ここ数年来、酒の席で“景気”という言葉が出ると、すなわちそれは“不景気”を意味するようになり、人員、予算、賞与などのサラリーマン用語は軒並み“削減”の枕言葉となり果ててしまった感がある。
「景気がこれじゃあうちもそろそろアカンで」
二杯目の生ビールを飲み干しながら友人の旗持がいった。
「ダメだ、といわれてからがあんがい長いもんだが……」
俺は目の前のホッケの身をほじくりながら気のない返事をする。無視してもいいのだが、今日は珍しく旗持が奢るというので一応は相づちくらいは打ってやった。
「いや、うちみたいな中小の旅行業者は来世紀まで残れるかどうか」
旗持はそういうと、バイトのウェイターに三杯目の生ビールを注文した。当然、俺も同じの、と声をかけると旗持は嫌な顔をしたが、なあに気にしてもしょうがない。
「じゃあ、今年で店を畳むと……」
「アホ。酔うて計算もできんのか? まだ99年間も残っとるわ」
「今年はまだ二十世紀だぞ」
俺の言葉を無視して、旗持は運ばれてきた三杯目の生ビールを飲んだ。
旗持(断るのを忘れたがもちろん仮名だ)の会社は国内の団体旅行を中心にやっているのだが、不景気で主力の社員旅行は激減し、さらに大手旅行会社の値下げ、旅客運送会社の直接参入が状況を苦しくしていた。
「さらにインターネットが厳しいわ」
旗持は最大の敵について言及した。
「同感。ホームページで旅行の予約をして、コンビニでチケットを受け取ればいいんだから。間に入って手間賃を稼ぐ商売はどこも見通しが良くないようだね」
「社員旅行自体が流行らんようになってきとったのは、入った時から解っておったんやが、まさか携帯電話で航空券が予約できるようになるとまでは予想できんかったわ」
旗持がぼやいた。
ライフスタイルの変化、情報革命、戦後最長の不景気、この三つの強敵に一斉に襲われて、現在生き残っていること自体が素晴らしいことなのだが、そういったところで明日の米について心配している人間には気休めにもならないので、黙って枝豆を口に放りこんだ。
しばらく不景気な顔でビールを飲んでいた旗持がいった。
「ところで、お前さんピカチュウ・ジェットは知っとるよな?」
「この前生駒の近くで見たが、あれを一日に三回見られたら幸せになれるというのは本当かな?」
「アホらし。一昨年くらいから事務所の天井にもぶら下がっとるが、幸せどころか災難続きや」
そういえば今年に入って得意先が二件も潰れたといっていたっけ。
「でも全日空はあれのおかげでかなり“幸せ”になったらしいぞ」
俺がいうと、やにわに旗持はジョッキを置いて椅子に座り直した。
「もう一つ聞くが“でじこ”ってわかるか?」
「正確にはデ・ジ・キャラット。宇宙最強の猫耳兵器。とかいっても堅気の人間が解らんだろうし、解って欲しく無い。出来るならそっとしておいて欲しいものではあるのだが……」
「なんとなく、いいたいことはわからんでもないけど、こっちとしてもそうはいっとられん状況なんや」
そういわれて突然、今日ただ酒が飲めた理由が理解出来た。
キーワードは“幸せ”。さらにいえばその幸せの主成分である“経済”=“金”。そして現在日本経済の中で数少ない好調な“ある特定の分野”について、旗持の知り合いの中で一番詳しそうな人間。それが俺だったということだ。
正直言ってあまりうれしくはなかった。
「普段もそうやが、特に帰省のころの国内便はピカチュウ・ジェットから予約が埋まっていく、というのが常識や」
「さらに、日本橋界隈にある事務所では、オタク向けショップの景気の良さを見せつけられている、ということだな」
「それでお前さんのような……、まあ趣味人からそこらへんのレクチャーを受けたい、というこっちゃ」
そういって旗持は四杯目のビールを二つ注文した。ついでに浅漬けの盛り合わせを頼んだ。
どうやら逃げるタイミングを失ったようだ。
「初めにいっとくが、俺はあっちの方とは完全に畑違いでよくわかんねえぜ」
「畑違いって、お前さんはSFオタクやろう?」
「お子さま向け、ゲーム・秋葉系、アニメ、フィギュア、ドール、同人、SF、確かにどれも重なる要素があるといえばあるが、実際全く行き来がないな」
旗持は不審そうな顔をした。まあ、そうだろう。言ってる当人自身困惑しているのだから。なにか、旗持にもわかるような良い言い方はないだろうか。
そう思った時、テーブルの上に残ったホッケの残骸が目に入った。
「旗持、最近釣りの方はどうだ」
「先週串本までいったんやが、メバルが少し上がったくらいで。でもそれがどういう……」
「鮎釣り、バス・フィッシング、へら師、トローリング、フライ、そして磯釣り。素人から見ればどれも魚を釣るということに共通点があるが、釣師からすればまったく違う世界なんだろう?」
こういうと、旗持の顔に初めて理解の表情が浮かんだ。
「ついでにいうと、麻雀、競馬、ゴルフ、バカラ、こんなに種目の違うものがみんな“博打”の一言でくくれる。さっきいったオタクの種目の間には、オリンピックの重量挙げとサッカーくらい違いがある」
ここまで聞いてどうやら旗持は納得してくれたようだ。これで安心してビールが飲める。
「……しかしやな」
旗持が呟いた。俺のジョッキを傾ける手が一瞬止まった。
「あの、黄色い電気ネズミをジャンボに描いておくだけで、あれだけ客が乗るんやから、ホンマええ話や。特に金のないウチみたいな中小が、ああいうもんを造れたら一息つけるんやけどなあ」
関西弁でぼやいているからまだ笑い話に聞こえるが、表情を見るとどうやら旗持のところは本当に厳しいらしい。しかしながら、キャラクター商売というのも、ごく控えめにいっても絶望的に厳しいものだ。
例えばだ。
「旗持よ、お前ピクルス王子って知ってるか?」
「……知らん。けったいな名前やけど、なんやそれ」
「パプリカ王国の王子様で、ブロッコリー王国へ商売を学ぶために留学した。今頃、ゲーマーズで売り子をしているだろうが、アニメ化される予定はいまのところない」
こういうと旗持はうつろな目をした。
「ピクルス王子は自衛隊のマスコットキャラクターさ。設定は若干違うかもしれないが、自衛隊のホームページを見たら実物に会える」
「でも、そんなもん知らへんで」
そりゃそうだろう。自衛隊員だって知っているかどうか……。
「少なからぬ税金を投入してキャラクターを発注しても、上手くいかんことの方が多い世界だぜ」
そういって、俺は赤くなった旗持の顔をのぞき込んだ。
「それでも、やってみんことにはわからへん」
だめだ目が座っている。どうやら旗持は今日の酒代を是が非でも取り返すつもりだ。改めて今回の不景気に対して腰を据えてかからなければならないようだった。
「一ツ橋や音羽、富士見あたりの国ならまんざら知らないわけでもない。実物を見ながら俺の家で飲み直そう」
そういって俺は立ち上がった。
長い夜になりそうだったが、少なくともここでは伝票を持つ必要はないのがせめてもの救いだった。