こうしゅうでんわ

谷甲州

なんとかエリコは終了したものの、その後の仕事は例によって停滞気味であります。前からかかっている戦前のヒマラヤ登山の話は、資料がやたら多くて整理するだけでえらい手間がかかってしまうのだった。しかも資料をしらべるうちに別の資料が必要になってきて、それを探すためにまた手間暇がかかると。最近はそのために図書館をまわったり、版元の出版社と連絡をとったりと原稿を書く以外の作業に時間をとられております。

 とはいえ、面倒な作業だけど面白いことは面白いのであります。登山史を紐解いていくと、これまで知らなかった事実がいろいろ出てくるから。いまでは信州側から登るのが当たり前になっている後立山の山々(白馬から五竜、唐松、鹿島槍なんか)は、江戸時代には黒部側から毎年のように登られてたり、とか。山に興味のない人には、なんのこっちゃ、な話だろうけど。要するに加賀藩の山林巡視役が、他藩からの盗伐を見張るために定期的な登山をつづけてたのだな。藩の境界が後立山あたりにあるので、黒部源流一帯は加賀藩の支配下にあったと。信州側の松本藩も巡視はやってたらしいが、小藩なんでそこまで念入りには監視できなかったらしい。
 で、その間隙をついて入りこんだ盗伐隊を、加賀藩の巡視役が追いつめて捕縛したこともあったらしい。盗伐は厳罰だったらしいから(本人は死罪で家族は追放)、追う方も追われる方も必死だったのだろうな。うーん、これは小説のネタに使えそうだ。山岳冒険歴史小説というのは、まだだれもやったことがないような気がする。巡視には測量の技術者や絵師が同行したこともあるというから、これだけでも別の物語ができそうだ。
 山林の巡視以外だと、幕府から派遣された薬草学者が全国の山々を巡り歩いてたらしい。なかにはお庭番みたいな奴もいたんではないかな。あとは修験道とか宗教登山の類になるが、これも派閥争いみたいなことが結構あったらしい。そういえば白山の室堂(記憶が曖昧)で、恨みを買った坊主だか修験者だかが山小屋ごと焼き殺されたとかいう事件もあったな。江戸時代だったと思うが。このあたりも、しらべていくと何か面白いネタがひろえるかもしれない。それ以前だと、戦国期に山中をこえる軍用道路の整備か。実際に作業や道案内をやったのは土地の猟師や樵だったはず。佐々成政のザラ峠越え以外にも、真冬の北アルプスを越えた奴が絶対いたと思うなあ。加賀藩の支藩になる大聖寺藩の藩士が、真冬の白山をこえて郡上八幡までいった話は(「受城異聞記」だったか)すでに別の人が書いてしまったが、探せば他にもあるはずだ。

 なんか「次の次の次くらいにやる仕事」のことを考えているときが一番おもしろいのだが、実際に原稿を書く段になるとそれこそ死ぬ思いをするのであった。いつものことだが。




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