拠地(策源)との間を連絡し、連絡線上に所要の施設を作り、必要な機関を使用して、作戦軍の作戦軍の戦闘力を維持増進するための諸般の施設とその運用をいう」(「陸海軍用語の解説」『日本陸海軍総合辞典』)ものである。類似用語に「補給」があるがこれは「軍需品を各部隊に交付支給すること」(同前)である。
旧日本陸軍では兵站を担当する兵科を輜重(兵)と称したが、歩兵、砲兵部隊の弾薬の輸送および補給は輜重兵の任務ではなく。歩兵隊に属する「行季」および「弾薬段列」の任務であった。例えば一九三六年(昭和一一年)当時の野砲兵(山砲兵に対する用語で、野戦砲兵のこと)師団である第一二師団の編成によると、野砲兵聯隊が戦時動員された場合、野砲聯隊にひとつの聯隊段列、大隊(一個大隊に平時二個、戦時三個)に一つの大隊段列が置かれる(これら段列は平時には置かれていない)。聯隊段列は兵員二三四名・馬匹二〇一頭、大隊段列は兵員九〇名馬匹八一頭である。繰り返すがこれら段列に所属する兵は輜重兵ではなく砲兵である。
このほか戦時に動員される兵站関係の部隊には師団兵器勤務隊(第一二師団の場合一二一名)、師団野戦病院(野戦師団一個あたり四)、師団衛生大隊ほか、大行季、小行季がある。なお、輜重兵聯隊も戦時には一四九五名から三四六一名へと倍以上の増員がされるが、そのほとんどが輜重輸卒である(のち一九三一年に輜重特務兵と改称。一九三七年までは下士官はおろか一等兵、上等兵への進級もなく、輜重二等兵よりさらに下の扱いであった。一九三九年に特務の文字は外されたが、最後まで差別的待遇は残ったという)。なお輜重兵はこれら動員された輜重輪卒を指揮する必要があり(輜重二等兵が一班一五名編成の輪卒を統率した)、輜重二等兵は歩兵軍曹に匹敵する指揮能力を要求されたという。
師団が一回に必要とする物資はどの程度か。例として一九三七年九月の平型関の戦闘で歩兵一個旅団(一個大隊欠)へ補給を行った輜重隊の編成は、
輜重車両 | 約七〇 | (輓馬=馬で車両を引く) 将校行季・大行季・小行季など |
輜重兵 | 一五名 | |
特務兵 | 七〇名 | |
その他弾薬段列 |
であったという。
大行季とし直接戦闘に関係ない給養諸品(糧秣および被服その他軍装品など)をいい、小行季とは直接戦闘に必要な弾薬などをいう。また工兵の器材を輸送するのは、架橋段列の任務である(陣地構築や地雷処理用の資材なども含む)。
日本海軍の戦略思想を支配しつづけた「大艦巨砲主義」とはなにか?その正体は?軍艦の攻撃力と防御力とは、どう数値化されるのか?帝国海軍が拠って立っていた理論とは?
[駆逐艦『沼風』]
要目は『オホーツク海戦』二三七頁を参照
このクラスが計画されたのは一九一七年まで遡る。
日露戦争(一九〇五〜六)当時、駆逐艦といえばおおむね三〇〇トン程度の小艦だった。日露戦争を六六艦隊(戦艦六、装甲巡洋艦六)で戦った日本海軍は、戦後新たな建艦計画の策定を迫られた。砲戦によって装甲艦が撃沈可能であると戦訓から導きだされた「大艦巨砲主義」理論の確立(それ以前は、十分に装甲された戦艦の防御力は砲による攻撃力に勝るものとされていた。事実、日露戦争以前の蒸気動力による装甲艦同士の海戦−プロイセン=オーストリア戦争中の「リッサ沖海戦」と日清戦争の「黄海海戦」の二例しかないが−では、砲戦による戦艦の沈没艦を出していない)、一九〇六年完成のドレッドノウトDOREADNOUDHT(ド=弩)級戦艦の出現のふたつによって、日露戦争当時の主力艦が陳腐化してしまったからである。以後曲折を経て、一九一七年に戦艦八隻、巡洋戦艦(戦艦と同程度の攻撃力を持ち、防御力が戦艦より軽く、速力が大きい艦種)四隻を基幹とする「八四艦隊」案、翌年には戦艦八、巡洋戦艦六基幹の「八六艦隊」案が成立した(これが後に「八八艦隊」へとなっていく)。
そして、艦隊を編成するため、これら主力艦と行動をともにする補助艦も求められたが、その補助艦=駆逐艦は相変わらず日露戦争当時のものがほとんどであり、一、〇〇〇トン強の大型/航洋駆逐艦はわずか八隻にすぎず、近代的な駆逐艦を早急に多数整備する必要があった。そこで立案されたのが峯風型である。
一九一七年計画で九隻、一八年計画で九隻の合計一八隻が計画され、最終的に一五隻が建造された。(ただし建造時期によって多少の相違のある艦も存在する)。なお、多少の改良を加えたもののほぼ同一の艦型をもつ「神風」型駆逐艦九隻が、引き続き一九二三年までに建造された。
神風型のあと「睦月」型を経て一九二八年から「特」型駆逐艦が就役を始めるが(計画は二六年度から)、この特型駆逐艦の配備に伴って、老朽化した本級は順次除籍されることとなり、一九三二年頃から兵装の一部を撤去していて、地方の要港部付属になる艦が出始めた。
「こちら」の世界では「島風」と「灘風」が駆逐艦から哨戒艇第一号、同二号となったのは一九四〇年のことである。翌年には「矢風」が標的艦に改造された。その他の艦も第一線を退き、この三隻に続いて他艦種へ改造されるはずであったが、太平洋戦争の開戦に伴い、「島風」「灘風」「矢風」を除く各艦は第一線に復帰、船団護衛任務についている。すでに性能的には二線級となってしまったが、日本における近代駆逐艦の祖として、あとに続くものの原形を作った意義は非常に大きい。
同型艦「峯風」「澤風」「沖風」「島風」「灘風」「矢風」「羽風」「汐風」「秋風」「夕風」「太刀風」「帆風」「野風」「沼風」「波風」
(「峯風」の戦歴) | |
一九二二年七月二四日 舞鶴工廠で竣工 |
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(「島風」の戦歴) | |
一九二〇年一一月一五日、舞鶴工廠で竣工 一九三八年一二月一五日、予備艦に編入 一九四〇年四月一日、第一号哨戒艇と改名 開戦時比島後略に参加 一九四二年一月一二日、カピエン西方にて米潜ガードフィッシュの雷撃を受け沈没 |
[巡洋艦『キーロフКиров』級]
日露戦争で主力艦のほとんどを失い、艦隊の再建途上で第一次世界大戦に突入、戦争中に起こった革命とその後の内戦、列強の干渉などの混乱の中、ソ連海軍が本格的な水上戦闘艦を完成させ始めたのはようやく一九三〇年代初頭のことである。三二年に竣工したクラスヌイ・カフカズ Красни Кавкажを、ソ連近代巡洋艦の敲矢とする。もっとねこの艦の着工は一九一三年のことであったから、竣工まで実に二〇年をかけたことになる。
コノクラスヌイ・カフカズは革命前に設計されたものだったが、ソ連邦成立後最初に計画・建造されたのがキーロフ級である。第二次五ヶ年計画で四隻の建造が決定されたが、後の二隻は設計変更の上、別級の艦として就役した(最終的にはこの級は四隻が建造され、キーロフ級と合わせて六隻の勢力となった)。設計はイタリアの援助を受けている。
同型艦 | キーロフ | (一九三八年竣工) |
ヴォローシロフ | (一九四〇年竣工) |
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一八センチ砲を主砲にした巡洋艦は世界的に見ても余り例がない(ただしソビエト=ロシアではクラスヌイ・カフカズでも一八センチ砲を主砲に採用している)。
ワシントン条約では、条約締結の後、主力艦の建造を一切禁止し、ただし基準排水量1万トン以下、口径二〇センチ(八インチ)以下の砲を主砲とするもののみの建造を認めた。すなわち排水量一万トン以上の軍艦が「主力艦」と定義されたのである。
また、排水量三万五千トン、主砲口径一六インチ以上の大型艦の保有も禁止され(例外としてアメリカ三、日本二、英国二の七隻だけが四〇センチ砲搭載艦として保有を認められた。この七隻を「ビッグ・セブン」と通称した)、各国主力戦艦は、近代改装もこの排水量の制限内で行うことが条件となった。前および準「ドレッドノウト」級、「ドレッドノウト」級の多くは廃艦とされ、現役艦として残されたのは多く、超「ドレッドノウト」級であった(ただし後述するように第一次大戦後はド級、超ド級の類別はあまり重要ではなくなった)。なお排水量四万トンを新造時から越えたのは、大和級、アイオワ級を除くと、イギリスの「フッドHOOD」、ドイツの「ビスマクルBISMARCK」級だけである。ただし後者は交際的には英独海軍協定の制限通り三万五千トン戦艦として公表され、その真の大きさが明らかになったのは戦後のことである。
ちなみに、ワシントン条約の正文では主砲口径は全てイチンで規定してあるが、日本海軍は建軍以来砲の口径は全てメートル法を使っていた。八、一六インチ砲と日本海軍の20サンチ、四〇サンチ砲とは、口径は極めて近いが同一ではない(八インチ砲は口径二〇三ミリ、日本海軍の20サンチ砲は口径二〇〇ミリちょうどであり、一六インチ砲は口径四〇六ミリ、四〇サンチ砲の口径は四一〇ミリである)。
ワシントン軍縮条約では二〇センチ砲搭載艦をA級(帝国海軍では「甲級」と訳し、正式には「一等」と類別した)、それ以下の口径の砲を主砲とするものをB級(同じく「乙級」の訳をあて、正式には「二等」とする)としたが、A級巡洋艦は多く1万トンの排水量、二〇センチの主砲口径の制限のそれぞれ一杯で建造された。
B級巡洋艦の主砲は多く一五.五センチ(五インチ)であった。二〇センチより小さく、かつ砲戦によって一定条件下で二〇センチ砲を圧倒しうるのは、発射速度の優る一五.五センチであると考えられたからである。そのため前述の如く、二〇センチと一五.五センチの間の口径の主砲を搭載した巡洋艦は世界的にも極めて少ない。キーロフ級の一八センチ砲では、二〇センチ砲を圧倒しうるほどの発射速度(と命中率)を期待するのは不可能と考えられていたらしい。ただしキーロフ級は二〇センチ砲搭載艦と砲戦を行った戦歴がないので、この推測が正しかったかどうかはわからない。
なお、「重巡」「軽巡」という呼び方は、帝国海軍内では通称である。また、「重巡」を「大巡」とも呼んだ。以上のように帝国海軍では巡洋艦の等級は、正式には排水量によるものではなく、主砲口径によったのである。
[付1・・防御力から見た砲戦]
日本海海戦での砲戦は六〇〇〇から八〇〇〇メートルであり、照準は砲測(各砲塔が独自に距離と方位を算定する)であった。統一した射撃指揮システム(檣楼に設けられた射撃指揮所からの測的と、指揮所の方位盤による全砲塔統一集中制御)が標準となるのは日露戦争の後である。この時代は砲塔の口径(もっととも大きなもので三〇センチ)と初速、および砲の抑角(最大でも二五度を越えなかった)から八〇〇〇メートルの距離においても砲の弾道角はそれ程大きなものではなく、ために当時の戦艦の防御は舷側の水線装甲がもっぱらであった。
が、ドレッドノウト、スーパードレッドノウト級戦艦の整備に伴い、第一次世界大戦時には戦艦の砲戦距離は、主砲口径の増大(ドレッドノウト級の三〇センチに対して三四センチから三八センチ)と砲身長の長大化、抑角の増大(三〇度以上が普通となった)にしたがって一万五〇〇〇メートルあるいは以上となり、結果砲弾の弾道角が大きくなった。第一次世界大戦における唯一の、戦艦艦隊同士の艦隊決戦である、ジュットランド(ユトランド)開戦では、ド級・超ド級戦艦および巡洋戦艦の、戦線距離の伸長に伴う射撃指揮システムの欠落(砲戦距離が一万六〇〇〇メートルと長くなったため、水平線の向こうの敵を直接光学望遠鏡で補足するのが困難となる場合が多かった)、ダメージ・コントロール(艦が損害を受けた場合、適切な応急処置を実施する能力・ことに魚雷攻撃などによる浸水に対し、適切に水密区画を閉鎖し注排水作業を行う能力に不足があったという)の不備と共に、大角度で落下する砲弾に対する垂直方向の防御力の不足が露呈した。この海戦では、英国海軍の巡洋戦艦はドイツ戦艦の長距離砲撃による大落下角の砲弾の直撃を受け、重装甲したはずの主砲塔の天蓋を叩き割られ戦闘力を喪失(うち三隻は弾薬庫に火が回って撃沈)したものが多かった。
以後、ド級。超ド級という類別は重要ではなくなり、甲板の装甲を含めた水平防御の改良、ダメージ・コントロールの強化(水密区画と応急注排水装置の装備)、砲戦指揮用の観測機を搭載した艦を新たにポスト・ジュットランド型戦艦と称した(それ以前の防御形式のものを前ジュットランド型戦艦と呼ぶ)。また、防御力の劣る巡洋戦艦は建造されることはなくなり、戦艦並みの防御力を持った「高速戦艦」艦種へと移行した。このポスト・ジュットランドタイプの戦艦の想定砲戦距離はは一万六五〇〇メートル以上とされた。この距離を「安全戦闘距離」といい、これより近い距離では砲弾の弾道は水平に近くなり垂直(舷側)装甲が強固であることが必要となり、これより遠いと砲弾の落下角が大きくなるので、水平防御を厚くする必要がある。垂直・水平の両方の防御を同時に完全にすることはできないので、ポスト・ジュットランド型戦艦は安全砲戦距離において最も垂直・水平防御のバランスが取れるように設計されている。帝国海軍のアウトレンジ戦術は、敵艦の水平防御に対しては敵艦の口径を上まわる巨砲の大落下角によりこれを破り、水平防御の堅固な敵艦に対しては駆逐艦・重雷装艦の長距離酸素魚雷によって水線装甲を破ることを企図したのである。
日本の八八艦隊計画艦は最初からポスト・ジュットランド型として設計されたが、第一、二号艦(「長門」と「武蔵」)を建造したところで軍縮条約により計画中止となった。帝国海軍最後の戦艦となった「大和」級の防御については、世界各国の戦艦と同じく徹底した集中防御方式(徹甲弾に対しては、弾火薬庫や機関部などは別として、不十分な装甲をほどこすよりもむしろ無防備の方が被害が少ない。そのため艦の前後部は防御を薄くし、主要部のみ強固に装甲する方式を「集中防御」という)を取っており、ポスト・ジュットランド型の拡大発展型といえるものである。以下に第二次世界大戦に参加したプレ・ジュットランド型戦艦とポスト・ジュットランド型戦艦の、防御の違いを数値データとして示しておこう・数値を比較すればわかるが、ドイツ戦艦の防御力は大変に大きく、プレ・ジュットランド型ですでにポスト・ジュットランド型に匹敵する防御装甲をもっていた(さらに注排水装置も一歩進んだものを持っていた)。異論があろうが、集中防御方式をとらず、艦の水線長全部に防御装甲を施した「ビスマルク」級は、魚雷に対する防御力は「大和」級と同等以上であったのではないかと思われる。
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[付2・・優勢率]
ロンドン・ワシントン両軍縮条約で帝国海軍(特に海令部)が対米英七割を主張したことはよく知られている。その根拠の一端となったのは「優勢率」という概念であった。これは、以下の数式を根拠とするものである。
優勢率=(甲の戦力−乙の戦力)×(甲の戦力÷乙の戦力)←間違っているというもので、今、甲の戦力=10、乙の戦力7とすると、優勢率は、二/三、すなわちおおよそ六割七分となる。
また、甲の戦力=10とし、乙の戦力を六とすると、優勢率は、三/七、すなわち四割三分となる。これは、いわゆる五割優勢法−攻撃軍は敵に対し一五割の兵力を持たなければ必勝を期しがたいとする理論−を数値によって理論化したものである。 以上計算から、彼我戦力比一〇:七の場合、秋山真之(日本海海戦時の聯合艦隊中佐先任参謀。帝国海軍の海戦戦術マニュアルである『海戦要務令』の起草者。最終官等中将)によると「勝算五割五分」、佐藤鉄太郎(秋山と並ぶ日本海軍の戦略家として著名。主著に『帝国国防史論』がある。最終官等中将)によれば「やや勝算あり」であったという。 また、両軍の交戦結果を算出する公式として「N二乗法」というのがあった。これは「ある砲力の挙げうる戦果の比は砲力の数値比の二乗に比例する」というもので、一〇と六の戦力を持つ艦隊が交戦した場合、砲の挙げうる戦果の比は一〇〇対三六となり、砲の射程、命中率他の条件が等しい場合、交戦によって相手に損害を与え続けると、一定時間の後には勢力六の劣勢軍は全滅し、勢力一〇の優勢軍はその戦力の八割を残して残存するというものである。
数で劣る日本海軍が米海軍を圧倒するために、一にアウトレンジ戦術(相手より長射程の砲を装備し、敵艦の射程外から一方的に攻撃を加える)、二に個艦の搭載砲数の優越が求められた。
例えば、両国海軍の二〇センチ(八インチ)砲搭載艦を比較してみると−米海軍の条約型重巡五クラス一七隻一五五門(ペンサコラPENSACOLA級二隻・各一〇門、ノーサンプトンNORTHENPTON級五隻・各九門、ポートランドPORTLAND級二隻、各九門、ニューオリンズNEWORLEANS級七隻・各九門、ウイチタWICHITA九門)に対し日本の条約型重巡は二クラス八隻八〇門(妙高級四隻、高雄級四隻・各一〇門)となる。つまり隻数の比は米:日=一七:八=二.一:一であるのに対して、砲数の比は一五五:八〇=一.九:一となる。日本側は、これに更に前条約型の重巡として、排水量七一〇〇トンと小型の二クラス四隻(古鷹級二隻、青葉級二隻・各六門)を持っていた。この二四門を加えると二〇センチ砲は合計一〇四門となり、砲数の比では一.四九:一にまでなった。条約明けにはこれに最上級四隻、利根級二隻の計五六門が加わることになっていたので、総計一六〇門となる。もっとも米海軍も条約明けには二四隻の二〇センチ(八センチ)砲搭載艦(ボルチモアBOLTIMORE級・各艦九門、計画策定は一九四〇年から。ただし完成は一八隻)を建造する予定であったから、日本海軍の数的優越というのはあくまで軍縮条約を前提としたものであったのは皮肉なことである(両国の生産力の差を考えると当然の帰結というべきか?)。軍縮条約以前の日本が建造した二〇センチ砲搭載巡洋艦である「古鷹」級・「青葉」級の設計方針は、二〇センチ砲搭載艦の建造コストをできる限り小さなものとし、予算の枠内で最大の建造数を求めるものだったが(「古鷹」級・「青葉」級とも七一〇〇トンいう小さな艦体に二〇センチ砲を搭載していた)、軍縮条約後は制限排水量一万トンの艦一隻にいかに多数の二〇センチ砲を搭載できるかがポイントとなったのである。
なお、日本海軍は軍縮条約の失効後、前述の最上・利根級の一五.五センチ砲を換装した以外は、新規の二〇センチ砲搭載艦を建造していない。
いうまでもないが、同じ一五.五センチ砲といっても、砲そのものの威力は等しくても艦砲であるから、実際には艦への据え付け方(艦の運動と射撃時の反動により艦体のねじれが加わる。射撃時はこの艦体自体のねじれを修正して照準する必要がある)、射撃指揮装置の性能その他の条件が影響し命中精度が異なるため。対敵打撃力は必ずしも同一ではない。