本物の色物物理学者たち

前野[いろもの物理学者]昌弘

 私の人外協での役職名、[いろもの物理学者]の由来は私が、《色物で、かつ物理学者》であるから、ということになっております。
 もともと色物というのは、寄席で赤字で看板を書かれる芸人の事です。(漫才や曲芸等の芸人ですね。黒字で書いてもらえるのは落語家だけです。)そーゆー意味では、寄席(、学会)で赤字で名を書かれるのに等しい扱いを受けている人達にこそ、 この《色物物理学者》の称号はふさわしい。「えっ!そんな人達がいるの?」と思う方もおられるでしょうが,、実はいるんですねえ、これが。ここではちょいとばかしこの、《本物の色物物理学者たち》の話をしてみようかと思います。

 彼等は大学等の研究組織に属していることは稀であります。属していても、企業の生物の研究室だったりして、「なんでこの人が物理やってんだ?」というような肩書きであらわれる事が多いです。全く肩書きがなかったり、10年以上前に京大を卒業した人が「京大理学部」という肩書きで喋ってたりします(知らん人が見たら京大の先生かとおもうぢゃないかっ!)。突然、「日電ホームエレクトロニクス」の人が超弦理論の変な話をしていたりもします(おっさん、ちゃんと仕事しとんかいな)。
 彼等の物理学会での講演は、プログラムに赤字で書かれることこそないものの、最終日の午後遅くとか、初日の朝早くとか、およそ人がいそうにない時間に割り振られています。まともな物理学者はみんな聞きませんから、同じ穴のムジナさんたちだけが聞いている中、異常な雰囲気の中で発表が行われているのです。詳細については、後ろのレポートを見て下さい。
 何でこれら《色物》の侵入を防げないかというと、物理学会には「二人の学会員の推薦があれば入れる」、「学会員ならだれでも発表できる」というルールがあるからです。つまり、二人おかしいのが入れば、あとはいもづる式。
 かといって規制しようとすれば、学会員のそれぞれの発表を審査するのはどえらい手間がかかる上、そんな権力を誰に持たせるんだ、という問題が起こる。ええい、隅っこの方で好きな事しゃべらせとけ、とこうなる訳です。

 彼等の好む研究は、

  1. 相対論の否定
     「光速は変化する。しかし、同時に時間や長さも変化するので、変化している事が判らないのだ。アインシュタインは間違っている。」の類。たいてい、「絶対性時空理論」という名前である。
  2. 量子力学の観測理論の斬新なアイデア
     「量子力学において、運動量と位置は決定できませんが、それは時空が実はなんとかでうんぬんかんぬん」の類。
  3. 力学を変な原理で作り直す
     「力学の基本は《円》であります」の類。ええい、武術と一緒にするんじゃない。
  4. 最先端理論に訳のわからないものをくっつける
     「粒子空間と波空間で9次元を表す超弦理論」の類。

なんて処が主でしょうか。

 聞くところによれば、数学の方にも《色物》がまぎれこんでくるそうです。フェルマーの定理は何回証明されたかわからんとか。最高なのは万能方程式という奴で、この式は国会の結果から宇宙の年齢まで、なんでも出せるのだそうです。ただし、インプットする変数は答えがわからないと何をいれればいいのかわからないのだそうですが(おいおい)。
 彼等の被害者は学会だけではありません。大学の研究室によく、彼等は論文を送り付けてきます。「この論文が博士論文として適当かどうか審査して下さい」という手紙がついて、100枚ぐらいのレポート用紙にびっちり書いた論文が届く、なんてのはまだいい方でして、酷いのになると、葉書一枚の裏にとても読めないような汚い字で、こちょこちょと式が書いてあって、下の方に「真実らしいね!」と走り書きしてあったりします(真実らしいもくそも、なにが書いてあるかよくわからない。どーも光速が不変で無い事を証明しようとしているらしいのだが…)。
 こーゆー人たちの中には、自分で送り付けときながら、「お前は俺の研究成果を盗もうとしているな」とどなり込んでくる人もいるそうです(何なんだ、いったい)。
 このような人たちが、ある時は学会で、またある時は自費出版の本で、強烈なる自己主張を行うのであります。

 例えば、学会ではどのような恐ろしい事が行われているのでしょうか?

学会レポート

 過去の数々の学会における色物伝説の中でも最高峰は「虚数のと電流のは等しい」という事を証明した人でしょうか。この話、続編が「自然対数の底の と電荷の は等しい」だったそうです。詳しく聞いた人、というのが存在しないので、実際、どんな話だったのやら、想像もつきません(想像したくない)。文字が一緒だからって、なんでもかんでも等しくすりゃいいってもんじゃないぞ、この野郎。
 90年の秋の学会では、あの清家新一さん(色物物理学者の中ではもっとも年期が入っている)が「収束光とタイムマシンの試作」という題で講演してました。しかも、この回から発表箇所が、「素粒子論」分科から、「素粒子実験」分科にかわってました。おそろしや、おそろしや。彼の本は、読んでいると突然予告も無く英語になったり、巻末に海外からの注文表が(アメリカから何冊の場合何円とか)ついていたりして、おおいに笑えるそうであります。
 さて、1991年の3/27〜3/30まで、東京理科大学で開かれた春の物理学会で行われた色物たちによる発表を知り得る限り報告しようと思います。私がちゃんときいた色物講演はこれが初めてでありました。

 今回はたいてい1セッションしかない<素粒子理論>の色物講演が2セッションもある。以下、そのタイトルを羅列すると、

「時間の相対聖及び不確定性について1〜3」、「微細構造定数4」、「Flux−−onとNewton粒子」、「時計の背理について」、「物理学体系」、「量子力学史」、「同時性理論」、「論争点の相補的解釈について」、「カオスからの脱出の鍵(過剰量とマクスウェル電磁気学との関係)」、「不確定計量時空と距離の自乗の不確定の大きさ」、「素粒子構造に関する1考察」、「量子Coulomb場素過程とdipole場としてのB場」、「標本観測不可観量としての粒子速度と瞬時空間移動法」、「Coulomb相互作用の時間不連属性と常温核融合」

といったところ。

 その上、<素粒子実験>ではあの清家新一先生の講演もある。タイトルは「反物質の時間反転実験と反世界の生命の解析接続」。これだけあるとさすがに私も全部聞こうとは思わなかったが、とにかく清家先生を聞きに行きました。
 清家先生はその講演を始めるなり言いました。
「皆様、お聞き下さってどうもありがとうございます」
 ここで先生は会場の中に外人がちらほらいる事に気付きました。
「This lecture is very interestring. Hellow, friends!」
 おお、突然英語になるのは先生の著書だけではなかったのだ。それにしても突然お友達にされた異人さんたちも驚いたろう。
「まずこれを見て下さい。メビウスの輪です。This is Mobius's ring.そしてこれがクラインの壷です。This is Klein's bottle.」
 OHPでそれぞれの写真を見せながら先生が講演を開始しました。全部日英同時講演でやるのかと思って私はおののいてしまったが、さすがにすぐに日本語だけになりました。しかし、外人がその部屋に入ってくると「Hellow, international friends!」という挨拶を突然なさったのには少なからず驚いた。
 先生は鉄で作った右巻きのメビウスの輪型コイルと銅で作った左巻きのメビウスの輪型コイルに電流を流し、その質量を測定するという実験をなさったそうです。
「これは双対という概念に従っています。双対と言うのは双子と言う字の『双』に相対論の『対』と書きます」ご丁寧に漢字まで教えて下さる。「右巻きと左巻きと言う意味でも、鉄と銅という意味でも双対です」どうして鉄と銅が双対なの。
 すると、30分ほどの間に60ミリグラムほど軽くなったと言う。
「0.何ミリグラムとか言うのなら誤差と言うこともあるが、60ミリグラムとなれば誤差ではないでしょう」
 実験の誤差の見積りって、そんないいかげんでいいのか?どうやら右回りのコマを皮肉っているようだが。
「これは第6の力が原因です。」
 第6の力ってのも既に一部で報告されてるんだけどなあ。第5の力同様、未確認だけど。どうせ名前付けるんなら、第7の力にしてほしい。
「反物質はこの力ではじかれます。反物質はこの為、宇宙の彼方に反宇宙を作ります」
 どうしてこの実験からそんな結論が出てくるのかはよくわからないが、そうだそうである。その途中には、反物質が正物質と逆数の解析接続である事などを使い、26階の偏微分方程式を解いたりと大忙しらしい。
「反物質の世界では時間が逆向きに流れます。死ぬ前に反物質の世界に行けば、若返りますから長寿を得ます」
 どうやっていくんだ、どうやって。
 しかし「反物質と接触したら爆発してしまうではないか」という点については清家先生は答えを用意していたようです。講演ではその点に触れなかったが、前日私が買った講演予稿集(¥一六○○もした。しかもまともな物理学者は私も含めさぼってあまり書いてないので、色物度がさらに高い)によれば、<人間変換器(Body Transformer)>を通ればいいそうです。核電気共鳴(核磁気共鳴ではない)を用いて人体の細胞の一つ一つを反物質に変換するのだそうな。核電気共鳴(こんなの本当にあるの?)なんて物でそんな事ができたらエネルギー問題なんか一挙解決だわさ。
 とにかく時間通り、講演が終わりました。
「何か質問はございませんか」
 すると、一人の男が立ち上がって質問を始めた。
「第6の力は清家先生が発見されたのですか?」
「そうです」
 力強く答える清家先生。
「どこに発表されてますか?」
「一月に一回、朝日新聞に投稿しております。東京版にしか載ってませんが、見ておいて下さい」
 げげげ。ほんまかいな。
 しかし、この清家先生の講演が終わった途端、私を含め十数人が席を立ったのはびっくりしました。みんな、野次馬で来ていたらしい。

 その次の日も色物講演があった。最終日だったので、観客は5〜6人程度。人が少ないと聞く方にもプレッシャーがかかる。その為最後まで聞かずに途中で出てしまったが、聞いた中でその日の最大の収穫は「量子力学史」であろう。皆さんのの中でも電磁気学を勉強したことがある方はマックスウェル方程式

ろーてーしょんいーいこーるまいなすでるぴぃでるてぃー
だいばーじぇんすびぃいこーるぜろ ろーてーしょんえっちいこーるでるでぃでるてぃーぷらすじぇぃ

をご存じと思います。は電場、が磁束密度、は磁場、は電束密度、が電流である。これは実は量子力学を作った人の中で5人の人達の名前、アインシュタイン(Einsten)、ド・ブロイ(de Broglie)、ハイゼンベルグ(Heisenberg)、ディラック(Dirac)、ジョルダン(Jordan)の頭文字と関係しているそうなのだ。即ち、アインシュタインが回転すればド・ブロイが時間的に変化し、両者が回転しあう。ハイゼンベルグが回転すればディラックが時間的に変化し、ジョルダンが加わればハイゼンベルグとディラックが回転しあう。Dの発散(div)がρ(電荷密度)なのはディラック先生が電気出身である事を示しているのである!(発散が0であるドブロイは物理と無関係なんだそうな)
 量子力学はまさにこの式の通りに発展した…とこの人はおっしゃるのだが、どこがそうなのかよく判りません。この人は「これは神の配剤としか思えない」と言う。
 この講演に対する質問が凄かった。いきなり、「貴方の神の定義は何ですか?」である。この人は「宇宙の法則です」と答えました。宇宙の法則が、頭文字で遊ぶのかあ?
「すると、フセインはアラブの大義を唱え、神は我にありと言って戦って負けましたが、いつかは勝つのが宇宙の法則ですか」
 そんなことをこの人に聞いてどうしようと言うのだ。
「いや、私の神はアインシュタインが信じていたような、スピノザの汎神論に近いような神でして…」
「じゃあ、あなたの神と、フセインの神と、神はたくさんいるんですね。そうですね」
 そんなにこの人を追い詰めて楽しいか?だいたい、どうしてフセインの言った事の責任をこのオジサン(ほんと、見た感じでは普通のオジサンだった)にとらせようとするのだ、このジイサンは(質問していた方も普通のジイサンだった…見た感じは)。
 この人の講演態度を見ていて判ったのは『自分が変な事をしている』という事を重々承知しているという事でした。上の話をした時も、「これは物理とは言えないかもしれませんが、言わせて下さい」と言ってから話していました。この人は他にも「物理の発展は60年周期である」という説も唱えていて、1803年近代化学完成、1864年電磁気学完成,1925年量子力学完成、1985年超紐理論の発見と並べ立てたが、「最後の超紐理論は前の3つに比べればまだまだではないか」と言われると、「確かにこれはこじつけめいてますねえ」と答えていた。だったら最初から発表しなきゃいいようなもんだが、何か発表せずにはすまないようなものがあるのでしょう、彼の中に。
 この話の後しばらくして、聞いているのが苦痛になり、席を立ってしまった。少しなら面白くても、(敵がマジなだけに)長くは聞いていられない。
 とはいえ、次の学会でも清家先生の話ぐらいは聞きにいきたいものです。
 ああ、恐ろしい。

色物本の決め文句

 ここでは数ある色物物理学者たちの本に手を変え品を変え現れる、独特の決め文句のようなものを取り上げてみましょう。
 正確な文献による調査ではなく、私の立ち読み時の記憶にたよっているので(色物たちの本は自費出版の事が多く、高いので、なかなか買う気になれない。当然すぐ絶版なので、後から捜す事もできない)、正確さはあまりありませんが、それはそれで面白いでしょう。

◆決め文句1−「アインシュタインはかような簡単なことも理解してないのである」

 ま、相対論もどきの本には必ず3回はでてくる台詞。その前に『かような簡単な事』の内容が書いてある訳ですが、よくあるのは、「時間と空間に区別がつく事」です。そら、簡単ですわなあ。アインシュタインはもちろん、ちゃんとそんな事は理解してます。この人の心の動きをおうと、

  1.  相対論の本で、「時間と空間が4次元という一つのものにまとめられるうんぬんかんぬん」と書いてあるのを読む。
  2.  それをアインシュタインが「時間と空間は同じである」と言ったと誤解する。
  3.  相対論の本の続きを読み、ローレンツ変換の式をにらんで、「同じでない」事を発見する(そら、ちゃうに決まってるって)。
  4.  「アインシュタインはまちがっているぢゃないか!」と叫ぶ!(この時点で『ローレンツは正しいがアインシュタインは間違った』という概念が形成されるらしい)

といったとこではないでしょうか。
 まあこの人は、アインシュタインと同じ事を結果としていってたりしますので、色物の中ではかわいいほうでしょう。ただし、こういう人は「アインシュタインはアホだ」という固定観念をもったまま相対論を勉強するので、さらにひどい状態に陥っていくのが普通です。結果としては次のような名台詞でその章がしめくくられる訳です。
 「結局アインシュタインはローレンツの美しい結果を愚かな解釈で醜い理論にねじまげてしまったのである」 (あんたにほめられたローレンツが迷惑するわい)
 後ろでこの種の色物本の典型であると思われる、「解体新書アインシュタイン」という迷著を紹介させていただきます。

◆決め文句2−「なぜ私のような素人でもわかる事が、専門の物理学者たちにはわからないのだろうか?」

 これはどきっとする台詞でんなあ。もっとも、この台詞、「水の中では光の進む速さは真空中よりおそいと言う。つまり、真空中では光は30万キロ/秒より速いのである!」(そうじゃなくて、水の中では30万キロ/秒より遅いんだってば)なんてとんでもない文章の後に出てきたりするので、なんら説得力がないものになってしまうもんです。変に下手に出ている処がまた、とってもいやらしくて、本屋の片隅で「ぐおお」と叫んでしまいます。その後にはこんな言葉が続きます。
「自己の保身にせいいっぱいで、真理を探求するという物理学者本来の道を忘れてしまったのだろうか?」
 なんか、『物理で金儲けしてる大学のセンセイには、真面目に勉強しているわしらにも簡単にわかる事がわからんのだろうなあ』という思いが(思い上がりが?)するすると出てきている台詞ではないですか。たぶんこの人は自分の論文を大学に送り付けて無視された暗い思い出があります。賭けてもいい。
「この事を口にするのは科学者の間ではタブーになっているのかもしれない。しかしこの誤りを見過ごした場合の今後の科学の発展への悪影響を考えると、ここで書かない訳にはいかない」
 ははあ。大局的見地にたっておられるのですねえ。もう、なんとでもしてくれ。
 この手の色物は挙げ句の果てには自分を「地動説をとなえて迫害されたガリレオやコペルニクス」に例え始めます(だからあ、ガリレオやコペルニクスが迷惑するって)。

◆決め文句3−「実は驚くべきことに、これらの事実は古代から知られていたのである」

 でたあああああ。でました。これですよ、これ。色物たちは変なところではその異常な勉強意欲を発揮して、突然とんでもないところにとんでもないものを結び付けたりします。最近では三すくみ(太鼓に書いてある、三つの人魂が渦をまいて戯れているような絵)とロータリーエンジンを結び付けて、さらに「ここに永久機関の原理が隠されている」と結論した本があったっけ。
 似たような台詞に、
「この事は○○さん(別の色物)の著書でもふれられているが、私のは以下の点で違う」、「ノストラダムスの予言(ここには黙示録が入ったり、竹内文書が入ったりするが)の中の○○とは、この事であるかも知れないのだ」
 なんてのがあります。絶対に現在活躍中の大学のセンセイの名前がでてきたりはしません。事例2で説明したように、色物は大学のセンセイを馬鹿にしてますから。色物の同業者なら出てきてもいいあたりが、考えてみれば不思議です。

◆決め文句4−「このような反論には全く意味がない。私の意図を全く理解していないからである」

 「○○理論」の次に「続・○○理論」を出したような場合、その後書きによく見られる表現です。たいてい、「前著は各界から大きな反響が得られた。ただ、専門の物理学者からの意見が寄せられなかったのはたいへん遺憾である」(言うまでもなかろうが、専門の人は相手にしてないのである)なんてのが後書きの最初の文句です。その後、「いくつか、反論の手紙もあった」の後で上の文章が出てきます。
 思うにこういう人にはいくら言っても無駄なんでしょう。色物は例外なく、反論は無視するようです。そもそも、人と論争する事ができる程度の頭の柔かさがあれば、あんな本は書かんわなあ。

 

『解体新書アインシュタイン』を読む

 では、具体的に1冊読んでみましょう。槍玉に上げられる可哀相な(?)本は

「解体新書アインシュタイン」小野田襄二著/風涛社(定価¥2000)

です。

 この本は数ある『アインシュタインは間違っている本』の中でも出色の出来です。そう判断する理由はこれからゆっくりわかってもらえると思います。
 その凄さは冒頭の「序」で早くも明らかとなる。著者は内山龍雄著『物理学はどこまで進んだか』のなかの、「この他に、走っている時計は、静止している時計より、針の進み方が遅くなることもローレンツ変換から導かれる」という言葉をあげ、「いったい、この宇宙に静止している時計が存在するのであろうか。内山氏は何をもって静止していると」いうのかと疑問を提出しています。以下、その疑問の展開具合いを引用しましょう。

 もし、地球こそが静止しているというのであれば(ああ!地球静止説=天動説の二十世紀版ではないか)、宇宙に存在するあらゆる天体に置かれた時計は、地球上の時計に比べて遅れて進むことになる。それとも、太陽こそが静止しているのであろうか。このときは、太陽こそが宇宙の中心に坐すことになる。あるいは、宇宙には静止する中心が存在し、われわれ人間がその中心を知らないだけだというのか(これは相対論的宇宙観の否定である!)
    (中略)
 内山氏は、このことに明瞭な解答を行っている。「またこのロケット(秒速百キロメートルで打ち上げられた)に積んだ時計は、一時間の間に、地上の時計に比べて、わずかに一万分の二秒ほど、遅れるにすぎない」と。まことに明瞭な解答である。内山氏は地球上の時計こそが静止しているのだと何のためらいもなく解答してくれたのである。
    (中略)
 どうやら、地球静止説の亡霊が二十世紀の物理学を堂々と濶歩しているようである。私は、科学に名を籍りた亡霊復活物語を内山氏の説明にみないわけにはいかないのである。

 長い引用になりましたが、そろそろこの本の凄さが伝わってきませんか?
 因みにロケットと地球ですが、「地球から見ればロケットの方が遅れ、ロケットから見れば地球が遅れる」が正解です(こういうのを、相対論的宇宙観と言うんだけど…)。
 さらにこの著者の恐ろしさを浮き彫りにする次の言葉を挙げましょう。

『ところが、アインシュタインは内山氏とは異なって、二つの時計のいずれが静止し、いずれが運動しているかについて決して語らない。いずれの時計が運動しているかについて語ってしまうと、地球静止説を唱えざるをえなくなることを知っていたからである。内山氏は馬鹿正直で、アインシュタインは狡猾なのだ。』

 この後著者は、「時計と時間は違う」という理論を展開し始めます。

「ドイツの著名な物理学者ハイゼンベルグになると、特殊相対論を説明する際、アインシュタインや内山氏のような馬鹿げた事を言わない」

のだそうである(ここでまた、色物特有の自分の気にいった人だけをほめるという癖が現れている)。
 で、この人は「特殊相対性原理における時間の短縮は、光の伝播に要した時間の短縮の意味である」といい、時計で測る時間は「力学的な時間」だから関係ないというのだが…。どーして時間が2種類もあるのか、まず説明が欲しいぞ、私は。ついでに言うと後ろの方で、「物理的環境が違えば時計のリズムが狂うのは当たり前である」と言っている。そら寒い処では振り子の長さが縮んで早くなったりするよ。でもそんな話してんじゃないでしょーが。
 この後、著者は「私の聞くところによると、アインシュタインにしろ、内山氏にしろ、啓蒙書を書く段になると馬鹿話になってしまうというのである。専門家が専門家でありうる世界では、特殊相対論をこのように理解しているのではないということであろう」と言っている。これは「私は啓蒙書しか読んでいません」と白状しているに等しいのだが、色物特有の「専門家は馬鹿ばかりだから聞く耳持たなくてよい」という立場を取っているこの人には何ら問題ではないらしい。
 この人がこんな事を言うのは、きっと物のわかっている人から、「啓蒙書にそう書いてあるけど、実はこういう事だよ」という風に説明を受けた事があるのでしょう。その人の言う事をまじめにきいていればもう少しなんとかなったかもしれんに。ああ、私は哀しい。

 次にこの著者の少年時代の思い出話を引用しましょう。この部分は「アインシュタインに対する幻滅」という主題を扱った、いろんな色物の本の中に現れる文章の典型です。

 『相対論の意味』(いろもの註:アインシュタインの本です)を読むまでは、もちろん私の中にもアインシュタイン神話は生きていた。私の中にアインシュタイン神話が芽生えたのは中学のときである。時空四次元連続体の概念こそが、私の中にアインシュタイン神話を呼びおこしたのだ。
    (中略)
 ところがどうであろう、物理の理論家に必要な観念力をまるで欠いているではないか。
    (中略)
 問題は、これらの事に気づくのに何ら特別な知識を必要とするものではないことにある。高校で扱う古典物理の知識(教養)で十分だ。あとは科学的知力と合理精神の問題および思索する気力の問題であって、物理学者がそれに気づけないとしたら、その頭の悪さは論外だと言わなければならぬ。

 特殊相対論を理解するのに高校物理の知識しかいらないというのは本当です。特殊相対論に「夢」を見た人の多くが、その余りの簡単さに幻滅するという図を、私はよく見てきました(私自身も拍子抜けしたものだ)。しかし、だからといってアインシュタインがえらくない訳ではない。この人は言わば、コロンブスに向かって、「卵ぐらい俺だって立ててやる」といばっているのです。しかも、見事に間違えた論旨で…。
 この人は自分には科学的知力と合理精神と思索する気力があると思い込んでいるようだが、実際にあるのは最後の一つだけのようです(おそるべき熱意の空回りだ……)。

 では、序文を終えてついに本論に入りましょう。
 第一章、第二章では相対性原理、光速不変の原理について文句をつけている。特にマイケルソン−モーリーの実験(鏡を使って東西と南北に光を走らせ、両方向の光速が等しい事を示す実験)を取り上げ、この実験は「反射によって光速は変わらない事の検証をおこなったのである」とし、光速不変の原理は検証されていない、と断じるあたりはなかなか圧巻です。
 実際にはマックスウェル方程式と言う、光速を不変に保つ性質を持つ電磁場の方程式が成立する事で、充分以上の検証があるのにぃぃと思っていると、果たせるかな、著者はその点に文句を言い始めます。いわく、
『全ての慣性系にたいして光速が本当に不変値をもつのだとすれば、それは観測事象に基づいてのみ語りうることで、いからなる数式といえども、光速が不変値を持つという命令権を所有していない』と。マックスウェル方程式が実験で検証されている事はどーしてくれるんだと思っていると、ダメ押しの一撃がある。
『かくして私は、マックスウェル・ローレンツ方程式が何を語っているのか、最早知ろうとは思わない。知りたくない』
どーして、「知らない」と素直に言えないのだ。
 もっとも、最後の方(第八章)でやっと、著者はそれを認めます。こんな形で。『私は電磁気学について完全に無知である。したがって私の記述には、全くとんでもない誤りが含まれているかもしれない。無知であるがための誤りがあったとしても、私は、自らの頭脳に閃いた直感に全てを賭ける。』もう、なんとでもしてくれという気分である。とりあえず、マックスウェル先生に合掌…。

 第三章では、時間の概念について考察(???)しています。著者はアインシュタインの時間概念が混乱している事の証拠として、アインシュタインの『相対論の意味』の中の

 厳密に言えば、例えばつぎのように、まず最初に同時性を定義する方がより正確である。慣性系Kの点AおよびBに起こる二つの事象は、間隔ABの中点Mでそれらを観測した場合、同じ瞬間に見えるならば同時である。この場合時間はKに対して静止しており、同時に同一の時間を示す、同じ構造をもった時計の指針の集合として定義される。

という文章を引用しています。この後、著者は『ここで「時間はKに対して静止しており」という、まともに理解したら意味の通じない支離滅裂な一文によって、前半と後半とがつながっていることに注意していただきたい』と言っている。ちょっと待てよー。国語の勉強しろよー。「時間」を主語とした時の述語は「静止しており」じゃなくて「指針の集合として定義される」だろー。それに「まともに理解したら意味の通じない」という文章は、かなり「まともに理解したら意味の通じない」文章だぞー。おーい、聞こえるかー。

 私は長い間、以上に示したような独善性から判断して、「こんな人はきっと、自分の理論を考え直すとか、反省するなんて事はしないだろーなー」と思っていました。ところが、そうではないという事がこの本の後半で思いもかけない形で示されます。この部分を読んだ時、私は足元が崩れ落ちていくような気分になったものだ。以下、引用します。
 これは第五章の先頭で、実は第一章の内容は少々おかしいと言い始めた後です。まず、こんな事を言い出す事からして「一冊の本の中で間違いを訂正したりするなよー」と思ってしまう。これに対し、著者は

『思索というものは、もともと落度の連続であり、思索にまつわる落度の中をさまよい歩く放浪の旅といったものだ』と弁解しているんだか自分の世界に閉じこもっているんだかわからない文章を書いている。それは許そう。しかし、その直後には、
『それはともかくも、私の誤りは、みかけの光源に気づきながら、ついにその真相をあやまってしまったという一点につきるといってよい。』ほんとにいいのか?と誰もが思うところである。
 しかし、この後、著者は見事に我々の意表を突いてくれる。
『いや、そうではなかった。今この一瞬、気づいたことであるが、どうやら違うようだ。』今って、いつだ。
『私の思索の落度は、それどころではなかったのである。』一番の落度はそれをそのまま本に書いてしまうことじゃないのか?

 で、この後さらにいろんな事を言い始める。はっきり言って、どっちもまちが
っているので、この文章のショッキングさとうらはらに、読み進むのは苦痛である。
 しかし、これが『えらい学者が何かの定理を発見した瞬間』に書いた文章だったら、これは感動もんである。残念なことに、『どっかのおっさんが世迷い事を別の世迷い事に変換した瞬間』だったりするが。

 他の部分には、これを弁解するかのように、次のような言葉がある。
『私は理解したことを書くのではなく、理解するために、思索を貫くためにこそ書くから、そのとき書いている内容がその段階での思索の到達点であるという傾向を顕著におびる』本は売り物であるという概念が完全に欠如しとるな。『百二十四頁の文章から光の鏡的作用という決定的発見に到るのに、確か二時間ぐらいの時間を費やしたかと思う』いばるな。頼むから、二時間ごときでいばるな。
 最後にいけばいくほど、著者はどんどんあちらの世界に軌道修正していく。最後には、『光は物体に関する情報を伝播するものではない』と言い出す。その例としてあげられているのが次の文章である。
『私の前に一台の自動車が置かれている。だが私の眼には自動車の片側の映像が映るだけで、反対側の像を見ることはできない。このことも、自動車という物体の像を光が観測者に伝播するのではなく、あくまでも観測者に伝播する光の範囲つまり電磁作用の情報を視覚器官に伝達する範囲を明らかにしていることを証づけている』
 お説ごもっとも。で?(そんなこと、子供でもわかるぞ)

 第九章の題名はこの後の展開のあほらしさを暗示しています。題して、「神経現象としての知覚された空間」である。どーして「解体新書アインシュタイン」の最後の章がこんな話になるのだ。
 しかし、前にも書いたようにこれは色物の得意技、いや特異技なのです。全然関係がないような話に突然跳んでしまう。
 恐ろしい事に、「はしがき」によると、著者は第九章を書くことによって新しいテーマを二つみつけたそうです。
 いったい何がおこるのだろう???―考えてみると恐い…。

 昨今、NHKのおかげで世はアインシュタインブームです。その為か、この本がNHKの本や真面目な研究書と一緒に山積みされている姿をよく見かけます。
 ただただ恐ろしい限りです。

まだまだこんなにいる色物

終わりに

 これを読んで―




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