書評の話です。先月号に掲載されていた山陽新聞の書評は通信社系の配信記事らしく、北國新聞にもおなじ書評がのっていました(先月の画報3Pは、上段が日経新聞で下段が山陽新聞、かな?)。ただし北國新聞の方は勝手に記事をかきかえたらしく、紹介文が「小松市在住の谷甲州」になっていました。なんとなく「郷土の作家」みたいな扱いだから、まちがって「郷土の本のコーナー」に本がならべられるかもしれない。一度みてみたい気もするが、残念なことに小松の書店で『終わりなき−』をみたことは一度もなかったのであった。
二紙以外では、中日新聞系で川又千秋氏が、朝日新聞日曜版で山岸真氏が、西日本新聞(これは別の通信社系か)で巽孝之氏がそれぞれ書評しておりました。SFマガジン以外の雑誌では、すばる(小説すばるではない方)と小説推理でそれぞれみかけました。書評に関しては編集さんがほとんどチェックしてくれるのだが、数からいうと『遥かなり神々の座』の時の方が多かった。やはりSFはマイナーなジャンルなのかもしれない、などと考えております。
当然のことながら、複数の書評をならべてみるといろいろと違いがあって興味深かった。SFの場合は評者がジャンル内の人なので極端な誤読はないものの、ときどきあれ?というような指摘を眼にします。たとえば「手塚治虫のオマージュと読み取れる」と書いた人がいたが、最初はなんのことかわからんかった。もしかしたらブラックジャックのことかな、とも思ったのですが(手術の跡だらけの作業体K)よく考えたら火の鳥だった。うーん。そうだったのか。奇想天外社版『CB−8』には、「ムルキラの原型はヒマラヤを越える渡り鳥」と書いておいたのだが。もちろん心のどこかに火の鳥のイメージがあった可能性までは否定しませんが、オマージュだあ、といわれても、ねえ。
とはいえ、作者本人も気づかなかった点を指摘されたりもします。言葉のニュアンスはすこしちがうものの、「本書はわかりにくい」という意味のことを別の人が書いていた。予想できないことではなかったが、これはすこしばかりショックだった。もちろん作者としては発表場所が専門誌なのだから、SFのタームはいちいち説明しなかったし、読者もある程度は宇宙工学の予備知識があるものと思って書いていた。ただし専門誌といえどもビギナーの読者はいるのだから、「わからん人は読まんでもよろしい」などというつもりはない。たとえ専門用語がわからなくても、全体の筋書きは理解できるよう工夫したつもりだった(『大阪冬の陣』の主旨は、だからよく理解できるぞ。理解しにくい概念を、できるだけ専門用語をつかわず読者に理解してもらうのがプロの最低条件なのだ、と私は思ってます)。
もちろん私の本がわかりにくいのは作者の能力が不足しているからなのだが、問題はそれだけではないような気がする。ジャンル全体にわたって、かなり根の深い問題をふくんでいるのではないか。前にある編集者(きっちりしたSFファン)に、「最近のSFにはジャンル外の読者にも読まれるベストセラー、あるいはジャンルの読者層をひろげるような本格SFがない」といわれたことがあった。たしかに小松左京氏のベストセラー本や、星新一氏のショートショートみたいなロングセラー本はすくなくなった。昔にくらべれば出版点数が桁違いにふえたために、読者の好みが多様化しているせいかもしれない。そのために、コアとなるSFは特化せざるをえない。いまでは中堅どころの書く本格SFはたいてい先鋭化してしまって、ジャンル外の読者にも読まれる幅のひろいベストセラーは生まれにくくなった。そもそもシリーズもの以外は、ベストセラーがでてにくくなっているのだが。
もちろん読者の多様化は、別の結果もうむ。たとえば星新一氏のショートショートと草上仁氏の短編をくらべる(こんなたとえ話は当事者にとって失礼なのだが、内輪の話ということで失礼します)のは可能だが、それでは草上氏がはじめてのSFだった読者が、そのままSFのあたらしい読者になるだろうか。新井(素子)さんのときもそうだったが、草上さんのファンがふえるだけではないのか。以前は星さんやブラウンからはじめて、スペースオペラにいったりハードにいったりというのが一般的だったのだが。関係ないけどサイバーパンクやバーチャルリアリティなんて言葉がずいぶん流行したが、あれはSFとなんか関係あるのか?
話をもどす。「ジャンル外から読者を引っ張ってくるようなパワーのある本格SF」が必要なのはわかるが、「お前にそれができるのか」といわれれば尻込みするしかない。やりようによっては、できんことはなさそうな気もするのだが。
やれやれ。今回はえらくマジになってしまった。