『秋津中尉は陸士何期か?』

田中[暗号兵]正人

 甲州さんの新作『北満州油田占領』ですが、私はみなさんとはちょっと違って、登場人物の一人、秋津中尉の経歴を手がかりに、当時の陸軍の人事などを少し見てみたいと思います。

 まず最初に、彼は陸士の何期生なのか?ということを検討してみます。手がかりは本文130頁の
「四年も中尉の飯をくったあげく…」
という中尉の台詞です。この物語は昭和6(1931)年11月頃のことですから、彼が中尉に進級したのは昭和2(1927)年の秋頃、でしょう。少尉の停年(「定年」にあらず。ある階級で勤務した年数のこと)は1年ですが、日中戦争が始まり極端な将校不足になるまでは、少尉の停年は3年ぐらいでしたから、秋津中尉は陸士36期(おおむね明治36[1903]年生まれ、陸士卒業大正13(1921)年7月、少尉任官同年10月)ぐらいだろうとあたりをつけて『日本陸海軍の制度・組織・人事』に履歴が所収されている陸士36期生(卒業330人中17名)を調べてみますと、主計将校の一人をのぞく全員、昭和2年10月に中尉進級しています。てなわけで、私は秋津中尉は陸士36期生に違いない!と思ってしまったのでした(^_^;)。
 陸士36期といいますと、あの怪物参謀・辻政信と同期になります。それとこのクラスには帝国陸軍史上もっとも有名な騎兵将校・西竹一、西郷隆盛の孫・西郷従吾(隆盛の長子寅太郎[1929年、陸軍大佐在任中に病死]の息)もいるんですね。ちなみに辻政信は陸大43期=昭和7(1932)年卒の優等(優等は毎年、首席を含めて6人)、西竹一は無天、すなわち非陸大組、です。前掲『日本陸海軍の制度・組織・人事』で辻と西の経歴を拾ってみると、次のようになります。

辻 政信(歩兵) 西 竹一
大  13・ 7 陸士卒 陸士卒
13・10 少尉・歩7聯隊附 騎少尉・騎1聯隊附
昭  2・10 中尉 騎中尉
5・ 4 欧米出張
6・11 陸大卒・歩7聯隊中隊長
6・12 騎校附仰付
  7・ 2〜7・ 6
第1次上海事変に出征・戦傷
7・ 3 アメリカ出張
7・ 8 騎16聯隊附
7・ 9 参本(参謀本部)附勤務
8・ 8 大尉 騎大尉・騎校教官
8・12 参本部員
9・ 8 陸士生徒隊中隊長
10・ 2 陸士附
10・ 4 歩2聯隊附
11・ 4 関東軍参謀部附
11・12 騎1聯隊中隊長
12・ 8 北支那方面軍参謀
13・ 3 少佐
14・ 3 騎少佐・軍馬補充部十勝支部員
14・ 9 第11軍司令部附
15・ 2 支那派遣軍総司令部附
15・ 8 中佐 農林省馬政局事務官
15・11 台湾軍研究部員
16・ 7 参本部員
16・ 9 第25軍参謀
17・ 3 参本部員(作戦班長)
17・11 第26師団捜索隊長
18・ 2 陸大教官
18・ 7 第1師団捜索隊長
18・ 8 大佐
・支那派遣軍参謀(第三課長)
中佐
19・ 3 戦車26聯隊長
19・ 7 第33軍参謀
20・ 3 硫黄島で戦死・大佐進級
20・ 5 第39軍参謀
20・ 7 第18軍参謀

 この表からもわかりますが、二人は大尉までは同時に進級(ほかの同期生の進級もこの時期までは同時だと思われる)、大尉の停年は辻が4年・西が5年、少佐の停年は辻が2年半・西が4年5カ月でした。結局、辻が大佐に進級した時点で西は同時に中佐進級となっています。騎兵は航空兵と並んで比較的進級の早い兵科でしたが、それでも陸大に行くか行かないかで、士官学校の同期でも佐官時代に完全に1階級の差がついてしまうようです。

 なお、陸士36期生330名のうち陸大を卒業したのは52名(43期8名、44期6名、45期10名、46期13名、47期8名、49期1名:ちなみに、当時は大尉に進級すると陸大受験資格を失うきまりだった)、将官に進級したのは4名(うち3名は大佐で戦死後進級なので、普通進級したのは皇族の閑院宮春仁王のみ。中将以上に進級した者はなし)。陸大卒業者に限ると、52名中45名(86・5%)が大佐在任中に敗戦を迎えています(先の少将進級者をのぞき、ほか中佐が2名、少佐が1名)。大体敗戦時大佐〜中佐の階級にあったクラスといえそうです。
 『陸海軍将官人事総覧』陸軍篇の士候(士官候補生)36期の項には大佐以上の54名の将校が記載されていますが、このうち陸大卒は45名(ほかに陸大卒に準ずる扱いを受ける陸軍砲工学校卒業者−これは砲兵科・工兵科の将校のみ−が4名・なお陸大卒の大佐のうち、4名がなぜかこの項には記載されていない)、非陸大組は26名(うち6名は戦死後進級)で、非陸大組の将校については大佐進級が敗戦直前(45年6月10日付)なので、これが通常進級の最後であったと考えられます。

 秋津中尉が陸士36期生だとすると、陸大卒業者の中にフィリピンに関係する者もいます。今経歴のわかる54名についてチェックを行っていますが、とりあえず、一人をあげます。陸大45期、といいますから入校が昭和5年・卒業が昭和8年の期になりますが、この期の首席卒業(卒業者49名)に牧達夫という軍人がいました。彼は昭和16年11月に第14軍(司令官:本間雅晴中将)新編制とともに作戦主任参謀に起用されましたが(階級は中佐)、バタアン半島攻略作戦途中の昭和17年2月23日、優勢な敵に包囲された歩兵第20聯隊の惨胆たる敗戦(3個大隊のうち第1、第2大隊は全滅、生還者は聯隊長以下378名)の責任をとらされ、更迭されています。「バタアン死の行進」についてはここで軽々に取り上げられないようなさまざまな問題がありますが、彼は大本営と南方(総)軍の戦略指導にかなりの無理があったとされるフィリピン作戦の不手際の責任をとらされ失脚した将校である、といえるでしょうか。(大本営と南方軍の不手際のつけを背負わされたのは牧中佐だけではなく、本間司令官自身もそうであったといえるでしょう)…その後牧中佐はインド独立の謀略を担任した「岩畔機関」の政務班長、陸大教官を経て、第4軍(関東軍隷下)高級参謀に転任、敗戦後はシベリアに11年間抑留されています。
 フィリピン〜インド〜中国東北〜シベリア…うーむ…

 とりとめのない話になってしまいました。本当はもっと中身のある話をしたかったのですが…すんません。
 (なお文中で西暦と元号がごっちゃになっているのは特に深い意味はありません。もっとも、私は個人的には元号は慣習としてのみ使用するという立場をとっています)




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