帝国海軍の巡洋艦建造

林[艦政本部開発部長]譲治

 装甲巡洋艦や防護巡洋艦などの経験を経て、日本も第一次世界大戦後には終戦までに近代的な巡洋艦を40隻以上建造することができた(何をもって近代的というかは人によって異なるだろうが)。
 下の表がその一覧である(練習艦は除いてある)。1917年起工の天龍型から数えて重巡18隻、軽巡22隻が建造されたことがわかる。太平洋戦争開戦時に帝国海軍が保有していた重巡は18隻。ワシントン条約の枠12隻の他に、軽巡として建造しながらじつは20センチ砲を搭載できるように建造されていた最上型などがこれらに含まれる。この数字はアメリカの保有していた重巡と同数である。
 この表をみると色々と面白い事がわかる。例えば日本が重巡を建造していた期間に軽巡は建造されていないことや、戦争中に建造されたのが軽巡5隻に過ぎないことなど。
 ところで巡洋艦の建造で一つ面白い事実に気がつかないだろうか?
 まず重巡に関して。日本の重巡は駆逐艦や軽巡とは異なり横須賀工廠、呉工廠、神戸の川崎造船所、長崎の三菱造船所の四ヶ所でしか建造されていない。これは重巡と言う高度な機械を建造する技術力や周辺の部品メーカーさんの実力などトータルな能力から当然かもしれない。
 ただ不思議な事。例えば神戸の川崎造船所の1925年。この時点で神戸では三隻の重巡が建造されているのだが、それらは衣笠、足柄が進水前、加古が進水後の艤装工事となっている。つまり同型の重巡が建造されているのではなく、異なる型の重巡が同じ時期に同じ場所で建造されているのである。
 この傾向は利根型以外は総ての重巡に共通したものである。従って例えば妙高型重巡などその起工から竣工までの期間は同型艦でほぼ等しくなっている(施設により遅い早いの差はある。横須賀工廠は建造期間が長いような気がする。原因はまだ調べていない)。
 余談ながら妙高型の那智が建造期間が短いのは昭和3年の御大礼特別観艦式にイギリスが1万トンのケント級重巡を派遣することになったので、帝国海軍が対抗処置として工事の進捗が一番進んでいる那智を突貫工事で式に間に合わせたためである。ちなみに那智を観た重巡ケントの士官が「我々はきょうはじめて軍艦を観た。これに比べたら我々のケントなど客船に過ぎない」と述べたのは有名。
 話をもどしてこんどは軽巡を見る。佐世保工廠では阿賀野型軽巡を三隻建造しているが起工から竣工までの期間をみると、阿賀野が853日、矢矧が768日、酒匂では729日となっている。つまり二番艦以降の建造期間は明らかに短くなっているのである。
 それは阿賀野の二番艦以降が建造されたのが戦時中だからという意見もあるかもしれない。しかし、それ以外にも球磨型や長良でもこうした傾向をみることができる。また軽巡ばかりでなく利根型重巡でもこの事は成り立っている。
 海軍さんの仕事をもらっているおかげでやっと経営が成り立つような造船所はじっさいあったらしいし、海軍も有事における造船能力確保のために造船能力をもった会社はできるだけ援助するようにしていたと言われる。
 しかし、純粋に数を揃えるためのマスプロ化を考えるなら『同一施設で同一型を建造した方が効率が良い』のではなかろうか?
 もしも日本が同じ施設では同じ型の巡洋艦を建造するという方針をとっていたとするならば、表のデーターから言えば少なくとも25%は工期を早めることが可能なはずである。つまり帝国海軍がこのあたりのマネンジメントを考えていたならば同じ施設・同じマンパワーで40隻の巡洋艦ではなく50隻の巡洋艦を保有する事が(理屈の上では)可能だったはずである。
 もう一つ、日本の重巡の起工時期を見ると青葉型と妙高型あるいは妙高型と高雄型のように一、二年の間に型が新しくなっていることが多すぎないだろうか?
 話は飛ぶがアメリカにガトー級という潜水艦がある。太平洋戦争で日本の通商路を完膚無きまでに破壊してくれた代表的潜水艦がこれ。
 太平洋の状況が不穏なものになるにしたがい、短期間に大量の潜水艦を建造しなければならなかったアメリカはガトー級建造にあたってその設計を凍結してしまった。改良だろうとなんだろうと建造時の設計変更をまったく認めなかったのである。
一番艦が40年9月起工で41年11月竣工であるから量産型は一年以内で完成したものと思われる。だが話はこれだけでは終らない。
 アメリカの潜水艦は7週間のパトロールのあと2週間の整備、このローテーションを5〜6回繰り返すとドックで本格的なオーバーホールを受けることになっていた。期間はだいたい100日。そしてアメリカの恐ろしいのは建造時にはまったく設計変更を認めなかったにもかかわらず、オーバーホールの時には戦訓を取り入れた改造をどんどん行ったのである。艦橋は小さくなる、レーダーは装備される、大砲は76ミリから125ミリになる・・・などなど。
 もしも帝国海軍にこうしたマスプロ化を踏まえた合理的思考の持主がいたら。例えば先を見越した仕様で同型の巡洋艦を量産し、戦況に応じて改修できるシステムを確立していたならば(それだけの技術はあったであろう)海軍が保有していた巡洋艦は同じ施設・同じマンパワーで40隻どころか倍近い数を保有することも必ずしも不可能では無かったはず。なにも山本五十六をゾンビのように蘇らせる必要は無いのである。
 こうして考えてみると戦闘艦艇の保有を考えるとき、マネージメントが実はたいへん重要な要素であることがわかる。日本の敗戦はつきつめるとマネージメント能力の差であると言えるかも知れないのであります。

PS   なんで巡洋艦がでてきたかと言うと本当は駆逐艦のデーターをまとめるためにフォーマットのテストで作ったの。駆逐艦よりデーター数が少ないから。
はたして島風の思想は松型か?



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