こうしゅうでんわ

谷甲州

 梅雨前だというのに、えらく蒸し暑い日がつづいております。前の書き下ろし『ナンダ・コート』を脱稿して二カ月ちかくになるのに、まだ次の仕事に取りかかることがでずにいます。連載ふたつの合間に北國新聞社の短編仕事や、次の書き下ろしの資料しらべなんかをしていたので、さぼっていたわけではないのだが。次の書き下ろしというのは毎日新聞社の『法王の親衛隊(仮題)』なのだが、以前から少しずつ読んでた資料本の中身を、見事に忘れてて呆然としております。うーんと、依頼されたのが『凍樹の森』が出た直後だから、もう丸七年も前になるのか。書き下ろしにそなえてチベットへ取材にいったのが三年ちかく前のことだから、資料本の内容を忘れても仕方がないか、などとおさまっとる場合か。仕方がないのでメモをとりながら最初から読み直しております。

 それにしても、チベット関連のノンフィクションは面白いなあ。仕事を忘れてつい読書に没頭、などとやっていてはいかんのだ。たしか前の時も「仕事だ仕事だ」といいながら眼の前の仕事とは無関係の資料本ばかり読みあさってたし。当時(明治三十年代)チベットに関わっていた日本人の中は何人かいるわけだが、熱血漢の学僧とか胡散臭い浪人ものとか、はた迷惑な純粋正義君とか沈着冷静初志貫徹の人とかどれも個性が強烈で飽きません。ちなみに胡散臭い浪人は石光真清の『城下の人』シリーズにもちらりと登場した成田安輝で、はた迷惑な人はチベット一番乗りを果たした河口慧海師であります。河口慧海という人はチベット関連の文献をしらべると大抵どこかに登場する有名な人だが、やってることが結構トンデモですごいです。大正に入ってから新聞紙上でチベットに関して別の僧と論争しているのだが、このときの論調というか文章が喧嘩腰、というのとはちょっと違うか、思わせぶりでもってまわった嫌みったらしい文章で、はて、こんな文章を最近みたことあるぞ、それも頻繁に別の場所で、と思ったら何のことはない、インターネットなんかの掲示板でよくみかける泥沼バトルそのままではないか。もしも明治時代にインターネットがあれば、絶対この坊主は伝説のネットバトラーになってたと思うぞ。

 で、タイトルの『法王の親衛隊』は最初のころ編集者と打ちあわせをしていて「法王(ダライ・ラマ)の親衛隊に日本人がまぎれ込んで、軍事顧問みたいな地位を手に入れて云々」とか駄法螺を吹いたのが元になってるのだが、実際にしらべてみたら本当にこんな日本人がいて唖然としました。ただしこっちの方は日露戦争が終わってからの話で、本人は二〇三高地の攻防戦や奉天会戦にも従軍している下士官あがりの在郷軍人でありました。なかなか明治時代というのは侮れん。

 などといっているうちに『覇者の戦塵』のつづきを書く時期になってしまったか。ついでに北國文華に掲載した短編も、シリーズ化の話が出てきてしまった。ということで『法王の親衛隊』が本になるまでには、まだかなり時間がかかりそうです。

 ところで。前に「勁文社が倒産」などと書きましたが、実際には再建の方法を探るみたいですね。ガセネタすまん。この会社に関する話は、と書こうとしたのだが、なんだ、もうスペースが一杯か。この話は、また次の機会に。もしも忘れてなければ。




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