「はぁ? ザイル? 御在所岳へ行くのに何でそんなもん持って行くのん? あんなもん、ロープウェイに乗ったら終いやんか」と筆者。「ナニ言うてんねん、藤内壁や、藤内壁。クライミングギア一式持っといで、ええなクライミングギア、一式やで」と林氏が電話してきた。
藤内壁ねぇ。昭文社の山と高原地図を見ると確かに藤内壁は存在を確認できるが、位置情報のみでどのような岩場かは詳細が分からない。ついでに言わせていただくならルートすら筆者には不明である。バリエーション・ルートらしい。しかし連れて行ってやると言ってくれているのだ。人任せの山行なんて筆者の趣味ではない。理由? 筆者の山行スタイルは、まずボーッと地図を観て、名前が気に入ったとか、その由緒や、なんとなく興味を感じるとかがあって(本当は気まぐれと思いつき)、そこまでのアプローチやコースそれに時間、金額、日程、気候、風土等を地図やガイドブック、人に聞く、時刻表や雑誌(ヤマケイとかカクジンとか《注:「山と渓谷」「岳人」》)可能な限りの情報を集めて、場合によってはエスケープルートまで設定して装備と日時を決定する。だから、危険箇所なんかは事前に分かるし、初めての山でも概要がつかめているのも、何かあった時の強みである。それに単独行ならば行動も慎重になる。山行中は開放感があり、帰ってきても充実感と、満足感が得られる(何、現実逃避と自己満足やて? 言いたい奴には言わせておけ)。よく、なんやら山岳会やハイキングクラブ主催の一般参加の山行でついて行く人の話を聞くと、山へは行った、そしてルートは? と聞くと「さあ、ちょっと分からない」との返答が返ってくる。もう一度一人で行けと言われれば行けない。ただ、ついて行っただけ。何が楽しいのか、どのような意義や目的があるのか、義務教育の遠足じゃあるまいし、何ともお寒い話である。
今回は、そんなお寒い山行だと思っていた。
午前八時に淀屋橋で合流。既に今回のメンバーである杉澤君(関西大手私鉄勤務)と名前を忘れた(関西大手電気メーカー勤務。以後、電気屋と称す)がワゴン車に乗り込んでいる。奈良県の大和高田駅前で北口氏(県立高校教員)と合流。一路鈴鹿を目指す。名阪国道から東名阪自動車道を走る。鎌ヶ岳や鎌尾根の鈴鹿山脈鋭峰群を右に見て、近鉄湯の山温泉駅前で松岡さん(学童保育の補導員、人の細君)と合流。大阪から出発して既に二時間が経過している。そこから鈴鹿スカイラインを少し登って北谷橋手前にある広場に駐車して北谷橋を渡って、裏登山道と呼ばれる一般道を歩きだす。始めの一〇〇メートル位はコンクリート舗装されているが後は、よく踏まれた一般登山道である。
筆者のザックはクライミングギア一式が入っている。それにウインドブレーカーとジャケットをコンプレッサーも使わずに持ってきたために、思いっきりかさ張っているが、見た目ほど重たくはない。しかし笑われ者になったのも確かである。林氏なんかは、女子高生の修学旅行だと言って笑っている。問題があるとすればパッキングである。
林氏は「僕の前を人が歩いているのは気にいらん、誰だろうとも僕の前は歩かせへん」と言って五人一〇人と追い越して行く。速い速い、ついて行くのが精一杯である(後で聞いた話では、電気屋がやたら速く歩くので負けたくなかったとのこと)藤内小屋(有人小屋)まで地図では一時間のコースタイムになっているが、二〇分で着いてしまった。汗びっしょり。五分間の小休息の後出発する。松岡さんと筆者と二人して遅れて歩きだす(体力と根性が無いからだ)。なんとなく彼女と意気投合し盛り上がってしまった。「へぇー、マッターホルンに行かはったん、ええなぁー」「そう、ガイド料が日本円で七万位やったかなー」「たった七万?!(ガイド料のみで交通費や宿泊費その他は含まない)や、安い」羨ましいと思った。しかし、一家の主婦が一人でヨーロッパ・アルプスまで遠征するとなると、朝の五時からバイトをやって本業もやり、家事もこなさなければならず、並々ならぬ苦労があるらしい。そんな話を聞いて根性あるなー。そう思った。今が一番充実していると彼女はキッパリと断言した。
藤内小屋から一五分ほど歩いて藤内沢出会いに着く。ここで前進すれば国見峠。
左へ進めば目指す藤内壁がある。そして、藤内壁にはクライマーのみの立入りが可能で、一般登山者の立入りは禁止と看板に書かれてあった。一般登山者が興味本位でクライマーの後をついて行くと危ない。左に進み二〇〇メートルほど急な登りで岩がゴロゴロとしている。そしてテスト岩と呼ばれるボルダーに着く。ここからが藤内壁。全員フラットソールに履き替える。藤内壁、御在所岳北東側に展開する標高差四〇〇メートルの花崗岩の岩壁、岩稜。名前の由来は、藤内さんという漁師が初めて登ったからだとも言われているらしいが、定かではない。関西にこのような凄い岩場があったとは恥ずかしながら知らなかった。そう言えば芳野満彦の著書に藤内壁の記述を読んだような気がするが定かではない。
先ずは林氏がリードし、それを杉澤君がビレイ(確保)する。続いて杉澤君、北口氏、電気屋、松岡さんの順番で登り、最後に筆者がフレンズやヌンチャク等を回収しながら登る。しかし、一人ずつ登るので六名ともなると待ち時間がかかる。日陰で風が強くかなり寒い。
順番待ちをしていると、別パーティーのクライマーが一人、慌しく上からザイルを張りながら降りてくる。何かトラブルでも発生したのかと思っていると、女の子が背負われながら確保されて降りてきた。右足首を捻挫したか、最悪の場合骨折か。まだ二十歳前の娘さんが激痛をこらえて背負われている姿が何とも痛々しく、気の毒だ。「テーピングが足りない。上に行って取ってこい」と叫んでいたので、「これを」と言ってテープを差し出す。「大丈夫ですか?」と聞くと「今ドクターが診ていますが、何とも……」との返答。彼らは地元大学の山岳部員だった。ルートを知らされていない筆者は上の状況を聞くと、これがテスト岩、そしてP7、P6、P5、P4、P3、P2、P1と登って行くと御在所岳の頂上に着くとのこと。ちなみに、Pとはピークのことで、上から下へと算用数字の番号が若い順につけられている。何処まで登るつもりか? この人数で、この時間(既に午前十一時だった)なら頂上に着くまでにタイムオーバーかな。
テスト岩を登りP7に取り付く。登りにくいクラック(割れ目)だった。いきなりムーブが分からない。足を突っ込んで、ハンドジャムを効かせて登り、最後はマントル(ほぼ上半身だけの力で登ること)になっている。背が低い松岡さんが「どうやって登るの」と言いつつ、なんとか登る。別パーティーのクライマーが筆者の大きなザック(五〇リットル)を見て、「歩荷訓練ですか?」と聞いてくる。余計なお世話である。P6取り付き迄は、ハイキング気分の岩陵歩き。P6の登りは比較的簡単である。どのようにしても、何処からでも登れる。時刻は既に一二時になっている。寒くて誰も水を飲もうともしない。林氏と、北口氏は半ズボンの為に寒そうである。北口氏に至っては、唇が紫色になって気の毒である。それを見た別パーティーのクライマーが「耐寒訓練ですか?」と聞いてくる。まったく余計なお世話である。筆者のザックを誰もが笑えなくなってしまった。皆が寒そうにしている中を筆者一人がジャケットを取り出してヌクヌクとしていて、なんとなく申し訳無い気分がする。
P5、花崗岩の風化がかなり進んでいる。中尾根や日の当たらないバットレスに、数パーティー程、取り付いている。見晴らしが良い分、強い西風をまともに受けて飛ばされそう。P4の取り付き迄は、またハイキング気分で一般道のような樹林帯を登って行く。時間の節約の為に、林氏が二本のザイルでリードし、杉澤君がザイル一本でリードする。我々の所持しているザイルは、林氏が直径十・五ミリが五〇メートルと九ミリが四五メートルそれに筆者の十・五ミリが五〇メートル。計三本である。この九ミリと十・五ミリがやたらと絡み合い、登る度に解かなくてはならない。
P4を登りきったところで、林氏の知り合いがいた。五年ぶりだとか。林氏が下山ルートを聞いている。何のことはない、パーティー全員が初めてのルートだったのである。ヤグラ(P2)手前のコル(鞍部)から裏登山道に降りる道があるらしい。ヤグラのコルから下山することとなった。
P3、最後の登り。簡単な岩を二、三越えてスラブ(傾斜の緩い岩壁)がある。林氏がザイル三本でリードする。本チャンみたいだと林氏。北岳バットレスに雰囲気が似ているらしい。我々は、今年の夏に北岳バットレスをやるつもりだったが、落石の恐れがあり中止したのだった。
スラブを登りきってP3に着く。既に午後二時を過ぎている。全員が登りきったところで遅い昼食にした。セルフビレイ(自己確保)を忘れて林氏に怒られる。北東方向に養老山地の南側が見え、濃尾平野、名古屋が遠望出来る。東側は四日市のコンビナート群、伊勢湾その向こうに知多半島が霞んで見える。眼下に裏登山道を登り降りする登山者がいた。藤内壁の鋭い岩壁を見ながら岩峰を越えていく楽しいコースだった。
寒くて記念撮影なんかしている余裕もなく、五分で食べてしまう。フラットソールを脱いで軽山靴に履き替えている途中、筆者のボリエールのフラットソールの袋が強い西風に煽られて飛ばされてしまった。
眼前にヤグラと呼ばれる特徴のある岩塔、P2がデーンとそびえていた。残念ながら登るにはタイムオーバーである。ヤグラのコルから急斜面のガレ場を降りて裏登山道に出て、藤内沢出会いまで降る。そこからは来た道をそのまま降る。
人任せだと、後でルートを調べるのが面倒である。これを書くのにナカニシヤ出版の『鈴鹿の山と谷4』、山と渓谷社のアルペンガイド17『鈴鹿・美濃』、撮ってきた写真や乏しい記憶を頼り、OCSの事務所でクライミングジャーナルのバックナンバーをコピーして……。
地図はクライミングジャーナル八四年七月号を無断借用。