この文章は、徳間書店刊『「相対論」はやはり間違っていた』ISBN4-19-860061-9(著者は8人いますので、個別に書きます)の間違いを指摘することを目的に書かれている。
長いタイトルなので、以下『相や間』と略させて戴く。
この本は『アインシュタインの相対性理論は間違っていた』(以下、『ア相論』)という超科学本の続編だ。
こんどの『相や間』は前回の『ア相論』の著者を含む8人による、8篇の論文の論文集になっている。出版社は前作と同じ、徳間書店である。
なんせ8つの論文の集合なので、以下の章で一個ずつコメントしていこう。
森野氏は「常識から相対論を考える会」というのを設立して会報を発行している、と著者紹介にはある。この文章もその会報からの転載である。
前半部はこの会の設立趣意書が転載されている。その主旨は「私たちは物理学者に、解説書を理解できるように書いて欲しいと要求してもよいのではないでしょうか」という、実にもっともな事だ。相対論がわかりにくいという事を述べ、分析しているだけで、だから間違っている、などとは言っていない。
ところが、その後半部になると突然、相対論は間違いだ、と言い始めるのである。森野氏は、いわゆるウラシマ効果、「時計のおくれ」をとりあげて、こう言う。
『二一世紀の人々は、なぜ二〇世紀の人々がおくれて狂った時計を正常な時計として認めたのか不思議に思うであろう。おくれて狂った時計は、時間がおくれたから指針がおくれたのではなくて、時計が狂って指針の回転速度がおくれたものに過ぎないからである。』
というような調子。
批判するのはいいけれど、なぜウラシマ効果(森野氏はこの言葉を使っていないが)が、単なる時計の(機械的?)狂いだと考えられるのか、と言う点を全く(少なくともこの文章の中では)明らかにしていないのはどういう訳だ???
時計がおくれるのは常識に反するから、とにかく間違いで、二一世紀になったらわかるだろう、の一点張りでは、にせもん予言者の典型的パターンと変わらんではないか。*1
さらに森野氏は内山龍雄氏の『相対性理論』という本(私も持っています)の序文の終わりに、『本書は力学(変分原理を含む)と電磁気学の基礎知識さえあれば、必ず理解できる。もし本書を読んでも、これが理解できないようなら、もはや相対性理論を学ぶことをあきらめるべきであろう』と書いてある事をあげ、『この記述は、物理学生の一部はこの本を読んでも理解することが出来ないとし、したがって相対論を理解できないと、はじめから決めてかかっている』と言う。
ちょっと待ってちょうだいな。
内山氏は「これを読めば絶対理解できる」と言いたいのであって、「できない奴はあきらめろ」というのは修辞であろうに。これをもって、相対論は理解できないものとされている、と考えるのはあんまりではないか。森野氏は『もし、このような異例の記述が他の本の序文に書かれたならば、その本の著者の精神状態が危ぶまれ、人格が疑われるのではないか』とまで書いているが、この程度のあおり文句は、受験参考書などではおなじみなんだが…。
どうも、森野氏は相対論は理解できなくて当たり前、と思っているようだ。こんな事も書いている。『この研究会で、私はまだ相対性理論を理解している人に会ったことがない。(中略)この研究会ばかりでなく、私はまだ相対性理論をよく理解したとまじめに言った人に会ったことはないし、またいろいろな本や雑誌で理解したという人の記述を見た事がないのである。』とまで書いているのである。*2
まじめに言おう。私は相対論を理解している。そして、相対論を理解している人にもたくさん会った。理解していると書いている本や雑誌も見たことがある!
さらに言えば、高校生程度の数学と理科の素養があって、何より学ぶ気のある人になら、特殊相対論の初歩の部分ならちゃんと理解できるよう説明する自信もある。*3
おめーさんの研究会におらんからというて、世間に相対論を理解している人がおらんと、思い込んでええんか、ええ、おっさん。
しかし、森野氏にとっては、内山氏のような発言は、相対論に関する質問をタブーにしようとしているからだ、という事になるらしく、これでは常識人は疑問を持っても質問することはできないではないか、と言うのだ。
ひねくれた事言わんと、質問したかったら質問したらええやんけ。
さっき、“学ぶ気のある人になら”と付帯条件をつけたが、「質問することはタブーなんだろう」と思っている人はやはり、“学ぶ気のある人”とは言いがたい。
この後、さらに爆笑な事を森野氏は書いている。
『二〇世紀もあと残すところ十余年、私は二〇世紀の常識人の中に「おくれて狂った時計」の正体を見破った者がおり、そのような非常識を断固拒否したことの証拠を記述しているつもりである。』
森野氏の“悲壮”な想いはとどまるところを知らない。相対論やその帰結である「時計のおくれ」が信じられているのは二〇世紀最大の喜劇であり、『この喜劇の滑稽さ、ばかばかしさが並外れて大きいものであるために、その他の面白おかしい話はすっかり影がうすくなって、人々に見向きもされなくなるであろう』とまで言っている。
こんなところで二一世紀のお笑い芸人の心配してどーすんだ。
まぁこれは(笑えない)冗談でしょうけど。
この人は『ア相論』の著者である。そのため、最初に前著に対する反応が書かれている。
結果は−なんと!賛成7割、反対3割。しかも反対のほとんどが「天才アインシュタインが間違っているはずがない」という手合いだった、ということだ。う〜む。これがほんとだったら憂うべきことである。*4
例によって、「物理学会の非情なまでの保守的な派閥争いによって、有益な論文も潰し合いが行われているという事実」がある、なんて話が出てくるが…ほんとに有益な論文ならきれいさっぱり消え去る事なんてないと思うぞ。
さて、作者の意見は前の本と同様で、相変わらず、光速は見る人の立場によって変化するのは当然だ、という説をとっている。
いろいろ、面白いロジックを使って話をしている部分がありますので紹介しよう。
◆「光を見る」
アインシュタインの思考実験の一つに、『光と一緒に光の速度で運動したら、光が止まって見えるか』という問いがある。これにたいし、窪田氏はこう批判する。『光はいかなる意味でも見えません。私たち人間は光が見えるようにできていません。上の命題を次のように言い直せば少しは考察できるレベルになります。
たとえば、いまここに鋭い指向性を持つレーザー光線発射装置があるとします。1ナノセコンドだけ電流を流して光に向けてレーザー光を発生させたとすると、約三〇センチの長さの光束が光速で飛んでいきます。このレーザー光が地上から見えますか? スペースシャトルの窓から見えますか? まして、光速で月に向かっているロケットの中から、この光束が見えますか? いずれの場合も絶対に見えません。』
それは確かに、人間の目は飛んでいる光を横から見ることはできんが…思考実験というのはそんなものではないでしょうが。
アインシュタインの疑問をアインシュタイン自身の意図した形で言い替えるならば、
『電場や磁場の測定機を持って、光速で走りながら光を構成している電磁場を測定すると、それは動いていないように見えるのか?』
となる。アインシュタインは「波の形をして、静止した静電場と静磁場があるとは考えがたい」と思って、相対論を作ったのである。
確かに、電磁気の本なんかに書いてある電磁波の絵の形の電場と磁場が止まっていたら気持ち悪い。マックスウェル方程式満たさないし。
◆「同時刻、同時点の相対性?」
同時の相対性(ある人から見ると同時に見える現象が、その人とは相対的に運動している人から見ると、同時ではなくなる)というのは、相対論の重要な結果であるが、これはあくまで、「違う場所の同時刻」が別の立場から見ると、「違う場所の違う時刻」になる、という現象である。
窪田氏はこれを「同じ場所の同じ時刻」が「同じ場所の違う時刻」になる、という現象だと誤解した上で、非難しています。なんぼ相対論でも、「同じ場所の同じ時刻」が「同じ場所の違う時刻」に変わるはずがない。*5
実は、これと同じ間違いをNHKの「アインシュタイン・ロマン」でやっていた。恐ろしい事である。
◆「光行差では絶対空間はわかるか?」
SFファンには星虹(スターボー)の原理として有名な光行差であるが、窪田氏はこれがあるということは光の速度が運動状態によって変わって見える事の証拠だ、と言っている。しかし、光行差の実験で測定しているのは角度だけだから、「光のやってくる角度が運動状態によって変わる」ことを示しているだけである。そして、実験で測られた角度は相対論の予言と矛盾しない。
◆「太陽の近くで光は曲がるか?」
一般相対論の証拠として、太陽の近くを通る光が曲げられる、という観測事実があるが、窪田氏はこれが重力のせいでなく、太陽の付近にある粒子などによる屈折のせいだ、と言っている。
だから、おまえ、計算したのかよー。太陽の付近にどんなふうな粒子があるのか、そういう事調べてから言ってよー。
ところで面白いのは、ここで窪田氏が『私は空間は「無」で、何もないものだと思っています。曲がったりする「何か」ですと、それは何?ということになるからです』と言っていることである。なぜ面白いかというと、これはコンノケンイチ氏の理論とまっこうから対立するのである。しかもコンノ氏は窪田氏を最近の著書『ビックバン理論は間違っていた』で持ち上げている…。
◆「加速しても光速にならない?」
電子をいくら加速しても光速よりは速くはならない。ちなみに、電子がニュートン力学に従うとした場合、電子を光速まで加速するのに必要な電圧はたったの(“たったの”と言っていいんか?)25万ボルトほどである。もちろん、実際にはこれで光速になったりはしない。
この事実に対し、窪田氏はこう反論する。
『加速するのは電磁場によります。電磁場の伝播速度は地球上ではほぼ上限は光速です。そういうもので加速するのですから光速以上にならないのは当然なのです。』
電子を加速するための電磁場は、電子と一緒に走らんとあかんのか?
当然、そんな事はない。もっとも単純なメカニズムとしては、電子の通り道に沿って、静電場をかけておけばよい。何も電子が動き出してから「それっ」とばかりに電磁場を動かし回す必要なんてないのである。
他にもこの人の言ってる事に関して、言いたいことは山ほど(本一冊書けるな。向こうも本一冊分言ってるんだから当然か)ありますが、ここではこの程度にしておこう。
3、4年前に、右回転のコマの重さが軽くなる、という論文が出て、世間を騒がせた。いくつか行われた追試は、残念ながら否定的結果に終わった。*6
まず最初に、早坂氏による真空に対する考え方が述べられている。早坂氏は真空を「無」とは考えていない。場の量子論などでは真空は『ダークマターか背景輻射か何か分からないが、いわゆる真空のエネルギー』で充満している、と言っているのであるが…。
多少表現がおかしい(こんなところでなぜダークマターが出てくるのであろうか)のは割り引いて考えたとしても、その真空のエネルギーとやらをすぐにエーテルに結び付けて考えているのは、ちょっと困る。*7
真空にエネルギーが充満している事と、絶対静止空間がある事は全く別の命題だと思うのだが。
早坂氏は『素粒子論への特殊相対論の応用には二つの難点がある。一つは素粒子の崩壊実験は、エーテルの存在によってその影響を受けるかもしれないことである。(中略)もう一つは(私は素粒子物理学者ではないので素粒子の寿命をどうやって測ったか詳しいことは知らないが)、素粒子世界は物凄い衝突、分裂、崩壊の世界であるから、等速直線運動の慣性系の変換則であるローレンツ変換ないし、特殊相対論を持ち出すのは間違っていると思われることである。』と述べている。
先の窪田氏も似たような事を言っていて、よくあるパターンの間違いなのだが、素粒子なり何なりが加速していたとしても、その物体に乗っている人(素粒子には人は乗れない、というつっこみはなし)が測った時間をローレンツ変換の式からしても、別に悪いことは何もない。もちろん、速度が変わっているのであるから、瞬間瞬間で別のローレンツ変換をする事になるのだが。
この後、これまた「またか」の論旨が出てきます。アスペの実験(早坂氏はアスペクトの実験と読み間違えている。こんなところまでコンノケンイチと同じである)を例にあげて、量子論では超光速は当たり前の現象だ、と言っているのである。
アスペの実験はいわゆるEPR相関の実験で、量子力学で言う「波束の収縮」が超光速で起こる事を示したものであるが、この超光速は情報を運ばないので、相対論がそれで破れるわけではない。こーゆー事は、そのアスペの実験に関する本を読めば、たいてい書いてあるんだけどなぁ。
さて、その後、早坂氏自身の重力の実験についての話が出てくる。まず例の実験について、『私は論文にも反重力という言葉は一度も使用したことがない』と言っている。これは確かにそうだ。コマが回って軽くなった(正確に言えばコマが秤に及ぼす力が弱くなった)からと言って、反重力とは限らず、何か別の力が働いているだけの事かもしれないのであるから。
早坂氏は自分の実験の結果は対称場を使う一般相対論では出てこない、と言い、カルタンの非対称場を使えば、出てくるかも、と言っていますが、カルタンの非対称場は名前は非対称だが、パリティは保存される筈だと思うのであるが。もっとも、早坂氏自身も、純粋に理論から導き出すことはできない、と言っている(実験でわかる筈だ、というわけか。しかしその実験が追試で否定されていては…)。
否定的結果に終わった追試実験について何かコメントがあるか、と期待したのですが、それはなかった。今度は落下実験で非対称を測定する、という事が最後に述べてあります。実験する事自体はどんどんやってほしい、と私も思いますが…あっさり相対論は否定される、と言うのは勘弁願いたいところだ。
そういえば、矢追純一氏が右回りに回ってから喧嘩すると勝てる、とか言っていたのは、この実験と関係があるのだろうか。
著者の日高氏は、相対論の数学がおかしい、と文句をつけている。『なぜ物理学者までもが小学生でもわかる数学トリックに騙されてしまうのでしょうか』という具合だ。
その数学トリックは、「関数である物を関数である事を忘れている」という事らしいのである。そして、その“本来関数であるもの”を相対論を打ち砕く物、という意味で「シルバーハンマー」と呼んでいる。(なぜシルバーなんでしょう?アインシュタインを狼男かなんかと間違えている…なんておことはないわな。)
では、日高氏の主張を見ていこう。
まず一つ目は E=MC2 について、『一般に知られているような重要な意味を持っていない』と主張しています。
まずアインシュタインの論文『質量とエネルギーの等価性の初等的証明』という論文に関し、『実験データを一切用いずに、仮想実験だけで E=MC2 を導き出しています。常識的に考えてデータを見ないで関係式を導き出せるはずがありません』と主張しています。
ところが、このアインシュタインの論文(日高氏は1905年の論文と書いていますが)は、1945年の論文なのである。1945年と言えば、もう相対論ができて40年。つまり、相対論に関する実験データなどが揃いに揃った後で「 E=MC2だけど、こんな簡単な証明もあるよ」と補足するために書かれた論文なのである。「実験データもなしに」という批判はまずこの点で的外れだ。
また、理論だけから式を作る事自体は、別に不思議でもなければルール違反でもない。日高氏は「こうだとするとこなる。実際にそうなるかどうかは実験で確かめよう」という論文には存在価値がない、とでも言うのであろうか。
計算についてのコメントの後、日高氏はこんな事を言っている。
「E=MC2 は仮定した物理的意味を記述しただけの理論式にすぎません。量的要素をまったく含んでいないので、単位や数値を入れて使う事はできないのです。(中略)論文のどこにも単位や量を設定している箇所はありません。(中略)この点に気をつけて
E=MC2 の意味を説明すれば、『質量の単位と C2 倍大きいエネルギーの単位 E でエネルギーと質量の等価性を仮定すれば
E=MC2 となる』なんとあたりまえなんでしょうか。」
そら、あたりまえでしょうけれど。
物理の論文で単位が省略されているのは、組み立て単位を使っていると思ってくれ、という意味なのである。
例えば、Mに[kg]、Cに[m/s]を使ったのならエネルギーの単位は[Kg・m2/s2](これはMKS単位なので、ジュールに等しい)になるし、Mに[貫目]、Cに[ヤード/時]を使ったのならエネルギーの単位に[貫目・ヤード2/時2](こんな変な単位はもちろんないが、作ろうと思えば作れる)を使う、というだけのことだ。どの単位を使っても
E=MC2 は成立する。
そもそも、 E=MC2 自体、核分裂の際のエネルギーなどで実証を得ている、という事実をこの人はどう考えているのであろう??
次に日高氏が文句を言っているのが、アインシュタインの「運動している物体の電気力学について」という論文について。
日高氏は、アインシュタインの論文の数式の中で、
が
と変形されているのを見て(両辺をx'で微分して、x'を0と置いただけなのに)、上の式ではτは()のついた“関数”だったのに、下の式では“関数”でなくなっている!と批判しているのだ。
『ここで何が行われたかというと、「関数の括弧と倍数に付ける括弧とを間違って中身を計算してしまった」または「未知関数τを一次関数の求め方で出してしまった」のです。』
ほんとにアインシュタインがこんな事をやったのなら、小学生にも笑われるだろう。しかし、ここでは単に省略しただけで、τが関数であることをアインシュタインが忘れたわけではない。そんなことは普通の人なら明らかだと思う。
日高氏は下の式のτに微分記号がついていることをどう考えているのだろう?アインシュタインは関数でない物を微分するほど数学ができないと思っているのであろうか(思っているかもしれないなぁ)。
さて、この後、例によって「光速度不変の法則」に文句を言い始める。いわく、
「ある特別なカメの歩く速度が誰から見ても一定と仮定します。『カメ速度一定の法則です。ここであなたは世の中の物理法則をこのカメに引きずられるように習性しなければならないと結論するでしょうか
』」
光速度は実験で一定とわかっているが、そんな変なカメは誰も見つけてないぞぉ〜。見方によって速度が変わって見えるカメならいくらでもいるけれど。
相対論の本はたいてい、光速度一定の話から入るので、光速度一定だけが相対論の前提だと思っている人はけっこう多いかもしれないが…実際には、電磁気の基本法則であるマックスウェル方程式が動きながら観測する人にとっては(相対論なしには)成立しない、という事も大きいのである。つまり、電磁気学の諸現象はすべて、相対論の証拠なのだが…。
この後、マイケルソン・モーレーの実験について、「動きながら実験しているのなら、鏡を傾けなくてはいけない筈だ」というよくわからない論拠の後で、式の計算を完全に誤解していますが、長くなってきたのでこの項はここまで。
文句つけると切りがないんだよなぁ…ほんとに。
はっきり言いまして、この論文はまともだ!(びっくりしたなぁ、もう)
内容は、アインシュタインの一般相対論が量子力学とうまく合致しない、という、最近の素粒子物理屋を悩ませている話題についてのレビューになっています。
「時空の量子化と赤方変位の量子化に関係があるのではないか」という予想が勇み足にすぎる、という点を除けば、ちょっとエキセントリックかな(既成の学会の在り方に文句言うところもきっちりあったりする)、程度の文章で、他の人のあからさまに「ちょ〜」なのと全然違います。
というわけで、この文自体にはこれ以上言うことは特にない。
「この文自体には」と注釈を付けたのは、著者紹介のところでぶったまゲーションしてしまったからである。
なんと、最後の処にこう書いてあるのだ。
「現在、ビックバンを越える未来領域を扱った『宇宙フラクタル構造の謎』(仮題)やヴェリコフスキー「衝突する宇宙」の再評価を企図した本の出版を準備中」
ヴェリコフスキー〜〜〜。「衝突する宇宙」と言えば、天下に名だたる「ちょ〜」な本ではないか。内容は、聖書の時代に木星から彗星がなぜか飛びだし、それが地球のそばを通り、金星になった、というもの。金星が地球のそばを通る時には地球の自転が一旦止まるわ、また動き出すわ(聖書の中で地球の自転が止まる話がある)、その時に金星の重力の影響で海は割れるわ(モーゼだな)、金星から食い物は降ってくるわ(聖書の“マナ”)、とエドモンド・ハミルトンもJ.P.ホーガンも真っ青、な本である。
こう聞くと、「おお、まるでSFみたい。面白そうな本だな」と思う人もいるかもしれない。いや、私もそう思ってた。読むまでは。
読んでみると、この本、あまりに論理がむちゃくちゃで、読んでいると腹の立つこと腹の立つこと。ハミルトンやホーガンのような、一種壮快なめちゃくちゃさなら私もこんな事は言わないのだが…。
たとえばこの本、都合の悪い事(歴史の記述と合わない事など)が出てくるとすぐ、「この事実は集団健忘症のため忘れられたのだ」で片付けてしまう。聖書の時代には集団健忘症が流行したのでしょうか。
とにかく、こんな本を再評価してしまおう、というのだから、なまなかな事ではすみますまい。どうなるもんか、楽しみだ。竹内氏自身が「ちょ〜」なのかどうかは、その時まで判断を待つと致しましょう。
同じ著者が『宇宙フラクタル構造の謎』という本を徳間書店から出していますが(例によって、この本自体はまともである。しかし、“ビックバンを越える未来領域”は誇大広告であろう)、これにもヴェリコフスキーを擁護する部分がありまして…うーむ。この後が楽しみだ。
「時間とはある時刻とある時刻の差の大きさであり、時刻は座標系の取り方で変化するものではない。ある時刻t1というのは、地球上であろうと、月世界であろうと変わるものではない。また、ある時刻t2というのも座標系の取り方で変わるものではない。ということは、その差である時間 t=t1-t2 という大きさも変化するはずない。
」というのが石井氏の主張だが、こうなにもかも“はずがない”で済ませてしまっては議論にもなんにもなりゃせんがな。
表題からすると、“時間は縮むが時刻は縮まない”みたいな話なのかと思ったが、この論拠からすると、時間も時刻も縮まないようでんな。
電車の中でボールを投げた時の軌道の長さの違いは見方による速度の違いで説明できる、だから光だってそうなのだ、という言い方で光速度不変の原理を否定します。
たしかに、ボールの場合はそうなのだが…光の場合は速度が変わらないという実験事実があるんだというのに、なんでわからんのじゃあ。
この人の文章はどうも論理を通り越して「そんなはずがないんだからそんなはずがない」という感じになっているので、はっきり言って読んでも身がない。
一般相対論についても、特に「空間が曲がる」という言葉に強く反応しているようである。例えばこんな具合。
「オレゴン州に異常に強い重力を感じる場所がある。観光地化されている有名な場所であるが、これは図6のように、地下に非常に質量密度の高い物質があるからGが大きくなっているのだと考えられる。一般相対論によれば、ここの空間が異常に曲がっているとされているが、空間が曲がっているのではなく地下の引力の強さの違いと言える
」
一般相対論は、「ここの空間が異常に曲がっているから、引力が強い」と考えている。だから、「そうではなくて引力が強い」では反論にならんってば。
この人も例によってローレンツ短縮に文句をつけるところから話を始めている(そろそろあきたぞ、このパターン)。
まず、「パウリのような一部の学者はローレンツ短縮は原理的に観測可能な現象であるという見解を強く主張し」「一方で、ローレンツ短縮は数学上の見かけに過ぎないという意見もある。
」といかにも、物理学者の間でも見解が分かれていると思わせるような書き方をしている。これはちょ〜な人の常套手段である。騙されてはいけない。
後者の主張の例としてジューコフとランダウの「運動している物体の長さが縮むのは、物体そのものに起こる何らかの変化ではなく、単に物体がそれを測定する器具に対して運動しているからなのである
」と述べているという事を出して来ているのであるが、なるほど、ぼやーーーっと読んでいるとパウリの意見とジューコフ&ランダウの意見が対立しているように見えるかもしれない。
しかし、パウリは“観測可能”と言っていて、ジューコフ&ランダウは“測定する器具に対して運動していると短縮が測定できる”という意味の事を言っているのだから、何も対立していない(どっちも観測できると言っているではないか)。
スコベルツインという人が「同じ直線コースを飛んでいる二つの宇宙船を考え、この両者が同じ速度で飛んでいる場合に、一本のロープでつながれているとすると、もしこの両者がともに速度を増していくと、両者の距離は縮まないが、ロープにはローレンツ短縮が起きるのでロープは切れる、と説明している
」と述べ、「思考の産物とはいえ、大胆な考えを発表するものだと思う」と、まるでスコベルツインが間違っているかのように言う。
しかし、ロープが切れる、という事は間違っていない。たぶん、スコベルツインは「ロープにはローレンツ短縮が起きる」とは言わなかったと思うが。このパラドックスはブルーバックス
「銀河旅行と特殊相対論」(古くはSFマガジンの連載)で石原藤夫氏が紹介していた、“アナログのパラドックス”とほぼ同じものなので、興味のある人は参照して欲しい。
次にいわゆる双子のパラドックス(ウラシマ効果)について述べているが、馬場氏は「一般相対論の範囲内だからパラドックスではない」と言っているようだ。一般相対論を認めているわけでもなさそうなのにこういう言い方をするのはなんだか不思議だ。
同時に相対性の話について、もともとローレンツがローレンツ変換を作った時に、「この時間は見かけの時間である」と言ったことをとりあげ、アインシュタインはこれを無視しているのでよくない、という意味の事を言っている。ローレンツ自身もアインシュタインの考え方には後に賛成した、という事は都合よく忘れていらっしゃるようで。
光速度不変の原理に対してだが、馬場氏は「速度 v で動いている光源から出る光の速度は実験観測しなければ c+v で走っているのだが、実験観測すると c なる速度として測定される』でもいいじゃないか、と言い出します。馬場氏はこの考え方で光速度不変の原理を見直した本を書いているらしいが、『相や間』の中ではどのような理論か、具体的には触れていないので論評は避けます。
しかし、この人はいったい、『光速度の測定』をどのように行うと思っているのでしょうか???
謎である。
後藤氏が最初に指摘するのは、例によって『光速度不変の原理』。
後藤氏の批判の論点はいくつかあります。まず第1の点は、
(1)相対論が、光速度不変から、四次元的距離の不変性を持ち出していることが正しくない。
ちょっと詳しく説明します。
座標(x,y,z)で表される場所と座標(x',y',z')で表される場所の間の三次元的な距離をlとすると、
と表されます。この距離lは、座標軸を回転させても変わらない。
相対論においては、これが四次元的に拡張されます。つまり、
のようになります。
後藤氏は、光速度不変性から導かれるのは、
という式である筈だ、と指摘します(これは、lという距離を速度cの光がt-t'の時間をかけて進む、という式である。
これを勝手にl*が不変だとするのは間違いだ、と後藤氏は言っているわけである。
確かに、「何かが0になる」という式を見て、「0にならない場合でもこの“何か”は不変である」と結論するのは論理の飛躍のように見えるかもしれない。
しかし、この点に関しては、アインシュタインの論文なり、詳しく書いてある相対論の本なりを読めば理由がちゃんと書いてある。
実は、ローレンツ変換が一次式であることから、l*が不変になってくれなければ成立しない事が言える。後藤氏は相対論の勉強をする時、その点を読み落としたのであろう。
なお、このl*の不変性を認めると、相対論の結果が全て導き出されます。後藤氏もその点はわかっているらしく、『これを認めると、「アインシュタインの相対性理論は常識では理解できない様々な奇妙なあるいは神秘的な現象を生み出す」ことが必然の帰結となるのです。』と述べています。この人は、その点はよくわかっているので、この前提を崩そうとしたのであろうが…。
さて、この後、後藤氏はマックスウェル方程式の不変性について議論しています。後藤氏はローレンツ変換のように時間や距離を伸び縮みさせたり、同時の相対性がどうこう、といういう事を言わなくても、光速が変化する、と思いさえすればマックスウェル方程式は不変になる、と言う。つまり、ローレンツ変換ではなくガリレオ変換すればよい、と言っている。
ところが、この計算が間違っているのである。
後藤氏は
という順で計算しているのだが、これでは、今考えた解ならうまくいっても、どんな場合でも大丈夫、というわけにはいかない。
実際、「マックスウェル方程式をそのままガリレイ変換する」という上の(1)〜(3)より単純な方法で計算すると、マックスウェル方程式は元の式とは違った形(光速を書き替えたくらいでは直らないほど違う式)になってしまう。
ここでも後藤氏は、自分の計算方法((1)〜(3))が間違っているために、合っている計算を間違いだと断じてしまっています。ちょ〜本にはよくある話です。
後藤氏は次に「静止座標系は設定できないか」というタイトルの章で、『アインシュタインの相対性理論は間違っていた』の作者である窪田氏の意見とアインシュタインの意見の比較をしている。
アインシュタイン: | 静止座標系の設定はできない。 |
窪田: | 光が発射された、その位置そのものが絶対的静止点、つまり絶対的な光速cを測る基準点になる。 |
ここで後藤氏は、『しかし、この考え(いろもの註:窪田氏の考え)にも弱点があると思います。というのは、その種の基準点は、実際に測定しようとしても、具体的に定めようがないのです。地球上で測定しようと思っても、地球は動いているし、大きく見れば太陽系自体も動いているし、さらに銀河系だって動いているので,基準点はまさに思考上の産物としてしか意味をなさないと思われるのです』と窪田氏の意見を正しく批判している(がんばれ、後藤さん!)。
では、後藤氏はどう考えているのかというと、「光速がその絶対的な値 c と等しい値で測定されるような座標系が絶対静止系である」という考え方をしています。
これはもし実験事実に合うのなら、理屈はあった考え方である。しかし、残念ながら実験に合わない。
また、後藤氏は密閉空間内で音速を測った場合と同様、密閉された空間内で光速を測ってもうまくいかない、という考え方をし、地球は電離層などで宇宙から電磁波的に遮断されているので、解放系ではないので、地球上の光速がどちらむきにも一定であるように思われるのでは、と言っている。
しかし、だとすると、電離層の上下で、光速が(静止系が?)変化する事になります。となると、この為に“光が流される”というような現象が起こりそうです。だとすると目に見える星空は歪んで見える筈。やっぱり、実験にあいません。
さて、次の章の題名は「アインシュタインの相対性理論が導く神秘的で奇怪な現象」というもの。これまでの著者同様、ウラシマ効果やローレンツ短縮などに対し「そんな事はありえない」と反論しています。
これまでの著者に比べると、「ありえないからありえない」式の循環論法は少ないが、それでもやはり、考え方を誤っている点、相対論自体を誤解している点などがよく見られます。
まず相対的な速さについて述べています。ざっと要約するとこんな具合です。
元の座標系に対し、速度 v1、v2 で動く二つの座標系を考える。すると、座標系1の原点の位置は元の座標系でみると x1=v1t 座標系2の原点は x2=v2t となる。
すると、この二つの原点の距離は (v1-v2)t となる。つまり、この2点の離れる速度は単純な引き算でいいことになる。
一方、アインシュタインの相対論では速度の差は
になっているので、これはおかしいではないか。
しかし、実は後藤氏自身も述べているが、相対論での相対速度というのは、「速度 v2 で動くから見た、速度 v1 で動く人の速度」です。一方、v1-v2 になるのは「静止している人から見た、速度 v1 の人と速度 v2 の人の距離の変化する割合」です。
この二つは見る立場が違います。相対論的な現象(ウラシマ効果なりローレンツ短縮など)を無視すればどちらも同じになりますが、相対論的な場合にはそうではない。
だから、違っているのは当たり前。後藤氏が「こうした明確な形での指摘は、歴史上も本書が初めてです」と言っているような“大発見”では全くない。
平たく言うと、“誰もあんたのような間違いを本に書かなかった”ということ。
次に後藤氏が指摘しているのが、「流体による光のひきずり」現象です。これは、流れている水の中では、光の速度がその流れにひきずられる、という現象で、相対論を使うと非常にわかりやすい説明ができます。
まず、アインシュタインによる説明を簡潔に説明します。
止まった水の中で光が遅くなること、およびその屈折率がいくらか、はわかっていますから、動いている水の中でどうなるかは、水を動かすのではなく、観測者を動かせばわかる、という事になります。
これに反する後藤氏の反論はこうです。
「(f・v) の項は動流体による光の“ひきずり”の効果のはずなのに、アインシュタインはこの効果のことは全く考えず、単に相対速さの考えから式
を導いています。光速が流体によって減速される事は事実であり、見方を変えれば、動流体による光の“ひきずり”効果は存在する、と考えるのは自然でしょう」
自然ではない。なぜならアインシュタインは上で(1)のようにして、いったん水が止まっていると考えて、それから相対速度の式を使っているからである。止まっている水に“ひきずり”がないのは当然ではないか。
後藤氏はアインシュタインがどういう事を言っているのかをよく理解もせずに反論する、という“またか”な事をやっているのである。
さて、この後、縮む棒の話と双子のパラドックスの話が続いているが、これまた相対論をよくわかっていない人が感じる、以下の疑問が述べられているだけである。
疑問(A)「x’軸上の棒をx系で測ると収縮するならば、x軸上の棒をx’系で測れば伸びるはずなのに、やはり収縮する事になっているのです。」
疑問(B)「AはA’が自分に対して速さvで動くので自分より倍だけ歳をとるのが遅いと主張(または推量)するでしょう。ところが、A’はAが自分に対してvで動いているので、自分より倍だけ歳を取るのが遅いと主張(または推量)します。この二つの主張は明らかに矛盾していますね
」
どちらも、“x系の同時とx’系の同時が違う意味になっている”という事で説明できる。疑問(A)に関して言うと、“x系の時間で同時に、x’系の棒の両端を測る”という操作と“x’系の時間で同時に、x系の棒の両端を測る”とでは意味が違う、というだけの事なのである。
こういうこと、ちょっと気のきいた相対論の本なら載っている(残念なことに、気のきいていない本には載っていないが、それはしかたがない。科学解説書にもスタージョンの法則は有効なのである)。
こういう、じっくり見ればわかるはずの間違いを堂々と犯して、かつ平気で本にまで書けるというのは、後藤氏が「相対論は間違っている」という前提を置き、その前提にあった計算結果が(たまたま何かの間違いで)出た時には検算しない(少なくとも、まじめにしない)せいではないか、と思われます。
これって他人事じゃなくて…。私も自分の論文に「2回間違えて結局は正しい答えになっている」という式を載せた事がある。こういう、“気づかない方が有り難い事”もしくは“気がつかない方が精神の健康にいい事”には気がつかない、という人間心理の罠には落ちないように気をつけなくては(いやこれはマジメな話)。
さて、次の話はマイケルソン・モーレーの実験なのだが、ここでも後藤氏は苦しい事を言っています。まず後藤氏は、窪田氏の計算(マイケルソン・モーレーの実験に解析ミスがある、とするもの)の不備をつきます(がんばれ、後藤さん!!)。
しかし、窪田氏の計算に間違いがあるからと言ってマイケルソン・モーレーの実験が正しいと思っているわけではもちろん、ない。
なんと、後藤氏は実験装置自体がおかしい、と述べているのだ。
マイケルソン・モーレーの実験では、次の図のような装置を使います。
光源から M1 に反射してからハーフミラーに反射する光と、ハーフミラーに反射してから M2で反射する光が干渉する、というのがマイケルソン・モーレーの実験装置である。
ところが、後藤氏は P2 の部分にもハーフミラーがないと干渉が起きない、という。これは全く理解できない。光の干渉は2つの位相差(行路差)のある光がぶつかれば起こり得るのであって、ハーフミラーを置かなくても干渉はちゃんと起きます。
実際にこのハーフミラー P2 が必要な理由は、光が鏡の中を通り抜ける距離を双方で同じにするためである。ところが…図を見ていただきたい。これでは、一方の光ばかりが、鏡を通る図になっているのである!
図の間違い自体は小さなこととしても。後藤氏は「最新のオプト技術を使って再実験する必要があります。」と述べている。この大事な実験がマイケルソン・モーレー以来一度も再実験されていない、と思っているのであろうか(この思い違いは、たくさんのちょ〜科学者に共通のものであるが)。
後藤氏が次に取り上げるのは横ドップラー効果について。横ドップラー効果というのは、光の進行方向に対して真横に進む光源の起こすドップラー効果で、相対論的でないドップラー効果の場合、波の進行方向と波源の進行方向が直角であればドップラー効果は起こらない。しかし、相対論的な場合、ウラシマ効果による時間の遅れの分、真横の場合でも赤方偏移が起きる。これを横ドップラー効果と呼んでいる。
後藤氏はこの横ドップラー効果の式をちゃんと出していながら、光源が観測者に近づく場合でも赤方偏移になる、という事を示してみせた後、「これは信じられない事です。相対論が間違っているとしか言いようがないでしょう。この指摘も本書が歴史上はじめてです
」と、わざわざゴチック体で言っています。
どうもこの人は「光源が近づいてくる時は絶対に赤方偏移ではないのだ」という“常識”があり、相対論はその“常識”にあわないから間違いだ、と言っているようなのである。相対論は光源が近づいてくる時でも赤方偏移する可能性がある、と主張しているにもかかわらず、である。
この“常識”が実験に裏打ちされたものならば、後藤氏の姿勢には何の問題もない。ところが、後藤氏は自ら「どちらが正しいか格好の実験材料になるでしょう」と述べているのである。つまり、そんな実験や観測はまだないのだ、と思っているのだ。
ところが、横ドップラー効果は観測で確認されているのである。たとえば天体から噴き出すガスである宇宙ジェットの赤方偏移から、真横に噴き出すガスから来る光も赤方偏移する(もちろん、相対論の予言どおりに)ことがわかっているのである。
後藤氏の“常識”はもはや常識たりえない。
この後、電磁場による加速で電子の早さが光速を超えられないのは電磁波が光速で進むからだ、と、窪田氏と同じ事を言っていたり、ローレンツ短縮と実際の見え方についていろいろと書いていますが、これに関しては省略させていただきます。
後藤氏の文はこの「相や間」の中では式でちゃんと計算している部分も多く、まだ文句のつけ甲斐のあるものでしたが、最後の方になると、もうほとんどただのイチャモンと化している。
何より自分の“常識”を後生大事に保ち、それに反する事は一慮もなく「信じられない」と片付けているのは話にもなんにもなりゃしない、というレベルである。
この本の帯には「屈辱的沈黙を破り、思考の家畜化に歯止めをかける快著」とあります。何が屈辱的沈黙だか、思考の家畜化だか知らんが、“怪著”である事は間違いない。
自分の勝手に作りあげた“常識”から一歩も出ようとしないこの本の作者たちの一体何が、思考の家畜化とやらに歯止めをかけてくれると言うのか。
しかも、ちょ〜科学は今もまた、次から次へと出版されているのである…。
*1 ノストラダムスの大予言を信じている人たちは、果たして2000年になったら何と言うだろうか??
*2 なんでも、この研究会、物理学者の中村誠太郎氏が出席した事があるのだそうだ。しかし、一言も発言しなかったとか。やっぱり、あきれてしまったんでしょうかねぇ。
*3 この前は中学生になぜ時間がおくれるか説明したが、何人かはわかってくれた(全員に、は無理だけどね)。
*4 実際には痛い処をついた丁寧な批判があったのに、無視している、という可能性も高い。
*5 なんでこうわざわざ誤解した上で批判しておいて得意げになっている連中が多いんだ…。
*6 「殺人ライセンス・牙」という漫画の中で、主人公と悪人が対決する時、主人公は右回りにジャンプしたので、悪人より高く飛ぶことができて勝てる、というシーンがあった。早坂氏の実験結果を認めたとしても、ジャンプの高さが変わるほどの重力減少はおきない筈だが。
*7 場の量子論などに書いている真空の説明や、電子と陽電子がγ線で対発生する、などの話を見て、「見よ、真空にはエネルギーが充満している。このエネルギーを汲み出せばエネルギー問題は解決だぁ」と叫んでいる“ちょ〜”の人がしばしばいる(早坂氏はさすがにそこまでは言っていないが)。こういう事を書く人に是非聞いてみたいのが「真空は定義によりエネルギー最低の状態ですが、そこからエネルギーを汲み出すと、その後には何が残るんですか?」という事である。これが『マッカンドルー航宙記』みたいにSFならば、「おもろいっ!」ですむんだけど。