池田小学校児童殺傷事件小考

黒川[師団付撮影班]憲昭

 大阪教育大付属池田小学校児童殺傷事件の宅間守被告は、死傷した児童とその家族への、反省・謝罪を10月10日の公判でもしなかった。
 たぶんこれから先もすることはないのだろう。
 そう思うと、神の一時休業がまたしても恨めしくなってくる。
 昨年、6月8日、宅間被告は池田小に侵入し児童8名を殺害、15名を負傷させた。
 逮捕された当初から
「自殺できないので死刑にして欲しい」
「小学生なら抵抗されず、殺せるだけ殺すつもりだった」
「別れた元妻を困らせてやりたい」
 などの供述を繰り返し、公判の開始から一貫して、事件被害者に対する謝罪を彼は拒否し続けてきた。
10日には遺族による初めての意見陳述があったが、その態度に変更はみられない。
 また10日の公判では弁護団による被告に対する精神鑑定の訴えが認められた。年内をめどに被告の責任能力の有無が判断される見通しだ。
 この判断をふまえたうえ、判決は来年の春にも下される。
 この裁判のやりきれないところは、これから行われる精神鑑定、判決、そして可能性としての高裁、最高裁へと続く控訴審までの間。
 これらがことごとくが必然的な結果を導き出すためのセレモニー、宅間守被告の死刑をもって終了する、であることを裁判に関わるすべての人間が理解している点だろう。
 現在の判例では、二人以上の殺人を犯した者にはほぼ間違いなく死刑が求刑されている。犯罪の厳罰化が進んでいる現状では、これよりも死刑の基準が緩められることはないだろう。
 したがって責任能力があるならば、8人を殺したこの事件の判決は死刑以外にあり得ない。
「自殺できないので死刑にして欲しい」
 望みどおり、遠からず宅間被告は己が望む死刑を手にいれることができるのだ。
 理不尽。
 不合理。
 情としてそれしかない。
 ましてや今回の事件で子供を失った親においては察するにあまりある。
 しかしながら、日本の刑法が生命をもっとも重要なものと考え、それを奪うことがほかと比較することのできない究極の刑罰だという思想によって運営されている以上、これは仕方のないことだ。
 実際、死よりも重い罰というものを、我々は現時点で持ち得ないのだから、こればかりはどうしようもない。
 もちろん純粋に技術論として、死よりも重い罰を与えることは可能だろう。
 最高度の医学・心理学・社会学を駆使するならば。徹底した苦痛、極限の恐怖、それらを味わってもまだ死ぬことが許されない、という状態に近いものへ追いやることは可能だ。
 たとえば、身体各部を生命に危険なく切断することは、接合に比べて遙かに容易であるだろう。四肢 ・各感覚器官はもとより、脊椎と頭部の分離もやろうとおもえば絶対に出来ないわけではない、期待するのは無理なことだろうか。
 ナチスドイツから、ソビエトを経て、冷戦が完成させた強制収容所による虐待の技法が、より低コストかつ必要に応じた規模の拡大も可能なものとして提案されるかもしれない。
 かつて中国の歴代王朝によって綿々と受け継がれてきた、宮刑、斬刑などの肉体刑も、現代科学と融合することで新たな展開を見せるだろう。
 繰り返しになるが、中世に想像された地獄と同じか、あるいはそれ以上のものを実現するための技術は我々のすぐ手元にある。
 問題はそれらを運用するための思想となる。
 もし刑罰としての拷問を復活するならば、いまの形で社会を存続させることは不可能だ。
 まず人権思想の変更・後退は避けられない。
 明示されてはいないが、基本的人権の中には、個人があらゆる場合において拷問を受け無い権利があると考えられる。
(と簡単に書いてしまったが、手元の基本的人権に関する著書には、拷問を受けない権利、について論考されたものがなかった。
 よって今回は刑事訴訟法の強制による自白を裁判の証拠として採用しない、というメソッドを敷衍したことを参考までに)。
 いま、死刑を行うことは権力の過度の行使である、という死刑廃止論に対する論議にも結論が出ていないというのが現状だ。
 それなのに、さらに死より重い刑罰を執行を唱えるのは、あまりに軽率にすぎるだろう。
 人権と人情をはかりにかけねばならないとき、自分が享受したものを子孫残す義務からいって、苦渋の決断であるのを承知の上で、前者を優先させるべきなのであろう。
 もっともこれらの意見を被害者から、法匪の戯言と弾劾されるならば、反論すべき言葉はない。
 失った命は元に戻らない。
 それならば、せめて反省と謝罪の言葉を、本心はどうであれ聞きたいと願う人にとっても、被告人は頑強にそれを拒んでいる。
 精神が破綻をきたしているならば、それはそれで仕方がないと納得もいくが、おそらく精神鑑定の結果は、通常の精神とは異なっているが、罪の重さがわからないほどおかしくはない、という判断をくだすだろう。
 現代社会において、それが常軌を逸した大きさであったとしても、エゴイズムの肥大は精神異常とは認められない。
 分際という言葉が否定的な意味を持ってしまった現代日本では、エゴイズムの限界を決めることが出来るのは、自分自身しかいないのだ。
 西欧ではこの問題に対しては、キリスト教でいうところの神が担当しているので、問題が複雑になれば、全てひっくるめてあちら側に丸投げすることができるので、便利といえば、便利である。
 だが、それはあくまでよそ様の文化でのことであって、あいにくと現在の極東地方では、神は不在か、冒頭いったように一時休業中なので、そちらへ持ち込むことはできそうにない。
 本人の意思に反して、改心させる方法も、全くないわけではない。
 しかし、洗脳をおこなうかどうかについては、拷問=>洗脳と置き換えて前段で述べた問題点がそっくりそのまま同じように指摘されるだろう。
(拷問を受けない権利同様に、洗脳を受けない権利、というものがあるかどうかは、なかなかに議論として興味深いものがある。
 宗教、思想、学問などの類は多かれ少なかれ洗脳の要素を持っている。
 またテレビに代表されるマスメディアを出来の悪い洗脳装置と断言する人々に、個人的に共感する部分が多いにあることは否めない)

 犯罪者が望むものを手に入れ、全ての被害者・関係者が不満を残したまま、この事件は終わってしまう公算が、今のところ高い。
 あまりに救いのない結末だ、というのは被告を除いた、誰から見ても明らかだ。
 ではどうすればいいのか?
 それは解らない。
 これは視点を変えれば、どうすればいいのか解らないことが、現時点では解っているという見方ができるのではないだろうか。
 将来、文明がもう少し進めば、現時点ではわからないことが、解るようになる。そんな希望を持つことはおかしなことだろうか?
 とりあえず、現時点での判断を先送りし、将来もっと人類が賢明な存在になることを期待して、それまで判断を待つ。
 逆説めいてはいるが、判断しない、という判断も存在するのである。
 幸いにして、判断を先送りするための技術についての幾つかのアイディアはいくつか存在する。
 亜高速で航行する宇宙船によるウラシマ効果。
 冷凍睡眠。
 電子的な人格の保存。
 技術的なハードルは高いが、将来これらが克服出来ない訳ではないだろう。

 これらの事を勘案するに。
 宅間守被告の犯した罪にとって、ふさわしい刑罰が現時点で存在しないため、残念ながら現時点の判決は保留するべきだろう。
 死刑にしてはいけない。
 終身刑、それも技術的なハードルがクリアされるまで、なるべく長く生かす。
 そして技術が完成したならば、氷付けにするなり、宇宙の彼方に放りだすなりすればいい。
 そして時間へと解決をゆだねるべきだ。
 もっともこれは、死刑にして欲しい彼にとっては、あまり嬉しいものではないかもしれない。だが、彼には改心して、反省・謝罪をするという道が常に開かれていることを伝えるべきだろう。
 将来への希望を捨ててはいけない。
 まったく死刑になれないわけでもないのだ。
(こういう結論がでるということは、もしかすると神は営業再開を考えているのかもしれない。)



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