真空曝露の生理学

赤座[めーめ]千世・岩瀬[従軍魔法使い]史明

 人体が真空に放り出されると急激な減圧のせいで(釣り上げた深海魚みたいに)パンクしてしまう!という俗説が、けっこう広く流布されているように思うのは気のせいでしょうか。筆者(岩瀬)は、いくつかの生半可な科学解説もどきで、そんな文章をみた覚えがあります。人体には常時気圧に拮抗しようとする力が働いているので、外気圧が1気圧からゼロ気圧に急激に減圧されると膨張力が働くことは確かですが、どうやらパンクするというのは嘘のようです。人間(ほ乳類)の皮膚は、そういう点意外に強靭であるようです。
 とはいえ、急激な減圧は、人体に様々な破壊的作用をもたらすことは確かです。
そして、甲州先生は、『軌道傭兵』一巻の冒頭近く(二十頁〜)で、そのあたりを実に的確に描写しておられます。ここでは、その生理的なメカニズムを、赤座[現役医療関係者]隊員が書いて下さったメモを再構成することによって、順を追って解説していきたいと思います。なお、本稿でもし科学的過誤があるとすれば、すべて筆者の加筆・再構成に責任があります。

二十頁 『胃のあたりが音をたてて収縮した』
 ここではまだ、秋山は正常な気圧(1気圧)内にいます。これは、秋山が、同僚(加藤技官)のいる区画がゼロ気圧になっている、その知らせを受けた精神的ショックによる反応です。
 急激なストレスによって視床下部迷走神経が刺激されたからなのです。

二十一頁 『躊躇すればそれだけ蘇生率が低くなる』
 真空中に放置された状態の時間がなぜそれほど重要かというと、酸素欠乏による脳細胞の壊死は、酸欠状態の時間に左右されるからです。四分間では、回復率は五十%。十分では九十%が植物人間化してしまうのです。いったん壊死した脳細胞は、他の器官のように再生することがありません。与圧服の着脱・気閘の空気抽出・救出そのものに要する時間を試算して十分位かかることに気付いたため、秋山は与圧服なしで真空中に飛び込む決意を固めたのです。実に果断かつ的確な判断ですが、いい度胸してるともいえます。秋山、えらい!

『秋山は大きく息を吸い込んだ。あまりやりすぎるとかえって危険なのだが』
 深呼吸は、血液中にできるだけ多量の酸素をあらかじめ供給しておいてやるためです。が、過呼吸による酸素の過剰も、実はよくない。使用しない酸素を体内にとりこむと、頭がぼうっとして、一種のヒステリー症状と、車酔いのような症状を呈します。(なお、普通の車酔いも、ほとんど過呼吸症状によるものです。三半規管に異常がある人は、そちらに原因があるのですが。)

『眼の前が一瞬に真っ白になった』
 急激な減圧で断熱膨張が起こり、空気中の水蒸気が凝結したのです。雲が生じるのと同じメカニズムが急激におこったわけですね。気密隔壁が破れ気圧が急減すると、必ずこの現象が起りますが、甲州先生は航空宇宙軍史から一貫してこの現象をきっちり描写しています。もちろん、空気がすべて逃げてしまえば、この《霧》も一緒に宇宙へ拡散してしまいます。

『耳の奥からきりきりと、痛みがふくれあがってきた』
 鼓膜の外側は外気圧そのままですが、内側は口腔・鼻腔・喉とつながっており、
そこに空気が残っていると、鼓膜の内外で大きな気圧差ができます。ここで秋山はすぐに口を大きく開いたので、口腔・鼻腔内の空気が排出され、鼓膜の内側も減圧されたので痛みがましになったわけですが、ここで口を閉じたままでいると、鼓膜が破れてしまいます。また、眼底圧にも関係するので、眼球がぐっとせり出してしまいます。

二十三頁 『赤いものは吐血のあとだろう』
 先ほどと同様、不均等な減圧によるものですが、この症状は、特に急激な減圧のときに生じます。人間の身体は常に気圧と釣り合う内圧をもっているわけですが、外気圧が急減すると、皮膚だけでなく口腔内や胃・肺胞内も急減圧にさらされ、胸膜等のもつ体内圧との不均衡が生じます。このとき、もっとも弱い肺胞で、もっとも出血が起りやすいのです。他にも、口腔・消化管・目といった、粘膜で外気と接している部分が、普通の皮膚よりも痛めつけられやすいのです。
 減圧による破壊には、もう一つのメカニズムがあります。それは体液の沸騰による粘膜の乾燥です。水の沸点は一気圧でこそ百度ですが、気圧が下がるほど低下していき、およそ百分の六気圧以下では沸点が人間の体温よりも低くなってしまいます。だから、人体の露出部は、皮膚も粘膜も急速に乾燥します。
 ここでもう一つおそろしいのは、体内圧が下がっていってゼロ気圧になってしまうと、体液が身体の中で沸騰してしまうことです。いや、体液そのものが沸騰する以前に、体液に溶けている気体(主に窒素)が血管内で気化して泡をつくりますが、血管内の気泡は血流を阻害し、時には止めてしまい、心筋梗塞や脳梗塞を引き起こします。こうなると、救出しても回復が困難になります。

二十五頁『気密が破れたとき、とっさに息をとめてしまったのだろう』
 同じ急減圧でも、なぜ加藤技官が吐血し、秋山がそうならないですんだのかという理由は、ここと思われます。急減圧にさらされたときとっさに息をとめても、内外圧の不均衡に耐えられず、結局は体腔内の空気は急激に排出されます。このとき、無理にこらえようとした分、かえって減圧が急速に起り、余計な緊張によって損傷も増えてしまうのです。ぼぅっと口を開いて力を抜き、できるだけ自然に体内の空気を抜くこと!というのが、急減圧に直面したときの心得だというのは加藤技官も知っていた筈ですが、予期しない危機に直面すると、人間、とっさに息をとめてしまうもので、彼を笑う資格をもつ人間はいないといえるでしょう。

 最後に、気圧馴致について。
 現在のように、宇宙服内気圧が船内気圧より低い場合、時間をかけて徐々に身体を慣らさなければ宇宙服を着用できません。このあたりのメカニズムは高山病や潜水病という形でけっこう広く知られていますが、一応確認しておきましょう。
 ここで特に問題になるのは、血液中の気体成分、特に窒素です。窒素は水に溶けにくい気体ですが、それでも外気圧に応じた量が、多少体液にとりこまれてしまっています。これが気圧低下に伴う体液圧の低下に伴って、どんどん気化してしまうのです。これを、徐々に気圧を下げることでこまめに排出してやらないと、血管内で大きな気泡をつくってしまい、これが血行障害をもたらし、心筋梗塞や脳梗塞、軽症なら胸内苦悶のもとになります。また、体液に溶けた窒素が神経系に作用し、皮膚のかゆみ、関節痛、呼吸困難等の症状がでてしまいます。

参考文献: 『衛生管理 管理編』中央労働災害防止協会
『宇宙旅行と人間』講談社ブルーバックス  大島正光・新田慶治著




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