ぼくのノスタルジー

清水[オフィサーズクラブ・オーナー]宏祐

 世紀末であります。というわけで、今回の本誌の全員参加企画は、『今世紀の反省と、来世紀への抱負』というものであります。個人的にも今年はある意味で区切りの年なので、今回それを踏まえて(って言うほど大したものではないのだけれど、単に今年四十五歳になっちゃったっていうだけなんだけどね)、僕なりに約半世紀の記憶の中から特に印象に残ったものをだらだらと書いてみようというのが、今回のエッセイであります。
 とは言っても、ただでさえ記憶力の無い僕の事、記憶違い、うろ覚えや事実誤認などが続出するであろう事は簡単に想像できるのであります。まあ、そこのところは、あくまでも清水宏祐という個人の記憶の中の二十世紀っていうことで、平にご容赦願いたいわけで…。
 てなわけで、それではそろそろまいりましょうか(おおっと、いきなし『はっちゃき・まちゃあき』だ)。

●欠食児童?

 欠食児童という言葉をご存知だろうか。昔、食事が終わって、あまり時間もたっていないのに「おなかすいたー、なんかない」ってな事を言ったりすると、おかあちゃんから、「なに言うてんの、欠食児童みたいに…」などといわれたもので、ようするに「ろくに御飯も食べさせてもらってない子」というほどの意味なんでしょう。
 昭和三十年代といえば、高度成長時代はすでに始まっていたとはいえ、まだまだ食糧事情は良くない状態が続いていたのだろうか。それとも、ただうちの親の口癖だったのかな。
給食といえば、 僕の行っていた小学校では、比較的給食の始まるのが遅く、確か小学三、四年生の頃であったようだ。それまではどうしていたのだろう。たぶん弁当を持って行ってたんだろう。確かそのはずである。何かの都合で弁当を持っていけなかった時は、パンの販売があったように思う。
 ひょっとすると、朝のうちに注文しておいて、昼前に受け取るような方式だったかも知れない。
 さて、そうこうするうちに、わが宝塚第一小学校でも学校給食が導入される事になった。今から思えば、母親たちの負担がかなり少なくなる事になって、まあよかったのではないかと思うのだが、当時は、どちらかというと弁当の方がうれしかったような気がする。好きなおかずだけ入れてもらえるからである。遠足や、運動会の時は弁当が食べれた。とてもうれしかったのを覚えている。ただし、それも今から思えば、たまに食べるから嬉しいのであって、毎日弁当だったらすぐに飽きてしまったかも知れない。
 当時、わが校の給食設備はベルマークで建てられたというもっぱらのうわさであった。果たしてそんなことが出来たのだろうか。出来るような気もするし、無理なような気もする。謎である。
 友人同士で給食の話題になった時に必ず出て来るネタのひとつにミルメークなるものがある。小さい袋入りの粉末、またはチューブ入りの液体で、牛乳に入れて混ぜると、あっという間に「コーヒー牛乳」が出来てしまう。入れる前に牛乳を一口飲んでおくのがコツで、これをしないと牛乳をあふれさせてしまうのだ。だそうなのだ。というのは、僕は実はミルメークなるものの記憶がないのだ。どうやら、うちの学校では、かなり遅くまで脱脂粉乳が使用されていたらしく、六年になっても脱脂粉乳だったような気がするぞ。そうだ、小学校時代はずっと脱脂粉乳で、僕らが卒業した次の年から牛乳になったのだった。おかげで、僕の六歳違いの妹は、一度も脱脂粉乳を飲んどらんのだ。幸せなやつ。
 中学に入ってからは、最初からビン入りの牛乳だったが、さすがに中学にもなってミルメークはないだろうと学校が思ったのか、ついにめぐり合えなかった。
 うー、脱脂粉乳、思い出したくもない、という人も多いのではないかと思うが、僕はそんなに嫌いではなかった。少なくとも、先生の目を盗んで手洗い場の流しに捨てたりはせんかったぞ。確かに涙が出るほど美味しいものでもなかったけれども、口に入れるのも嫌なほど不味いものでもなかったような気がする。でも、今、飲めと言われたら、謹んで遠慮させて頂くだろうな、きっと。
 ちなみに、ミルメークに関しては、最近、近所のスーパーマーケットに置いてあるのを発見した。是非一度挑戦してみたいものである。
 あと、僕が学校給食と言われてすぐに思い出すものといえば、銀紙に包まれたマーガリンやビニールパックされたジャムなどのたぐいである。特にマーガリンは曲者で、夏場は溶けてグニャグニャになり、ちょっとでも強く持とうものなら、横からグニューっと出てきてしまうし、冬は冬でカチンカチンになっており、少々の事ではパンの上に広がってくれないし、かといって力を入れすぎると食パンなどは、パンにマーガリンを塗っているのか、マーガリンにパン屑をまぶしているのかわからなくなったのであった。
 そう言えば、この包装紙やビニールのパックには、一言知識みたいのが書いてあったが、あまりにもどうでもいい事ばかりで何も覚えてないぞ。確か、『いちばん速く走るけものは、チータ』とか、『だちょうは、世界一大きなたまごをうむとり』とか、そんなことが書いてあったんではないかしらん。
 給食の献立で忘れてならないのは、鯨である。鯨カツ、うまかったなー。現在、捕鯨禁止に反対している人の原点は、ひょっとするとこの辺にあるのかもしれない。
 逆にまずかったといえば、カレーシチューにとどめをさす。何となくカレーの味のするスープに野菜のごった煮が入ってるだけ。なにを考えてあんなメニューを作ったんだろう。子供はカレーが好きだから、何でもカレーの味をつけときゃいいや、っていうような感じがして、子供心に悲しかった(でも、ちゃんと食べたけど。当時の僕は、躾が良くって出された料理を残すなんてとんでもない、と思っていたからなんだけどね)。
 カレー味と言えば、もうひとつ。もやしのカレー煮のようなものが主食の皿の上(つまりパンの横だぜ)に乗っている事があったがありゃ何だったんだ。残り物のもやしを、残り物のカレー粉で煮て、味をごまかしたのかとも思える位のひどい味だったぞ。
 さて、給食でもう一つ。先割れスプーンって使いましたか。僕らは、小学校、中学校とも食器といえばアルマイトの皿とお椀、それにスプーン一本で全ての料理を食わされてたもんで、先割れスプーンは、それなりに意義があったように思うのだが…。ただし、この先割れスプーンも最初からあったわけではなく、途中から採用されたので、実際には普通のスプーンと先割れスプーンが混在していた。クラスメイトで先割れスプーン争奪戦が毎日のように繰り広げられていたから、そっちの方が人気はあったのだろう。もちろん、何となくカッコイイというだけの理由だったのかも知れないが…。そうだ、今、思い出したぞ、先割れスプーンはクラスのみんなからは『しゃもり(しゃもじの先が銛になってるから)』と呼ばれてたっけ。

●文房具はメカ?

 文房具の中のスターといえば、筆箱と下敷きであろうか。特に筆箱といえば、僕たちが小学生のころが丁度システム筆入れとでも言うのだろうか、両側からふたが開いたり、消しゴムを入れる部分が別に開いたり、ふたを開けると鉛筆がななめに立ちあがってきたり、しまいにはあっちからも、こっちからも開けられるのは良いけれど、どこに何を入れたのか忘れそうなやつまで出てきてましたな。
 まあ、僕は六年間を通じてセルロイドの筆箱だったんだけど、これはこれでよく割れたなあ。こういうメカメカしい筆箱が欲しくなかったかと言われると、もちろん欲しかったんだけどね。で、セルロイドの筆箱が壊れるたびに母親に直訴するんだけど「そんなん買うたって、じき壊すにきまってるやん」という、にべもない返事であった。でも、買ってもらってたら、きっとすぐに壊してしまっただろうな。なんせ、分解魔だったからな、昔から。ぜんまい仕掛けでも電池でも、動くおもちゃは、とりあえず壊してたらしいからな。もっと小さい頃から…。
 そうこうするうちに、サンスターから『象が踏んでも壊れない』の筆箱が出たんだっけな。でも、この筆箱を買ってもらって持ってきたやつは、必ず実験台にされて、みんなに踏みつけられて結局壊れてたような…。大事に使えば、ちゃんと使えるんだろうにね。
 もう一つの雄、下敷きも何かというとよく割れたな。これもよくあるセルロイドのものを使ってたんだけど、夏場になって、うちわの代わりにこれでペコペコあおいじゃ割ってたような気がするな。
 なかには、カードケースの大きいやつに漫画雑誌から切り抜いたキャラクターやアイドルの写真を入れて来るやつがいて、これもうらやましかったな。
 でも、今から考えると、下敷きっていったいなんのためにあったんだろう。少なくとも中学卒業以降は使った事がないのではなかろうか。勿論、テーブルの上でカッターで紙を切るような時はそれなりのものを用意しますが、あれって、ここで言う下敷きとはちょっと違うでしょ。あ、そうか。子どもは筆圧が高いから、裏まで抜けたり紙が破けたりするのをふせぐためかな、ひょっとして。
消ゴム 筆箱と下敷きとくれば、次は当然鉛筆であるが、もちろん最初のうちは『かきかたえんぴつ』ってやつだった。2BかBで軸の丸いやつね。で、書いた上を指でこすってしまったりすると、周りの紙まで真っ黒になってしまうやつだ。入学の前に、手回し式の鉛筆削り器を買ってもらった筈だ。中学入学時には、電動のやつだった。
 三菱鉛筆の『ユニ』っていう高級鉛筆が出たのはいつ頃だっただろう。たぶん五年か六年の頃ではなかっただろうか。普通の鉛筆が一本十円、安いやつだと一本五円の時代に、一本五十円は、すごい値段だった。確かに書き味も最高で、すらすらとどんな紙にも引っかかることなく書けたのだった。それからすぐに、トンボ鉛筆から『モノ』というのが出たが、子供心にも二番煎じが見え見えで、僕の周りではあまり売れてなかったようだ。ネーミングまでいっしょってのは、ないだろう(どちらも、ひとつの、単一のという意味だったよな、確か)。
 後になって、『ハイユニ』という名前のなんと一本百円という超高級鉛筆も発売された。これは、高専に入ってから、製図をする時は必ず使っていたほどのお気に入りになった。
 小学校の修学旅行は伊勢志摩であった。持って行ける小遣いは決まっていたので、お土産の赤福餅は、予約販売であった。前もって、学校を通じて、購入する商品とお金を預けておくと、帰りの列車の駅で現物をわたしてくれる。便利なシステムであったが、今から考えると学校側はある程度リベートをもらっていたのかも知れない。
 当時は、何に限らず学校を通じて、あるいは学校で取りまとめて、という形式が多かったように思う。
 そう言えば、僕らの頃は学研の科学と学習は学校に売りに来ていた。これも最初のうちは、クラスごとに取りまとめていたように思うが、すぐに昇降口のところで現金販売になり、妹が小学校を卒業した後くらいから、各家庭に直接届けられるように代わっていったようだ。
 なんでそうなったかと言うと、科学・学習を買っている子と、買っていない子のあいだで差別が起こるからとか、いじめの元になるかもしれないとか。最近は、運動会の競走などでも、一等賞とか二等賞とかいうのはないんだそうで、まあ、僕等の頃も、別に賞品に格差があったわけでもないけれど、それでも順位分けくらいはあったぞ。でなけりゃ、この日にしか出番のない体育ばかどもは、いったいいつ目立てばいいというのだろう。
 教室の中で、一生懸命順位付けの教育をしておいて、そりゃ無いでしょう、教育委員会さん。そういう画一教育ばっかりしてると、体育しか得意教科のなかったやつが、がんばってオリンピック選手になるとか、科学・学習を買ってもらえなかったやつが、一念発起して一流会社の創始者になるとかいう話もなくなっちゃうぞ。まったく、馬鹿じゃないのか。
 閑話休題。修学旅行の話であった。実は僕、修学旅行では、まったくなにも印象に残っていることがないのだ。これが関東の人間なら、はじめて新幹線に乗ったとかなんとか、いろいろとあるのかもしれないが、関西の人間が伊勢にいくのに新幹線は使わないのでありました。うーん、確かに円月島に夫婦岩、御木本真珠島に志摩水族館など、覚えてはいるけど、それがどうしたのって感じ。あまり強烈な印象はない。ただ、ボーっとした子だったっていうだけの事かも知れないが…。

●涙、涙の?

 小学校の卒業式は、例年六年生は当然として、在校生代表は、五年生が出席する事になっていた。これは、講堂が狭かったせいもあるのだろうが、第二次ベビーブームの影響で、生徒数がどんどん増えていたからではなかろうか。
 僕が五年生と六年生の時、講堂が工事中で(生徒数増加に対処するため、校舎新築中で、講堂をいくつかに仕切って教室にしていた)、卒業式は、市の文化ホールを借りて行われた。特に、五年の時、本番前日に予行演習があったのだが、終了後、当時の文化ホールの館長さんが、以前僕らの小学校の校長先生をしていた人だとかで、どこから手を回したのか、その年の四月からTV放映予定の『仮面の忍者・赤影』の第一話(確か、がま法師の話だったよな)を大スクリーンで見る事が出来たのだった。翌日の本番のことは、何も覚えていないが、赤影のことは、はっきりと覚えている。当然であろう。
 そして、それから一年が過ぎ、僕らが卒業する番になった。この年は、赤影のような派手なイベントはなかったものの、卒業式は、やはり文化ホールで行われた。
 式は順調に進み、PTA会長の挨拶が始まった。
 「卒業おめでとう。(中略)最近私は、毎日『ひょっこりひょうたん島』を楽しみに見ています。一緒に主題歌を歌いましょう」
 いや、まあ、その、歌いましたけどね、当時の小学生で見てないやつなんてほとんどいなかっただろうしね。確かに、いい歌だとは思いますよ。でも、途中で感極まって泣き出したのは、卒業生の方じゃなくて、PTA会長のおっさんだったんで、他の連中はかえって冷静になってしまって、泣くに泣けない卒業式になってしまったのでありましたとさ。

●中学生になったら

 さて、そうして僕も中学生になったのでありますが、学校生活ではこれといって印象に残っていることがない。あまり楽しい中学生活ではなかったのだろうか。せいぜい一年の最初に入った『アマチュア無線部』の最初の活動日に行きそびれて、幽霊部員に…。二年で新しく赴任してきた新人教師と『理科部』を創ったものの、その中の写真班以外は開店休業状態。そして、三年になると同時に、理科部を『写真部』と改称。つまり、中学三年間で毎年通知票に書かれているクラブが違っているという事くらいか。
 実は、中学校時代の学校生活の事をあまり覚えていないのは、他に理由がある。僕が中三のとき、大阪で史上最大、空前絶後、はっちゃはゃはちゃ、かんじょれびっちょれ(当時、筒井康隆氏にはまっていたのだ)のイベントが開かれていたのだ。言わずと知れた『日本万国博覧会・EXPO70’』である。

●万博は爆発だ!

 僕にとって、万博といえば一九七〇年の『エキスポ70’』のことである。万博の前に万博なく、万博の後に万博なし、なのである。確かに日本では、大阪万博の後、『沖縄海洋博』『花と緑の博覧会』などの国際博が開かれているが、その規模といい、国民あげての大騒ぎぶり(でも、実際のところ、大阪から離れれば離れるほど、そんなに騒ぎはしなかったのかもしれない。地元なのでそう思っているだけかも)といい、前代未聞の大イベントだったのである。
 家が会場から、阪急電車で約一時間という距離にあったせいか、万博には行ったというより、かよったという方が近いかもしれない。万博には全部で十三回行った。と思って調べてみたら、普通入場券六枚(小人四百円、前売券二枚を含む)、夜間割引入場券二枚(小人二百円)、回数入場券(五枚つづり、小人千九百円)の他に、特別入場券(非売品)というのが一枚出てきた。何だ、これは。新聞屋にでも貰ったのかしらん。っていう事は、十四回も行ってたのか、僕は。と同時に、阪急電車万国博西口からのチケットの半券が九枚も出てきた。たぶん、帰りの混雑を見越して往復切符を買ったのだろう。
 さて、開会も近いある日、僕はガイドブックを買った。本屋に並んでいる中で一番ぶ厚くて、しかも別冊大判カラー会場パノラママップつきの、使い易そうなやつである。表紙には金箔押しで『万国博オールガイド』と書いてあった。翌日、僕は学校にこれを持っていって友人達に自慢した。みんな、口々に「すっげえー」とか「俺も、こんな本、ほしいなー」とか、いってくれた。気分が良かった。二、三日して、別の友達がガイドブックを持ってきた。そいつは、得意そうに、僕にもその本を見せてくれた。その本には『日本万国博覧会・公式ガイド』と書いてあった。一瞬目の前が真っ暗になった。公式ガイドだって、そんなものがあったなんて知らなかったぁーーー。単なる僕の調査不足だったのだが、ショックは大きかった。今から考えれば、こちらの方が立派だし、使い易いのも事実だったんだけどね。それから後は、みんなこぞって『公式ガイド』を買ったので、『オールガイド』の方は、クラスでも僕一人だった。後で、たまたま僕が買いに行った時、その店では『公式ガイド』が売り切れていただけだったと判った。やはり、ショックは大きい。

●テーマはベラボー?

エキスポ70’ エキスポ70’のテーマはもちろん『人類の進歩と調和』だったんだけど、テーマ館の展示プロデュースをした岡本太郎氏によると、とにかく「べらぼーなもの」を作りたかったのだそうで、先に決まっていたお祭り広場の大屋根を後から設計された太陽の塔が突き破るとなった時に、大屋根の設計者である丹下健三氏は「何も、突き破らなくても」と言ったとか。
 さて、その『太陽の塔』には、三つの顔があったのをご存知だろうか。
 「そんなもん、見たら判るわい。まず一番てっぺんのキンキラキンの顔やろ。それからド真ん中にある、でっかい白いやつな。ほんで裏っかわにある黒いのんやろ」
 実は、違うのである。私の記憶が確かならば、三つの顔には名前が付いていて、それぞれ『未来の顔』『現在の顔』『過去の顔』というのである。頂上の金色の顔が未来の顔、正面の顔が現在、そして過去の顔は、地下の現在は閉鎖されている区画に今もあるはずである。当時、確かにそういう風にマスコミで紹介されていたはずなんである。少なくとも今までそう信じてきたのである。
 ところが、当時のテーマ館のパンフレットを発掘(これがまた、大変だったんだ。なにしろ三十年前の資料を阪神大震災で埋もれた本の山の下から掘り出したんだから。ポンペイの発掘よりも大変だったんじゃないかしらん)してみると、現在・過去・未来という表現は、どこにも出ていない。パンフレットによると…。
 『(前略)正面に両手をひろげて大屋根を支えているような〈太陽の塔〉。高さ m、この巨人は4つの顔を持つ。頂きには〈黄金の顔〉が大屋根を貫いて天空にのび、輝いている。そしてはるか彼方のエキスポタワーとにらめっこしている。塔の中心には直径 mの〈太陽の顔〉。そしてお祭り広場に面して〈黒い太陽〉が緑の炎をゆらめかせて燃える。さらに地下のスペースには〈地底の太陽〉が、過去の世界に光を放射している。(後略)』
 となっているのである。そうだったのか、ぜんぜん知らんかったぞ。
 ちなみにこのテーマ館、地下部分の展示サブプロデューサーは、小松左京氏、太陽の塔内部の『生命の木』のデザインは、成田亨氏であったという事も、いま始めて知った。なんてことだ、太陽の塔ひとつでこんなに知らない事がいっぱい出てきてしまったぞ。

●アポロがいっぱい?

 万博といえばアメリカ館。アメリカ館といえば『月の石』であった。アメリカ館は連日三時間、四時間待ちの行列であった。僕は、全館を回ろうという大きな野望があったので、そのために「今日は、アメリカ館と、ソ連館だけは行くぞー」っていう感じで、行くわけだ。でも、朝一番に入場しても、電車の最寄り駅は、西口。結構走ったつもりでも、中央口からダッシュでくる人々には勝てず、一時間くらいは並んだような気がする。
 もちろん後から後から行列は長くなってゆく。館内に入った時には、既に身動きとれず。人の流れに身をまかせ、ってやつですな。で、結局、月の石は、大仰なガラスケースの中のクランプにはさまった、鶏の卵よりは少し大きいかなっていう程度のただの灰色の石ころ。もちろん、石そのものの値打ちもあるだろうが(組成分析で太陽系の成り立ちを調べるとか、火星の隕石から生命の痕跡を見つけるとか。あ、これは違うか)、その石を取って来るまでの過程に価値があるのだということを分かっていたとしても、あまりにもみすぼらしいただの石だったのでありました。 『オールガイド』のコラムに『月の石の値段はいくら?』というのがあって、それによると「もしアポロ計画の費用を9兆円として原価計算をすれば1gあたり4〜5億円というとほうもない値段」とある。ばかな計算をしたものだが、それを知ってれば、もう少しありがたみが違ったかも…。
 ところで、アメリカ館以外に『月の石』があったといううわさがあって、僕も覚えていなかったのだが、資料を調べていて、見つけました。さて、どこにあったでしょう。
 答えは、『日本館』と『ワシントン州館』だったそうです。日本館の月の石についての詳細はパンフレットにも載っていないので不明ですが、たぶん四号館(日本の科学技術)のコーナーのどこかにひっそりと展示してあったのではないでしょうか。ワシントン州館では、プレートに「月の石片」と書いてあり、こさじ一杯分くらいの粉末だったそうだ。
 さて、月の石フィーバーのさなかとあって、あやかり商法というのも出てくるらしく、カナダはケベック州館では、着陸船の足が一本だけ展示されており、説明書きには「月に一番乗りしたケベック/着陸船の脚はケベック製です」と書いてあったそうだが…。
 さて、もうひとつ。ギリシア館でも、アポロ 号の月面着陸の写真が展示されていたというが…。そのこころは「アポロはギリシア神話の英雄です」だって、おいおい。

●未来がいっぱい?

 アメリカ館と人気を二分していたのが、ソ連館。アメリカと対照的に立体的な展示方法は、好感が持てた。館内が広く、アメリカ館よりかなりゆったりとしていたような気がする。こちらの展示の目玉は、ソユーズ、ボストークなどのやはり宇宙船。当時の僕は、まともに科学知識など持たないガキであったので、やたら丸っこくてでかいソユーズよりも、先の丸い三角錐でコンパクトなアポロの方がかっこいいなどと思っていたのだ。
 実力ではアメリカを上回っていただけに、月の石の展示が出来なかったのは、やっぱりくやしかっただろうか。
 さて、それ以外のパビリオンの様子を逐一並べていったりしたら、本が一冊(それこそガイド本になってしまうぞ)出来てしまうので、思いつくままにはしょってしまおう。
 まずデザインが印象に残るのは、UFOを巨大なクレーンからおろされた多数のワイヤーでぶらさげたような『オーストラリア館』、巨大円盤の壁面がスクリーンになっていて、オーストラリアの自然や文化がマルチスクリーンに映し出される。
 マルチスクリーンといえば、今回の万博は映像万博の異名を取るほどに最新技術を駆使した映像の氾濫でもあった。回りながら上下する巨大ターンテーブルにお客を乗せて、全周映画でおどかした三井グループパビリオン。
 東芝IHI館は、全天スクリーンに映像を映し出して見せたし、直径四メートルのチューブを二十本並べて両端をぐるりと円周に留め、空気をいれてふくらませて立たせてある富士グループパピリオンは、両側の巨大スクリーンに映し出される二一〇 ミリフィルム映像と、壁の内側にぎっしりと映されるスライド写真。音楽は、サイケ。これを称して『マンダラ』というそうです。
 あと、映像で僕が気に入ったのが、自動車館の『一日二四〇時間』という映画。四面マルチの地味なスクリーン(万博じゃ、これでほんとに地味な方なんだ)ながら、他のパビリオンがイメージ先行の映像の垂れ流しなのに比べ、ちゃんとストーリーのある映画を見せてくれた。途中でストーリーがしっちゃかめっちゃかになって、収集がつかなくなった時、画面の博士が映写機に向かって「おーい、止めろ止めろ」かなんか叫ぶと、映写機がウィーンって止まって、フィルムがぼわーっと燃えちゃう(という映像が映る)というような遊びも入って、楽しめた。これも最近になって、阿部公房氏のシナリオだったと知った。
 映像ばかりで食傷気味になった時は、国際共同館の名も知らぬ国の展示がほっとさせてくれた。ザンビア、ガボン、マルタ、キプロス、シエラレオネ。大抵はパネル展示のみか、一部特産品の展示があるくらい。空いているからいついっても入れる。ホステスの(当時はコンパニオンという言葉はまだなかったのか、ガイドもしくはホステスと呼ばれていた)応対も大体において親切丁寧であった。もっとも人が流れるだけで精いっぱいというようなパビリオンでは、それが無理だという事もよく分かっているのだが…。
 それと、ひたすら目立っていたのがスイス館の『光の木』。実に三万二千個の電球(四十ワット球だったそうだが)が夕方になるとまばゆく点灯し、思わず足を止める美しさであった。ただし、光の木ばかりが目立っていて、展示についてはまったく記憶にございません。
 異様だったのは、せんい館。布地のドレープをあらわしたカーブの屋根に突き出した真っ赤なドーム。建築中の足場がそのまま残してあって、これも真っ赤。働いている作業員(のオブジェ)も真っ赤。真っ黒なカラス(のオブジェ)が数羽とまっている。館内に入るとフロックコートに山高帽をかぶって突っ立っている紳士(のオブジェ)が数名。巨大なまくらやモップ(のオブジェ)。映像ドームでは、スペースプロジェクションという多面映写方式の…(もうええわい)。
 ともかく、わけのわからんげーじつ作品をオブジェと呼ぶのだという事も万博でおぼえた。プロデュースは横尾忠則氏だったそうだ。なるほど。
 フジパン・ロボット館はその名に反して、子供だましであった。
 松下館のタイム・カプセル(二号機)は、先日点検のために開封された後、埋め戻された。一号機が開くまであと四九七〇年。
 その名も、三菱未来館というのもあった。
 日立グループ館は、UFO型宇宙船。搭乗ゲートからのびた四〇mのエスカレーターがかっこいい。フライト・シミュレーターを操縦出来るのは、八人中前列の二人だけだった。
 七重の塔がすばらしい古河パビリオンは、地下部分に音声認識の巨大クレーンゲームがあった。まず練習で機械の声の通りに声を出してコンピューターに覚えさせてから、本番となるのだが、練習の時は(機械の声が)標準語。なので、大阪人は本番の時に大阪弁の発音になってしまい、何度やってもクレーンは動いてくれないのであった。
 ガスパビリオンは、豚の蚊取り線香。中では、クレイジーキャッツの(でもなにをやってるのかよく判らない)喜劇が、床面と左右の壁面のスクリーン(だから、もういいって)に映し出される。次の部屋には、ホアン・ミロ氏による五m×十五mもある壁画。タイトルが『無垢の笑い』であった。
 子どもに人気があったのは、住友童話館。
 巨大風船のギョロ目が下をにらんでいるのは、リコー館。
 フランス館では、香水の噴水。ハンカチを持った女の子が行列を作ってました。

万博へ、いらっしゃい!

 ともかく、万博には考えうる限りの明るい未来が詰まっていたのだった。押し寄せる公害も、環境問題も、取りあえず目をつぶって、高度経済成長がいつまでも続くと信じて。 そしてそれでも、ぼくの万博には、すばらしい技術と、科学と、そして輝く未来がそこには確かにあったのだ。




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