山ではありません。シークリフ(海岸岩壁)です。紺碧の空、純白の石灰岩、透き通ったエメラルド・グリーンの海。大阪在住の筆者には想像すら出来ない日本離れした素晴らしい雰囲気の岩壁が、和歌山県由良町白崎海岸に存在する。
岩場へ連れて行け、と言うと「白崎海岸へ行きまひょ、泳ぐねん」と林氏が言う(一一月の上旬である)。鮫の餌食やがな。
日曜日、午前八時に淀屋橋で待ち合わせて和歌山の白崎海岸を目指す。高速料金が馬鹿にならない。醤油発祥の地と書かれた看板が目に付く。白崎海岸に到着したのは午前一〇時だった。この石灰岩は二億年前、有孔虫フズリナ(どんな生き物やねん)が数百メートルの厚さに堆積し化石となった典型的なリアス式海岸、とある。暖かな日差し、磯の香り、まばゆいばかりの純白の石灰岩と紺碧の空。そのコントラストはひたすら美しい。行ったことはないけれど、地中海ってこんな所だろう。多分。
かつては岬に車ごと入ることが出来たらしいが、釣り人が断崖から落ちて亡くなったらしい。そのために行政側がブロック塀で入れなくした。今では皆が塀を乗り越えて岬に入っている。筆者も塀を乗り越え岬の中に入る。かつてのセメント採掘現場だった所であるために、鋼鉄のアンカーボルトが打ち込まれていたりもする。
白崎フェイスエリアの稜線に着く。ここからは、断崖絶壁になっていて、下に降りるには懸垂下降−岩壁に垂らしたザイルで素早く降りる−しかない。手頃なボルトが無いので、ピナクル(岩の顕著な突起)をビレイポイント(確保の為の支点)にして、ザイルを投げ、先ずは筆者から降り、続いて林氏が降りる。三日月状のバンド(小さな帯状のテラス)に着いてセルフビレイ(自己確保)を取る。四、五メートル下は波が打ち寄せていて、エメラルド・グリーンの海に魚が回遊しているのが見える。
トップロープで《 White Bear(5.9)》(登攀ルート名、以下《 》内は全て同様)から登り始める。出だしのホールド(手がかり、足がかりの総称)が少し取りにくい。上背に物をいわせてホールドを取る。中間部まで行けば左にトラバース(横移動)して後はガバ(俗語:ガバッと取れる大きなホールド)なのでクリア出来た。
南向きのフェイスである為に、風が遮られて日当たり抜群。そのうえ純白の石灰岩の反射熱で暖かいなんてものではない。まぶしい。眼鏡が偏光レンズで良かった。登っていたら大量の汗をかくし、喉も乾く。手にチョークを付けても石灰岩に吸収されてしまうような感じ。
続いて《Yellow Cats(5.10a)》を登るがムーブ(クライミング動作)が分からない。一回のテンション(ザイルにぶら下がてしまうこと)の後、林氏の指示があって上まで行けたが、登れたうちには入らないだろうな。出だしが核心部で後半部はガバ。ヘトヘトである。交代して《Fair Lady(5.10b)》を林氏が見本を見せくれる。さすが自分で開拓したルートだけあって、華麗なムーブで登って行く。足捌きが見事である。交代して筆者が登るが、核心部で二回テンションが掛ってしまう。「何がFair Ladyや、bitchやんか」と悪態をついていると「そう言わんと、自分上背あるから左上のホールド取れるやろ。そこが核心や」と林氏。足と躰と腕を伸ばして、強引にホールドを取って上までたどり着く。次はノーテンションで登らなければ。
一一月も上旬だと言うのに暖かいために、ヤブ蚊に噛まれて痒い。今度来るときは防虫スプレーを持参しよう。上まで登って昼食にする。石灰岩の紋様が面白いので、これを室内壁用に使おうと林氏が持参したシリコンで型取りを始めた。五分ほどして剥がしたが、折曲げてザックに入れたために、そのまま曲がって変形してしまい失敗した。
ビレイポイント用にケミカルアンカーを二本打った。電動ドリルで石灰岩に穴を開けて、凝固剤のアンプルを穴に入れて、上からハンマーでアンカーを打ちつけてアンプルを叩き割って埋め込んで完成。筆者はリス(クラックより小さい割れ目)にハーケンを冗談で打ちつけていた(自然破壊やな、後で抜いたけれど)。今更ハーケンなんて流行らない。すぐに抜けて危ないからだ。しかしハーケンを岩盤に打ちつけるときは澄んだ良い音がする。打ち込むにしたがってハーケンの振動が短くなって、低い音色から高い音色へと変化していくのをハーケンが歌うと表現する。綺麗な音色。素晴らしい風景。これってガストン・レビュファ*1のカランク*2みたい。行った事はないけれど。
岩陵歩きをしてピラミッドエリアへ行く。コンクリートの堰堤の下に浸食して穴が開いていて、そこを潜るとピラミッドエリアである。ここに来て驚いた。釣り人が皆とは言わないが、マナーの悪さには呆れた。麦酒の空き缶、釣り餌のオキアミ(これは腐って悪臭が漂っている)、煙草の吸殻、釣糸、食べ散らかした後が……。せっかくの景観がぶち壊しである。地中海気分も何処へやら、やはりここは平成のニッポンだった。
《スーパーマリオ(5.10a)》に挑戦する。核心部は天井ハング(一八〇度の前傾壁)である。トップロープとはいえ、正直言って恐い。ビレイヤーが林氏でなければ恐くて登れない。ビレイヤーは誰でも良いと言う訳にはいかない。天井ハングに取り付いて頑張ったがあと少しでどうしても越せない。テンションの度に宙を舞っていた。
「ガバをつかんでいながら越されへんのは悔しいやろ」と林氏。「……」筆者無言。
二週間後、再び白崎海岸。快晴。今度は中村氏(測量会社勤務)も加わる。防虫スプレーをつけて、白崎フェイスエリアの断崖を筆者、中村氏に続き林氏が懸垂下降でバンドまで降りる。セルフビレイを取ってシュリンゲ(テープやザイルを短く切ってループにしたもの)を中村氏のハーネス(安全ベルト)につけてビレイする。筆者が前回のルートを一通り登って、次に中村氏がノーテンションで同じルートを登ってしまった。彼は筆者よりもグレードが上だった。
連休ということもあってか、隣のルートを別パーティーが登っていた。不動岩(百低山EX補遺「リードは恐かった」参照)や保塁岩(EX−V「還暦クライマーの逆襲」参照)ならば順番待をしなければならないが、ここは知名度が無いためか、或いは都会(京阪神)から離れているためか、ガラガラに空いている。
昼食後再び懸垂下降して、さきほどの隣のルート、《Flying Cats(5.10d)》と《サドン・デス(5.11a)》のミックスルート(ミックスルートであるために、実際のグレードは(5.10d)よりも遥かに易い)を筆者から登る。出だしは八〇度程の傾斜だが、中間部から一〇〇度程のオーバーハングを暫く登り右へとトラバースして上へと抜ける。しかし筆者はトラバースまでは順調に登っていたが、途中で腕がパンプ(パンプアップの略、筋肉の使い過ぎのためにパワーが出なくなる)してしてしまった。あかん、ここでテンションを掛ければ右に飛ばされる……、と思いつつ「林さーんテンション」と叫でいた。手がホールドから離れて、躰が右へ振られて宙吊りになり思わずザイルにしがみついていた(ザイルにしがみつくのはかえって危険)甘えているのだと思うとなんともふがいない。落ちたところからもう一度やったが、
結果は同じだった。降りてきた筆者に「途中で休憩もせず、いきなりオーバーハングに突っ込むからパンプするねん」と林氏。中村氏をビレイしながら彼のムーブを見る。トラバースでテンションが掛ったが再トライで登った。林氏の次に筆者がもう一度トライするが結果にかわりがない。それにしても何だ、この馬鹿陽気は。頭も躰もぼーっとしてくる。体内の力が抜けて行くような感じ。いくつかのルートを登り、ふらふらになって最後に《Yellow Cats》を登って終いにする。
ビーフステーキとスパゲティーそれに野菜炒め、その他もろもろの夕食である。安物ナイフで野菜の皮を剥きながら一人で生のニンジンやピーマンをかじっている筆者を見た林氏は「分かった。自分お腹が空いてて登られへんかってん」「食べます?」と生玉葱を差し出して筆者。「……いらん。それよりステーキは?」中村氏も筆者もレアだった。オートキャンプの食事って普段の食事よりも贅沢な気がする。寒くなってきたので後片づけをやり、ワゴン車の中で午前零時近くまで話し込んでいたが、中村氏が仕事があるからと言って帰った。外に出て空を見上げると銀河が霞んで見えた。明るい星空。普段なら海抜三〇〇〇メートルまで登らなければ見ることができない降るような澄んだ星空だった。対岸の四国、徳島の灯火が間近に見える。打ち寄せる波の音を聞きながら、シュラフにもぐって寝てしまった。
翌朝午前一〇時に由良駅に松岡夫人(学童保育指導員)を迎えに行く。彼女は前回の鈴鹿山脈御在所岳藤内壁前尾根での寒さに懲りて重装備である。「そんな装備いらへん。熱いだけやで」と林氏。フィッシャーマンエリアに着いて防虫スプレーをふって松岡夫人に渡す。「こんなん要るの?」「要るの」と筆者。このフィッシャーマンエリアは三本のルートが開拓されていて、いずれも易しいルート。釣り人が一人、アジや小さなグレを釣り上げていた。熱いのでシャツを脱いでタンクトップで《EXCEL(5.8)》から登る。出だしは悪いが、上部はガバの連続。続いて《センター・クラック(5.9)》。ムーブがよく分からないが強引に登ってしまった。松岡夫人をビレイして彼女のムーブを見る。筆者よりも柔軟性はあるが、上背が無いために苦闘している。林氏が《 センター・クラック》の見本を見せてくれる。中間の核心部ではレイバック(足のつっぱりと、手の引っ張りの力を利用するムーブ)で処理する。松岡夫人と二人でレイバックの練習をするが、一度クリア出来ると簡単なものである。《フィシャーマン(5.7)》を登り、白崎フェイスエリアの稜線まで行って昼食にする。先々週に打ったボルトをビレイポイントにして懸垂下降。筆者に続き松岡夫人が《White Bear》にトライするがホールドに手が届かず、どうしても登れない。一応登降器は持参しているが。二五〇メートルの大トラバースを半分ほどやって切り上げた。
次回は女性には難しい(^_^;)雪山ハイキングです。 ^_^;
*1 ガストン・レビュファ
フランス人クライマー。西暦一九二一年生、一九八五年肺癌のためパリで病没。
著書『星と嵐』『星にのばされたザイル』はあまりに有名。*2 カランク
フランスのマルセイユ付近にある石灰岩の風光名眉な海岸岩壁。