純粋に技術レベルの話に限れば、弾道/軌道への物体投射制御技術そのものは第二次大戦中ドイツのV2ロケットで既に実用の域に達していたと考えられ、同じく大戦中に弾道計算や暗号解読等の用途に開発され使用された電子計算機と、その歴史の長さは大差無いと言える。しかし、計算機が現在においては社会の中に広く深く蔓延し、我々の日常生活の一部となってしまっているのに対し、ロケットの打ち上げは国家プロジェクトという形でしか推進されてこなかった。それは何故かと言えば、ひとえに運用コストがべらぼうに掛かるからに他ならない。近年、ようやく地球の周回軌道上に数百kg程度の人工衛星を投入することを商業的に行う企業体もしくはそれに類する団体が現れてきたが、産業的・経済的に大kな比重を占める産業となっているとは言い難い。電算機分野での半導体革命に匹敵する技術革新が宇宙産業で成し遂げられていない以上、このような状況は止むを得ないものである。
ところが、ごく最近全世界的な政治形態の変化と経済の自由化に伴って、かつてはとても考えられなかった事態が進行している。体制の変わった旧社会主義諸国や第三世界諸国が、極端な軍事機密の壁に包まれていた航空宇宙技術を、外貨獲得の為に一般市場に投入し始めたのだ。特に顕著なのはロシアだが、いずれは中国、インド等も参入してくるに違いない。また、冷戦の終結に伴って余剰となったICBMを大量に抱える米国も、今までとは違った意味で商業宇宙開発に重要な位置を占めることになる。
さて、シリーズ最終巻で、ハスミ大佐が月の周回軌道から回収してきたドイツの最新鋭宇宙機・シュピーゲルを、一中小宇宙企業に過ぎないハスミ・オービットが今度どのように運用していくのかを考えてみた。特に大きな問題となるのが打ち上げ機である。システムとして、シュピーゲルとその前身であるゼンガーIIは二段階構成を取っている。アメリカで現在(将来的にはイギリスや日本でも)開発が進められている案にあるような単段式(単一の機体で地上から衛星軌道まで進出する)ならば、極端に言えば機体と燃料(液体窒素+液体/スラッシュ(シャーベット状の)水素)を確保すればいつでも運用可能であるのに対し、ゼンガー系は軌道に進出する上段がロケットモーターに点火する高度までそれを運び上げる下段を必要とする。デザインは全然違うが、「謎の円盤UFO」に出てきたルナ宇宙艇&ルナキャリアを思い起こして頂きたい。
シュピーゲル本来の下段は従来機ゼンガーIIのそれを流用したものである。しかし、以下の理由で、その純正品を使うわけにはいかない。
従って、シュピーゲルの運用には、これに代わる何らかのローコストで入手容易な打ち上げ手段が必要となる。上記の能力を持った航空機は要求される性能の特殊性から存在を望むべくも無く、現在考え得るのは汎用の多段式ロケットのみであり、この状況は21世紀初頭になっても大きく変わることは無いと思われる。
このような場合、打ち上げ能力さえ充分に確保できれば、ハスミ・オービットのような民間の航空宇宙関連企業にとって、冒頭で述べたような旧社会主義諸国放出品等の商業転用ロケット群は実に魅力的なものとなろう。充分実績を積んだ量産ロケットが極端に安価に入手可能なのだ。
など、コスト優先の業務にふさわしい条件が揃っているのである。
−想定されるシュピーゲルの諸元−
ゼンガーIIと下段を共有する関係から、下段から見たペイロードとしてのシュピーゲルの仕様はゼンガーIIの上段から大きくは変えられない。まず現在の構想に基づくゼンガーII上段の諸元を記す。
乾燥重量 | (有人型) | …28t+ペイロード3t(乗員4人を含む) |
(無人型) | …23.5t+ペイロード7.5t | |
燃料 | 81t | |
合計 | 112t |
これを前記の様に高度3.5km/マッハ6.6まで持って行ければ後は自力で高度460kmの低軌道まで進出可能という物である。これは、とりあえずフリーダムに人員と物資を運ぶという要求を辛うじて満たす。
対してシュピーゲルは燃料をフル搭載すれば、高度36,000kmの静止軌道はおろかフリーダムの軌道から月の周回軌道まで単独で往復できる能力を持つとある。これをとりあえずゼンガーII上段とほぼ等しい総重量110t〜120tの範囲で実現しているならば、実用性も考慮するとペイロードを犠牲にする訳には行かないから、1993年現在のゼンガー計画では採用できそうにない先進的な機体製作技術までも検討の範疇に入れて、シュピーゲルで施されている改良点は以下の要素に絞られる。
この辺りが、ゼンガーIIから外挿出来る目一杯のモディファイであろう。他に、軌道上での自由度を高めるため、機体上面に外部増槽タンクを装着出来るようにも考えられている。
帰還に際しては、月の周回軌道から脱出するための燃料は地球でのそれと比べて極めて小さい為、大きな問題とはならない。更にシュピーゲルがウェーブライダーコンセプトに基づく機体形状を採用していれば、大気圏上層で跳躍を繰り返して軌道遷移が出来る(燃料を消費しない)ので、クロスレンジ(大気圏再突入時の航続距離)と打ち上げ能力との関係に悩まされずに済む。
−現状での各種ロケットの能力−
参考までに、実在の幾つかのロケットについて、参照できた資料から関連するスペックを目につくままに揚げておく。初めの2機種は特に重量級のランチャーという事で、多少詳細に述べる。
●サターンV+スカイラブ(アメリカ)
構成…2段+宇宙ステーション
高さ111m、第一段胴体直径10m、打ち上げ総重量2900t
第一段…推力3500tで2.5分間加速(燃料は酸素/ケロシン)
スカイラブ90t+第二段を高度62km、時速10000kmまで上げる。
第二段…推力500t/6.5分(酸素/水素)
スカイラブを450kmまで上げる。
●スペースシャトル(アメリカ)
構成…固体ロケットブースター(SRB)×2+外部タンク付オービター
全長54m、全幅24m、打ち上げ総重量2000t
固体燃料ブースター(SRB)…450t×2の燃料で推力1200t×2 2400tを2分間加速。
オービター主エンジン…外部タンクの水素100t+酸素600t 合計700tの燃料で推力168t×3 504t(真空中で630t)を出す。
*サターンVに比べて燃料が少なくて済んでいるのは、酸素/水素燃料の性能が酸素/ケロシンの1.5倍以上あるからである。ちなみにエンジン質量は1基3t。
合計で離床時の推力は3000t。これで高度45km/秒速1.53km(マッハ5.1)まで出す。この後はオービターのエンジンのみで軌道へ。オービターは乾燥重量84t+軌道用燃料12t 96t
活動可能高度は185km(ペイロード30t)〜1100km(同11t)シャトルに固体2段ロケットを積むと、2.3tを静止軌道へ乗せられる。
●タイタンVC(アメリカ)
構成…約20tを低軌道に投入可能。
SRBは重量100t×2 推力450t×2
●SL−13 プロトン(旧ソ連)
構成…6本を束ねたクラスタ状の1段を含む3段
全長439m、最大径10.3m、打ち上げ総重量949.5t
低軌道へ約20tのペイロードを投入可能。
●SL−4 ソユーズ(旧ソ連)
構成…4本を束ねたクラスタ状の1段を含む3段
全長43.9m、最大径10.3m、打ち上げ総重量435t
第一段+第二段…推力504tで435tを離床させる。
第一段が燃え尽きた後は約100tを推力96tの第二段で加速する。
第三段…推力30tで7tのペイロードを含む30tを加速し、低軌道に投入する。
●エネルギア(旧ソ連)
詳細は手持ちの資料に無いが、ソ連版シャトル「ブラン」を打ち上げた超大型ランチャー。サターンVを越える軌道投入能力があると言われる。
今のところ運用例はそう多くないものの、こなれてくればブースター無しでシュピーゲルの打ち上げが可能である。ただし、シュピーゲル自身の推進能力を考えるとこのクラスの打ち上げ機を必要とするミッションはほとんど無いかも知れない。
●長征2−E(中国)
全長51m 打ち上げ総重量464t 推力600t(ブースター×4)
4.5tを静止軌道に投入可能。
●改良型アリアンV(ESA…ヨーロッパ宇宙機関)
構成…燃料230tのSRB×2+燃料155tの中段。
6.8tを静止軌道に、23tを460kmに投入可能。フランス版小型シャトル「エルメス」の打ち上げ機。
●H−IID(日本)
全高49m 推力…110t+ブースター320t×6
20tのペイロードを高度460kmに投入可能。日本が計画中の貨物専用シャトル「HOPE」の打ち上げ機。
*この他、インドも自前の衛星を打ち上げた実績がある。
アメリカの旧機種や共産圏の放出品だけでなく、政治的事情が絡んでコストメリットが出れば、所詮はどれも同じ様ないわゆるロケットであり、日本のH−IIやヨーロッパのアリアン等も充分打ち上げ機の候補となる。
−シュピーゲル打ち上げ機構成例−
以上のような状況を踏まえて入手性・コストパフォーマンス等を考え、世界で最も量産された打ち上げ機として、ソユーズ+タイタンの固形燃料ブースターの組み合わせでランチャーを構成してみるとすると…
主機…旧ソ連製SL4(通称ソユーズ)の2段目まで
固体燃料ブースター…タイタンVC用ブースター
シュピーゲル ソユーズ ソユーズ タイタン
2段 1段
推力 98t 408t 900t
重量 100t 96t 309t 200t
合計 705t
打ち上げシークェンスは次の様なものとなるだろう。
地上でSL−4ソユーズ+タイタンの両方に点火、打ち上げ後約1分でタイタンSRBが燃え尽きる。その時点で高度15km、秒速1km(マッハ3.8)まで達している。
その後ソユーズの1段で高度30km、マッハ5.5まで加速。
最終的には高度40km、マッハ8まで、ソユーズの2段目がシュピーゲルを持ち上げる。
以上が、シュピーゲルを運用するに当たってタイタンSRBとSL−4ソユーズを打ち上げ機として使用した場合のシナリオである。
−ハスミ・オービットでのこれからの打ち上げ形態−
ところで、ここに一つ問題がある。本来シュピーゲルの打ち上げ段となるゼンガーIIの下段は、繰り返し利用可能なターボラムジェット機である。特別の発射危地は不要で航空機として通常の飛行場から水平離着陸でき、施設利用も含めたランニングコストは使い捨てロケットなどより遥かに安い。条件にもよるが一桁以上のオーダーで差がつく可能性がある。べらぼうに高いのは初期投資(本体価格)だけであると見ていい。
とすると、ドイツがシュピーゲルの商業運航にまともに乗り出せば、あるいは大資本が衛星軌道上のビジネスで投資に見合った利益が上がると見積ってシュピーゲルを購入して事業を始めれば、いくら拾ってきたシュピーゲル単体+安い打ち上げ機を使っても、従来の打ち上げ機(多段式使い捨てロケット)を使った方法では長い目で見て太刀打ちできなくなるのは経済原則からも明白である。もちろんハスミ大佐の神技とも言える操縦技術でミッションの内容によってはかなり有利な料金設定ができるとは思うが、そんな危険な美味しい仕事がそういつもある訳もない(そう言えば、原稿のスペースシャトルは安全を期して大気圏再突入時に手動での操縦が出来ないようになっているとどこかで聞いたことがあるが、作中ではどうなんだろう)。安全率を削減して打ち上げ費用のディスカウントをするにも限度がある。競合他社が現れてくるまでのつなぎの間は本稿のような形態で運用でも良いが、そのうちにもっとランニングコストを抑えた合理的な打ち上げ方法を考案しておく必要がある。アンダーグラウンド市場にゼンガーIIの下段が出回り、ハスミ・オービットがそれを購入できるようになるのは更に先の事になろう。
と言う訳で、この次は赤道直下のマスドライバーについて、その実現可能性と具体的システムを考えてみたい。
*なお、本記事は資料、原案を人外協隊員の某氏に全面的に依存しており、イラストも書き下ろして頂いた。本人の希望により特に名を秘すが、ここに心から感謝の意を表する。
《補足:大気圏再突入とシュピーゲルの機体形状》
他の宇宙機と比べて機動性の高いシュピーゲルでは、大気圏再突入時の対気速度も必然的に大きなものとなり、機体に高い耐荷重性と耐熱性が要求される。通常の有翼形態では構造的に耐え切れない進入速度での運用性能を、応力/熱集中が少なく比較的容易に軽量・高剛性が得られる下半円錐型リフティング・ボディとすることによって実現している。また、大気圏表層での跳躍効果を高める底面のフラットボトム形状によって、大気圏内での高続期距離が大幅に改善されている。