こうしゅうでんわ

谷甲州

 ええと先月の画報に入っていた号外の件ですが、当の本人から報告をば。
 『白き嶺の男』に収録された表題作ほか二編(あとの二つは「沢の音」と「頂稜(スカイライン)」)が、第十五回新田次郎文学賞を受賞しました。例年だと選考経過とかは発表されないんで、なぜこの三つなのか本人にもよくわからないのですが、まずはめでたいことだと思います。なんか他人ごとみたいだが、受賞したことで仕事の内容が変化するわけでもないし、他にいいようがないのよ。では嬉しくないのかというと、やはりそれなりに嬉しいわけでして(なんとなく鬱屈しとるな)。
 うーむ、たとえばですね……。これは菅浩江さんが星雲賞を受賞したことに触れて書いておられたのだが、賞をもらったことで作家としての基盤ができたというか、それまでの不安定な思いから抜けだせて菅さんは嬉しかったらしい。それを読んだ甲州は、ふーん、コンテスト出身ではない作家さんにとって賞というのはそんな意味もあるのか、などと思ったわけですが、それがなんとなく今回の受賞でわかったような気がするわけよ。つまりだな。谷甲州といっても、普通の人は名前も知らないし書店でも本をみかけたことがないわけであって、本を読まない人からみればかぎりなく「自称作家」にちかい存在だったわけよ。それが受賞をきっかけに、ずいぶんと変ってしまった。なんせ県内版の新聞二紙に(おお!)とりあげられてしまったものな。隣近所から一升瓶はとどく親戚から酒の肴がとどく、道で会った近所の人に「よかったですね」といわれる。
 もちろんそのことは嬉しいんですけどね。出版社から花束がとどいた以上に、知人からのお祝いや祝電なんかは嬉しかった。その人たちが、本当に喜んでくれているのがわかるから。もちろん谷甲州ばかりではなくて○○○○(↑わしの本名だよ)さんに、よかったね、といってくれてるんだけど。そういえば、似たようなことが過去に何度かあったよなあ。はじめてコンテストに入賞したことを知らされた一八年前、はじめて本を出した一五年前、ようやくフルタイムになって小説だけで食えるようになった一〇年前にも「小説家であることを認知された」経験があったわけなんだけどね。つまり今回の受賞も「少しずつ社会的に認知される段階」と考えられるわけだな。
 ただしひとつの段階なのだから、受賞をきっかけに本質的な何かが変ったわけではない。仕事の内容はおなじだし、谷甲州の本はあいかわらず近所の本屋では手に入らない。そもそも『白き嶺の男』を、石川県内の書店でみかけたことはいまだかつて一度もない(と思うよ。個人的な経験だけど)。まーその、増刷せえとはいいませんけど、せめて小松市内の書店にはきちんと配本してやってほしいよな。版元の営業さんは。受賞のお祝いをいってくれる人に「ところで本は、どこで手に入るの?」といわれるのが、いちばんつらい。
 なんか愚痴になってしまったな。でも本心をいうと、やっぱり嬉しいのであります。でも、あんまり喜びすぎると仕事をする気が失せてしまうので、適当に身を引いているという部分もありますけどね。まあ今回の受賞も一八年前や一〇年前とおなじ「認知のための階段」と思えば、次の階段(いったい何だろう)にむけて歩きはじめるしかないんだが。
 ということで、皆様まことにありがとうございました(礼)。




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