日本の宇宙開発の祖・糸川博士

第三勢力:ほらふきクラブ

2001年2月11日、は何の日でしょう。
 そう、今日は日本で初めての人工衛星『おおすみ』が打ち上げられてから、ちょうど31年目の日です。
 というわけで、日本の中心部からほんの少し西にある西はりま天文台公園の見学に行くと、偶然にも文部科学省、宇宙科学研究所の****氏の講演会を聞くことができました。

 どうも、「成功したときにはまったく記事にもならないのに、失敗すると会見に記者がやまのように集まってくる。」
という発言から始った講演の内容は、

「近未来の日本の月惑星探査、私の考え」

 実は戦前の日本のロケット開発技術は、V2号ロケットを打ち上げたドイツについで世界の第2位水準であったが、戦後戦犯になることを怖れた研究者が資料を焼払ってしまったため現在にはほとんど引き継がれていないそうです。また、最近では少し資料も集められつつあるものの、一番資料が豊富なのは実はスミソニアンなので当時の日本の技術を知るためにも英語が必要な状況だそうです。
 当然、戦時中のロケットは飛行機の下にくくりつけて敵艦に向けて発射する固定燃料の桜花や、明日は実用飛行テストという日に終戦を迎えた液体燃料ロケットの秋水など兵器が中心なのは当然のことですが。
 戦後、航空機開発とともに禁止されていたロケットの研究もサンフランシスコ講和条約で緩和され、1953年に東大生産技術研究所、糸川英夫博士が戦後日本のロケット開発を再開しました。
 というわけで、講演そのものの内容は非常に長いので次回に回すことにして今回は講演で語られた中から日本のロケット開発の祖である糸川英夫博士に関するエピソードを抜書きしてみます。

1. 私は糸川博士の研究室でマスター論文を書いた最後の世代だったので、2年ほどしか博士の下に居なかったものの、博士は弟子からみて非常に扱いにくい人で、ありがたいことより困ったことの方が多かったような気がします。
 この世界には「あの人より先に死んだら何を言われるかわからない人」がいっぱいいるので頑張って健康に気を付けているのですが、糸川先生は幸いにも一昨年前に亡くなられました。非常に残念な方を亡くしたものです。

 おいおい、いくら最後に「残念な方を亡くした」ってフォローを入れても、この失言はちっともフォローされてへんぞと思うのは私達だけではないだろう。

2. 最初のロケットはペンシルロケットで、このロケットの燃料は戦前のコレヒドール作戦で使ったものが名古屋の工場に残っていたためその燃料に合わせて設計したものです。
 ペンシルロケットは最初水平発射でした。上に打ち上げると軌道を追跡するのにレーダーが必要だから、水平に発射し高速度カメラを使ったり、針金に紙をはったスクリーンを突き破るのを、オシロスコープで計測し加速度を測るなどの工夫をして、実験をしました。このあたりの工夫はすべて糸川英夫博士のアイデアです。
糸川博士の最初の構想では、最後目的は日本−アメリカを30分で結ぶスペースプレーンでした。実際には人間が耐えられる加速度を考慮すれば2時間が限界のようですが、この当時は30分が目標でした。
 ですが、このあとIGY(国際地球観測年)がやって来て、糸川博士は変り身が早い方でもあったので、スペースプレーンよりもお金が出やすいと考えたのか、地球観測のためのロケット開発という方向に方針を変更されます。

3. 当初は秋田県道川の秋田ロケットレンジからペンシルロケットを北に向けて打っていましたが、Kappa8のころから朝鮮半島の北方まで届くようなロケットが作られ始め日本海側では打ち上げが続けられなくりました。また、人工衛星を打ち上げるためには、地球の自転速度を利用するほうが有利なので太平洋側に発射場所を求めることになりました。
 そこで、糸川博士は発射場を探して襟裳岬から初めて太平洋側を南下されました。一時茨城県鹿島に決まりそうになりましたが漁業保障問題で結局駄目になり最後には鹿児島の内之浦に決まりました。この内之浦は伊能忠敬が歩いての測量をあきらめて、船で後から訪れたというような辺鄙な場所です。ところで、宇宙開発事業団か使用している種子島も検討されたようですが、輸送が不便だという理由で外されたたようです。とはいうものの内之浦も鹿児島からタクシーで2時間でとても便利とは言えないのですが。
 この場所は糸川博士が内之浦の高台で小便をしながら「そうだ」と叫んで、決まったそうです。
 ですので、私はその高台に『小便小僧』をつくろうと思っているのですが、なかなか賛同者が少なくお金が集らなくて困っています。ですが、いつかは必ず作ります。

4. 1962年のKappa8、10号機の事故は、日本で最初の深刻なロケット事故でした。一段目の燃焼中に爆発が発生し、2段目に点火してしまったのです。
 何もしらない大学院生はそれをみて、「ロケットの実験ってずいぶんきれいですね」などと言っていたのですが、点火した2段目が、打ち上げ場所めがけてもどってきたのです。技術者は全員建物の中にかくれてスクラムを組むようにして固まっていたのですが、カウントは正確に読み上げられていました。カウントをする人は、「コントローラ」と呼ばれて、冷静沈着、常にカウントを正確に続けなければなりません。この方も定年になられましたが。ロケットは、発射場の上3mを通り過ぎ後ろの農家に突っ込みました。そのときの16mmフィルムがいまでも私の部屋にのこっています。この事故で秋田にいられなくなった後、発射はすべて内之浦で行われるようになったのですが、ロケットの打ち上げが成功するようになって、秋田からさみしいから何かないかと言われて、能代にロケット地上燃焼試験場を作りました。
 おおすみは重量24Kg、1970年に打ち上げられました。この打ち上げは4回失敗しています。
 朝日新聞だけがこの失敗に対して大々的な反糸川キャンペーンを展開し、結局糸川博士は後進に道を譲るという形で東大を退職せざるを得なくなります。形は勇退ですが朝日新聞に辞めさせられたのは間違いありません。
 ですが、実はこの裏に朝日新聞の科学担当記者と糸川博士の銀座のママを巡る確執があったそうです。
 この事件は、門田氏の小説(文藝春秋に連載されたはずです)に、本人も驚くほどの正確さで、描写されています。

5. 当初ロケットの名前に、速いとかいうイメージの名前をつけようと思ったのですが、ほとんどは国鉄の急行列車取られており、また昔の戦闘機とも重なります。ここでも糸川博士の独断で、ギリシャ文字ならどこもつかっていないということで、Κ(カッパ)から始まったのは、カッパは歯切れもいいし、河童につながりユーモラスだから・・・ということのようです。
 『おおすみ』は内之浦のある大隈半島の方々の協力に対する感謝をこめて名づけられました。 このあと、打ち上げに成功された衛星には「和名」がつけられることが慣習になりました。
 最近は『あすか』、『はるか』、『のぞみ』と女の子の名前ばかりが続いており、佐藤文隆先生の本「火星の夕焼けはなぜ青い」に、この「のぞみ」の名前が間違えて「はるか」と20箇所も書かれています。これは、衛星の名前が全部女の子の名前だからで、3号機には男らしい名前をつけようと思っていたのですが、失敗してしましました。「飛龍」になるはずでした。ミッドウェイで最後まで生き残った空母ですが、結局沈んだ船なのでよくなかったのかもしれません。

つづく、




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