春の天災対策

黒川[師団付撮影班]憲昭

 もうすぐ三月がやってくる。
 三月はあなたにとってはどんな月だろうか?
 三月は別れの季節。
 それは立場や場面によって、卒業・退職・転勤などさまざまな言葉で現される。
 一方、三月は出会いの季節でもある。
 進学・就職・結婚など人それぞれの境遇や運命によって呼び名が変わるのもまた同様。
 冬から春への季節の区切りが、人生の区切りと重なって。それぞれに、さまざまな感慨をもっているに違いない。
 僕にとっての三月は別れ、そして出会いの間に起こる必然的な事象、時には人生をもみくちゃにする“天災”のやってくる月。
 三月は引っ越しの月だ。

 たかが引っ越しと侮るなかれ。
 引っ越し中に、ヒステリーを起こして泣き出した人間を僕は三回見ている。これは人間だけを勘定したもので、犬や猫を含めるとさらに多くなる。
 ほとんどたいていの引っ越しは当時者に対して、心理的、経済的、身体的なダメージを大なり小なり与えるものだ。
 その深刻さの度合いは、台風などの天災などに比べて決して見劣りするものじゃない。引っ越しが原因となって離婚したり、別れたりするカップルの数を想像するならば猛威のほどもわかるだろう。
 これまでの人生において進んで、或いは余儀なく引っ越しをしたことは数えて五回ほどあるが、そのすべてが毎回新鮮だった。
 おもえば色々なことを学んだものだ。
 引っ越し業者はどんな時でも最悪のタイミングで現れるということ。また、呼びもしないのに新聞屋はどの新居でも最初の訪問者となること。
 引っ越しの最中に消滅したカッターは二度と姿をあらわさず、まったく同じ文庫本が三冊出現するなどの怪奇現象に常に悩まされるはめになる。
 エトセラエトセラ。
 引っ越しはあらゆる意味において、人生の一大イベントだ。もしかすると皆さんの中にも、この運命的な嵐に近々巻き込まれるという人がいるだろう。
 今回はそんな方にとって、少しでも参考になるかもしれないアドバイスについて。願わくば少しでも役に立つことを切に祈りつつ。

 引っ越しが“天災”である。では人として来るべき天災に対処するにはどういう心構えでいればよいのか。
 地震・雷・火事・税務署とにかく来るものはどんな手だてを講じても、来てしまうのであるのだからここは腹をくくって、いかに被害を小さくするかという気持ちで臨んでいただきたい。
 この引っ越しという災害には幾つもの要素があるがなににも増して重要なのは“時間”だ。これまでの経験からして、引っ越しとは“時間との戦い”だったといっても過言ではない。
 引っ越しまであと一月、と告げられて呆然としていて、気が付くとあっという間に半月が過ぎ、何からか手を着けようとしたときは、すでに一週間前、必死になって荷物を詰める間に引っ越し業者のトラックが現れて、混沌の中で自らを見失う。
 荷物や自分を見失わないためにも、引っ越しという言葉を聞いたなら、とにかく走り出さなくてはならない。走っていれば市役所・学校・近所のホームセンターどこかにたどりつくはずだ。

 走り出したなら、次にこの戦いの当事者は自分であり、同時に“唯一の戦力”だと決意しなければならない。
 子供はお荷物でしかなく、騒ぎを大きくするだけ飼い猫よりもやっかいだ。あなたの配偶者にはなにも期待してはならない。いわんやそれが夫であるならなおさらである。
 遊びなら徹夜で付き合ってくれる友人は、なぜか引っ越し当日に急な用事が入り、ひそかに頼みにしていた母親は突然入院する。
 唯一頼みになるのは引っ越し業者であるが、彼らとて日給8000円のバイトであり、それ以上を望むのは間違っている。
 とにかく頼める者は自分しかいないと諦めて欲しい、が足は止めないように。

 出来る限り速やかに決意を固めたなら、次に、引っ越しに集中する作業が必要だ。
 この時、多くの場合決まってどこからか、声がするはずだ。
「引っ越しを機会に、古いソファーやいらない食器は捨ててしまおう」
 当初、これは神の啓示ように聞こえるが、いうまでもなく悪魔のささやきにほかならない。これまで捨てられなかったものには、それなりの歴史的な経緯があり、多くの利害がからまっている。
 悪しき機会主義によって、これらのものをうやむやにしようとするならば、たちどころに物事は混乱し始めること請け合いだ。
 この際声を大にしていいたいのは、引っ越しとは家財を移動させることであってそれだけに集中せよ、特に引っ越しビギナーにとってはそれが賢明だ。
 とにかく捨てない。なにもかも全部もってゆく。登山者と同じスローガンで作業を進めたなら、かなり精神的に楽になるのではないだろうか。

 もっとも。
 引っ越しは時間との戦いという側面の他に、経済戦争という側面も持っている。
 景品で貰ったロゴ入りのマグカップや、アスキーのパソコン雑誌一年分のスペースが浮いたら、もしかすれば10トントラックで運ぶところを、8トン、いや4トンでゆけるかもしれない。
 そうすれば大勝利なのだが。大勝利を望んで立てられた作戦は、多くの場合悲惨な結果に終わるのが、残念ながら歴史的な教訓である。
 平成日本国において金は信仰であり、あだやおろそかにするべきではない。世間での困難の大半は、金で解決できるという事実から目を背けるのは愚かなことだろう。逆に考えれば時間も、健康も、家族の平和も、特に引っ越しという災害の中ではある程度金で買えるのだ。
 具体的にあと10万円だせば、もう一回り大きいトラックが使えるならば、使った方がいい。財布は傷むが相対的に被害は低く押さえられるようだ。

 それとさらに金の余裕があるならば一度引っ越し先の下見をするべきだ。
 転勤などの場合には、あらかじめ引っ越し先の間取りや部屋の様子は知らされるが、おおむねそれらの情報は間違っているか、良くて重要な部分が欠落している。
 引っ越し先は今と同じ2LDKならば、たいていの場合、現在の住居よりも手狭だ。また天井といのはあんがい段差があるものだし、家具を置こうと思っていた場所には出っ張りがあるか、ひきかえにコンセントが使えなくなる。
 前の住人がどんな人間であったにせよ、荷物を入れる前に噴霧式殺虫剤を焚いておけば、引っ越し早々に背中が茶色くてかてか光った原住民から、挨拶を受けることはないだろう。

 荷物を詰めるために、まず最初の段ボールを組立終えたら、その上面に大きく“その他”と書くことをお勧めする。
 リビング、台所、子供部屋、ベランダなど、全ての荷物は新居のそれぞれの場所に運ばれなければならないのだが、中には即座に行き先が思いつかないようなものが絶対にある。
 これまで家のどこかにあったのだから、新居にもそれに対応する、しかるべき場所がある。こうかんがえるのは非常に論理的であり、反駁の余地はそうかんたんには思いつかないが、初めに書いたとおり引っ越しには超常現象がつきものだ。
 おみやげに貰った風鈴。子供が幼稚園で描いた絵。地球儀。将棋盤。
 引っ越しが始まるととたんに、これまで見えなかったもの達が姿を現す。
 見えているはずだったのに、見えなかったのはどうしてだろう? とか考えだすと枕みたいにどでかい新書版新本格推理小説を完読するくらいの時間は、アッという間に経ってしまうので、とにかくやたらめったら封印してしまう。
 それが“その他”という箱だ。
 そしていったん箱をガムテープで封印したならば、とにかく新居に運ぶまでは開かない。
 もっとも“その他”ばかりが何十箱、というのも考えものだが、まがいなりにもそれらは、段ボール箱に詰め込まれたのだからよしとすべきだ。
 もしあなたの側に“その他”という箱を大量に生産する人間がいたとして、それに改めて整理し直せ、と命令するのは賢明な者のすることではない。

 あと、本はなるべく小さな箱に、分けて詰めること。引っ越しの前日に猫は籠に閉じこめておく。今年の年賀状だけは、別に避けて自分の手でもっていく。など細かいことをいいだしたらキリがないが最後にもっとも重要なアドバイスを一つ。
 引っ越しの準備がはじまったら、できるだけ生活のパターンを崩さない。
 季節の変わり目で、ただでさえ風邪をひきやすい中での数週間の作業は、かなり注意していても体の調子を悪くしてしまいがちです。
 くれぐれも健康に気をつけて。

 新しい出会いの季節。
 元気な挨拶から初められることを心からお祈りいたします。



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