脳死問答

黒川[師団付撮影班]憲昭

「ちわ、ご隠居久しぶりです」
隠居
「久しぶりだね熊さん。ちょうど団子を買ってきたところだ、良かったら喰っていきな久しぶりだね熊さん。ちょうど団子を買ってきたところだ、良かったら喰っていきな」
「へえ、今はやりの三兄弟だな。しかしこの串にささった団子ってのは残酷でいけない。特にご隠居の頭を見ながらだと、まるで自分が人喰いのような気がしてくる」
隠居
「じゃあ、喰わなきゃいいじゃないか」
「たとえですよたとえ、洒落の解らない人だねこいつは」
隠居
「おまえさんに洒落が解らないといわれるとは世も末だね。しかもいうに事欠いて、こいつときたもんだ」
「ところでご隠居、一つ相談ごとがあるんだが」
隠居
「いいとも、金のかかる話でなければ何でも聞いとくれ」
「相変わらず、ケチな野郎だ」
隠居
「なにかいったかね」
「いえなんにもございやせん、ところで相談というのはこれのことなんでさ」
隠居
「なになに、『臓器提供意思表示カード』。ああ先月の一日におこなわれた、脳死移植で話題になった黄色いカードだな。偉いね熊さん。ついにあんたも提供する気になったのか。いや立派なことだ」
「いやそれほどでも」
隠居
「それで独り者のお前さんのことだ、家族署名が書けないから、代わりにワシに書いてくれということだね」
「おい、こら。勝手に人の臓器を提供するんじゃない。まったく油断も隙もありゃしない」
隠居
「なんだい、普段から人様に迷惑をかけ通してるお前さんも、せめて脳死になったときぐらいは世のため人のためになろうと、心を入れ替えたかと思ったのに」
「いや、初めはそのつもりだったんだがね。ちょっと気になる話を聞いちまったんでそれで、どうしたもんかと思案してるんだ」
隠居
「脳低体温療法のことかね。たしか柳田邦夫という偉い民俗学者が、緊急医療現場でこの療法が脳の回復に効き目を発揮するのを見て驚いて、脳死に至るまでの医療について、ちよいとばかり考えねばならないというのをこの前雑誌で読んだよ」
「へえ、さすが町内一の物知りだ。だてに一日中新聞を読んでいる訳じゃねえな。俺なんかスポーツ欄とテレビ欄、あとは黒枠記事くらいしか見ねえからな」
隠居
「なんだいその黒枠記事とやらは」
「新聞の死亡欄でさあ。たまに虫の好かない野郎が死んでいるのを見つけると一日楽しく過ごせる」
隠居
「嫌な人だねこいつわ」
「話を戻すが、その柳田なんとかという学者さんのことじゃあない。話というのはエッチンガーの奴のことなんでさ」
隠居
「ああ向かいの長屋に住んでいる氷屋のことか」
「いや、奴は氷屋じゃなくて凍らせ屋」
隠居
「そういえば菊池秀行の本にもそんなのが出てきたな」
「ちょいと違うと思うが、そのエッチンガーの奴が今度の脳死のことでえらく怒ってましてね。今の脳死判定基準は許せないと息まいているんでさあ」
隠居
「立花隆みたいな人だね」
「あんなネギ坊主みたいな頭じゃないが、まあそれはともかく。臓器移植法に基づく脳死判定は 1.深い昏睡、 2.瞳孔の散大・固定、3.脳幹反射の消失、4.平坦な脳波、5.自発呼吸の停止、6.1から5が六時間以上経っても変化しないこと、以上の要件を満たすことで初めて脳死と認めるということになってる。この他にもこの前の判定では念には念をいれて聴性脳幹反応も確かめた訳だ」
隠居
「ちょっと手際の悪い所もあったが、結局は基準を満たしているということを移植コーディネーターも確認して移植となったはずだが、それになにか不満でもあるのかい」
「ヘイ、それがおおあり名古屋のこんこんちきで、特に6.1から5が六時間以上経っても変化しないこと、というのにえらく腹をたててましてね」
隠居
「六時間じゃ不十分ていうことかね」
「違います、その逆で六時間もあったら脳細胞が全部死んでしまう、と怒っているんでさあ」
隠居
「いっていることがちょいとよくわからんね」
「順をおって話すとね。エッチンガーの商売はクライオニクス(Cryonics)というもんでして。例えば不治の病にかかった時、人体を冷凍保存することで、将来医療技術が発達した頃を見計らって解凍してもらい治療を受ける。いうところの生命の冷凍保存というやつなんですが、ご存じですか」
隠居
「昔読んだ本の中でジェイムスン教授というお人が、自分の死体を凍りづけにして、未来の世界に生き返るというのがあったが。ありゃあ、いちゃあ何だがSFのお話だろう」
「まああれはSFというよりもスペオペという気がしないでもないが、まあSF論争はともかくとして、ようはそういう商売をやってるんでさあ」
隠居
「ちなみに、冷凍保存の値段はいくらくらいなんだね」
「あちらの値段で脳だけの保存の必要最低料金は5万ドル程度、非常時に駆けつけて保存をしてくれるという保証料金は年額で3百ドルくらいだそうですが。なんならホームページをいっちょう覗いてきやしょうか」
隠居
「それにはおよばないよ。だいいちおまえさんは英語が読めるのかい」
「日本でもホームページを作っているってSFマガジンの四月号にも書いてやした」
隠居
「さっきの黒枠記事といい、お前さんは時におかしなものを読んでいるね」
「ところでエッチンガー曰く、なにかおこったとき脳細胞がたくさん残っていればいるほど、冷凍からの蘇生の確率が高くなる。脳死判定は脳の機能が不可逆的に壊れたことを確かめるものだが、機能を果たさなくなったとしても全ての脳細胞が死に絶えた訳ではない。実際、少しでもたくさんの脳細胞を助けるためには、第一回目の判定だけにするべきだ、とくるんです」
隠居
「でも、脳を冷凍したとしてもそのあと上手く解凍出きるのかね。ほら魚でも冷凍にするととたんに味が悪くなるが、あれと同じで脳細胞も凍ってしまうと鮮度が落ちやしないかね」
「なんだか、団子を喰っている最中に嫌な例えだね」
隠居
「なにいってんだい、ひとりで五本も喰いおって」
「まあ、それはともかく。つい最近までは確かに解凍するときに細胞が損傷を受け回復は望めない、といわれていたんですが。エッチンガーと同じ長屋に住んでいるドレクスラーという寺子屋の先生がうめえやりかたを思いついたんでさあ」
隠居
「凍らせ屋のエッチンガーといい、どうもあちらの長屋には面白いことを考えつく人が多いね」
「ドレクスラー先生によると、アセンブラーという目に見えないほど小さな知能ロボットを使えば、壊れた細胞も上手いあんばいに直すことができる、とくるんだ」
隠居
「なんだかそれも夢物語のような話だね」
「冗談じゃない、アセンブラーというのはSFでもなんでもなく、今の技術がちょいと進めばすぐにできる。その名も『なのてくのろじー』て奴だ。どうだ参ったか」
隠居
「おやおや、参ったかときたもんだ。まあそういわれれば、参ったというしかないねえ」
「はっ、はっ、参ってやがんの」
隠居
「それはそうと、結局なにかい、お前さんは『臓器提供意思表示カード』は持たないことに決めたんだね」
「ああ、そのことをすっかり忘れてた」
隠居
「まったくこれだからしょうがない、まあ誰でもない自分の命のことなんだから、よく頭を冷やして考えな」



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