OCS*1の事務所で林氏に「名張行こ。クラック・ルート*2やるねん」と言ったところ、「嫌や、クラックなんかやりたない。名張やったらそこ座ったはる人に頼み」と言って紹介されたのが南裏健康氏(歌って踊れるクライマー、文部省の指導員)だった。
顔が弟さんとよく似ている(逆です)。彼があの奈良にある柏木のゲレンデを開拓し、世界中のクライマー憧れの一つ、『トランゴ・ネームレス・タワー』の第三登を単独でやり、その頂上からパラパントで飛び降り失敗。奇跡的に海抜六〇〇〇メートルの岩壁に引っ掛かり、救助されるまでの九日間を独りでぶら下がっていた男*3。どことなく谷甲州さんに雰囲気が似ている……と書けば両氏にとって迷惑だろうか? 筆者の独断と偏見と思って許して頂きたい。
「フェイスはどれだけ登れる?」とグレードを聞かれている。答えに詰っていると、「テン(<5.10>)まで」と林氏が代わって答えてくれた。
講習料を支払い交渉成立。「クラックなんか楽しないで」「自分なぁ、フェイスみたいに登れる思てるやろ。甘いわ。一本でも登れたら感動もんやで」「そやそや、手足痛いだけで傷だらけになるし、フラットソールかてボロボロになんねんで」「あの兄弟(南裏兄弟)危ないからやめとき」「まぁ、何事も経験や。結果分かってるけどな」皆が勝手なことを言い、ニヤニヤとしている。なんなんだ。
当日、近鉄の名張駅で九時に待ち合わせ。南裏氏の車に乗り込み、目指すは香落渓『MCの岩場』。青蓮寺川を一五分程遡る。駐車場に車を止めて五分程歩くと『MCの岩場』がある。関西MCCのメンバーが中心となって開拓したクラックの入門的なゲレンデ。岩質は安山岩で、降り積もった火山灰が変成作用を受けて見事な柱状節理をみせているため景勝地となっている。高さ約四〇メートル、幅一〇〇メートル程度のコンパクトなゲレンデに二二本もルートが拓かれていて既に飽和状態にある。
南極探検に連れて行ったダ×チ×イ×『南極一号』の話から飛躍して、北朝鮮のスカッドB型ミサイルの改良型『労働一号』の話になり、「今からおまえはトランゴ教の労働一号だ」と勝手に名前を付けられてしまった。
直射日光がチクチクと肌を刺すように日差が強い。灼熱。防虫スプレーを大量に振りまく。ダニや蚊を防ぐためである。ボロボロになって底を張り替えたフラットソールを履く。新しく買ったフラットソールはブカブカで南裏氏にハーネスと交換した。交換したフラットソールを履いた南裏氏は「なんちゅう快適な靴や。スクールで使おう」と言って、一日中履いていた。クラックルートをやる場合は新しい靴はもったいない。
[シンドローム <5.8>]から始める。南裏氏がリードし、筆者が彼をビレイする。彼のロープはビッグ・ウォール用の一一ミリで、筆者の一〇・五ミリのブルーウォーターと比べ操作しにくい。馴れた手付でナッツやフレンズをセットしていく。終了点を確保しテンションをかけ南裏氏を降ろす。バンテージの巻き方から教わる。手に幅の広いバンテージをピッタリと巻き付ける。「ジャミングは手はこうして、足はこう立ててクラックに突っ込む。途中、ハンド・クラック(手を開いて親指を中に入れて、クラックに差し込んで手を膨らませてジャミングする。親指の調節が決手となる)からフィスト・クラック(拳でジャミングできるクラック)になっているから、そこに足を突っ込んだらレスト(休憩)出来る」と身振りで一通りの説明を終え、ビレイをかわってもらい筆者がトップロープで登る。*4
「行け、労働一号」「労働一号、行きます」なんて言って飛び出したまでは良かったが、足がクラックに突っ込めない。「足を強引に突っ込め、親指と人差し指でリング・ジャムを噛ませろ」指示がとぶ。指がちぎれそう。足が痛い。この状態でレストポイントまで登れるだろうか? レスト出来るまでにワンテンションかかった。まだ中間点だというのに汗だくでフラフラ、喉はカラカラ、頭の中は真っ白。終了点のテラスは膝で立ち込むといった無様な状態で、降ろしてもらったときは、立っているのが精一杯だった。これで<5.8>だから信じられない。クラックとフェイスではグレードが違うのだろうか? バンテージがなければ手が血塗れになっていただろう。フラットソールの紐も切れかけている。「クラックは靴紐がよく切れるから、切れそうになったら紐を解いて、ずらせて結び直す。予備の紐も持参すること」と教えられた。
ロープを架け直して右隣のルート、[吐息クラック<5.10>]をやる。[シンドローム]と比べるとシン・ハンドの為スタンスが得られない。柱状節理を利用してバック・アンド・フットで登れと南裏氏からの指示。まるでチムニーみたいな登りかた。途中から強引に足が突っ込めたが、情けないことにクラックに足を突っ込んだままミシンを踏んでいた。クライミングでは、足が震える事を「ミシンを踏む」と表現する。深呼吸して、手を延ばしジャミングを決め、クラックから足を抜こうとすると今度は足が抜けない。強引に抜くとスタンスがなくなりバランスを崩して、クラックに突っ込んだ右手人差し指と中指の二本だけでぶら下がってしまう。「まだノーテンションや、頑張るんだ労働一号」と南裏氏。激痛で指がちぎれそう。長くは持たない。再びバック・アンド・フットのムーブにしようとし、指を抜いたら今度は本当にテンションが掛ってしまった。「暫くぶら下がって休んどき」との指示。本音を言えば降ろして欲しい。テラスに着くまでに何度テンションが掛ったか覚えてはいない。クラックの登り方がマスター出来ていないので余分な力がかかってしまい、レスト出来るようなルートでさえパワー(筋力)ルートになってしまう。
[オーノチムニー・ダイレクト <5.9>]。クラックの中に蜘蛛が巣を張っていたが手を突っ込んだときに潰してしまった。五センチ程の小さなムカデが這い出てくる。クラックの中に泥がたまり草や木が生えだしている。しかし登っている筆者にはそれどころではない。真偽は定かでないが、南裏氏の話によれば、クラックの中には時としてマムシもいるらしい。後日写真を見た林氏は「まるでジャングルや」と評していた。このルートも粘ったが、結局半分も登れず、登るというよりもぶら下がっていたと言ったほうが正解だろう。「あかん、無理や、ええから降りといで」と言って降ろされてしまった。内心、ホッとした。
灼熱地獄。躰中、ガタガタ、汗でびしょ濡れ。『六甲のおいしい水』をガバガバと飲む。そのまま昼食にした。フェイスだと背が高いほうがホールドに手足が届き有利だと思っていた。が、クラックではリーチは関係ない。むしろ小型軽量柔軟で華奢な日本人の女の子の方が有利に思える。筆者では指や足の突っ込めないようなクラックでも手足が小さく指が細ければ突っ込める。
再度、[シンドローム]をトップロープで登る。プロテクションを全て回収し、ロープも回収するように言われた。クラックに少しは馴れたせいかノーテンションでクリアした。これがこの日登れた唯一のルート。但し、トップロープで。
[メモリアル・クラック <5.9>]。南裏氏のリード。ロープの出が悪い。やはり一一ミリのロープは扱いにくい。「ロープ!」南裏氏がロープを出せと命令するが、切り株にロープが引っ掛かりもたつく。ほんの二、三秒だった。「遅い!」と怒られる。「わー、グラグラやな。このハングは岩が剥がれそうやから触ったらあかんで」と登りながら南裏氏が注意した。ビレイを交代して筆者がトップロープで登る。ハングにたどり着いて膝がハングに当るとゴトゴトと不気味な音をたてている。ステミング(開脚)でトラバース気味に右へハングを迂回する。しかし、2/3まで登って力尽きてしまった。
「ハング越え、上手いこといったのに惜しいな。やっぱり持久力やで」と南裏氏。
[ヴァージン・ロード <5.10b>]。本当はこのルートを登る予定はなかったが、先週、南裏氏が登ったときに二番のフレンズ*4を残置してしまった。彼としては何とか回収したいところだろう。筆者がビレイして、南裏氏が三〇分程、回収作業を続けていたが、結局諦めて降りて来た。
「せっかくロープを張ったんや。登れるところまでやってみよう。行け労働一号」と言われれば行くしかない。1/3程を登ったところに二番のフレンズが残置されているがやはり回収は無理だった。核心部で二度テンションが掛り、なんとか核心部を通過したが、終了点まで四、五メートルのレイバックで力が尽き、登れなかった。
「一本でも登れたら感動もの」か。本当にそうなってしまった。指も手も足も腰も腹筋も全ての筋肉がパンプした。ついでに擦り傷だらけ、靴はボロボロ。ハーネスを装着した時にはサイズが合っていたが、帰るときはブカブカになっていた。尾篭な話で恐縮だが、『六甲のおいしい水』を二リットル全部飲んだにも関わらず、小便は一滴も出ないどころか、躰が火照って帰り着いたら水をガバガバ飲んでいた。灼熱のクラック・ルートは痩せます。「えらいやつれたなぁ、労働一号」と南裏氏。
南裏健康、トランゴ・ネームレス・タワーから飛び降りた男。
*1OCS
大阪クライミングソサエティの略称。実は会社でもあったりする。
*2クラックルート
岩場のクラック(割れ目)をたどっていくクライミング・ルートのこと。筆者がいままでに登ったのは、すべてフェイス・ルート、つまい岩壁そのものをよじ登っていくことを主体にしたルートだった。
*3九日間一人でぶら下っていた
このエピソードは、日本文芸社から近藤純夫著『地球への奇蹟』で出版されています。興味のある方は買って読んでください。
*4 二番のフレンズ
フレンズのサイズは、小さいものから順にハーフ、一、一・五、二、二・五、三、三・五、四までがワンセットになっている。これだけ揃えば七、八万円はする。
OCSともOCSコーポレーションとも株式会社オーシーエスとも、一切、全く、全然、筆者とは何の関係もありません。無関係です。誤解の無いよう念のため。