読んだふりをするための
「凍樹の森」

花原[私を「まちゅあ」と人は呼ぶ]和之

投手の熊 分厚いハードカバー。黒地に「凍樹の森」という文字だけで構成された愛想のない表紙。帯に書かれている「遥かなり、新天地」とか「書下ろし超弩級冒険巨編1000枚!」という言葉。こういった本の「つくり」からして、これでもか、というくらいに「谷甲州」らしさが感じられます*1。もちろん、中に書かれている物語のほうもあなたの期待を裏切りません。谷甲州ならではの寒さ、時折感じられる汗くささ、それに加えて鉄と血のにおい…そういったものが圧倒的な存在感で迫ってきます。
 この「凍樹の森」は、最近では(文庫版も含めて)書店の店頭で見かけることもなくなってきました。もったいないことです。今回、この、何から何まで「た、に、こうしゅ〜う〜!」という本の雰囲気を未読の方にも少しでも味わっていただくべく、ご紹介させていただくことにしました。

主な登場人物

美川梗次郎
主人公の一人。マタギ。鉄砲の腕は確かで、冬山での行動能力も優れている。甲州作品の主人公の…ある意味典型かも知れない。物語の最初に登場する人物であり、最後を締めくくる人物でもあるわけで、本来なら彼こそが本編の「主人公」なのだが…いかんせん、庄蔵に比べるとインパクトに欠けるきらいがある。…もっとも、それだけ彼が(庄蔵に比べて)まともな人物である、ということなのかも知れないが。
武藤俊昭
主人公の一人。予備役大尉。現役時代には軍事密偵として活躍したらしい。英語とロシア語、中国語のいくつかを解する…とはいうものの別にインテリ風、というわけではない。ちなみに酒好きのようである。けっこう飲んでいるようなのだが、酔っ払った場面の描写がないところを見ると、かなり強いのであろう。まあ、酔っ払ってべらべらと口が軽くなったりするようでは密偵は勤まらないのだけど。
庄蔵
主人公の一人。佐七の孫。マタギになれなかった若者。美川は庄蔵の第一印象を「単に危険というのではない。なんとなく常識の通用しない相手」と表現しているが、後に彼はそれがいかに正しかったかを骨の髄まで知らされることになる。能力はともかくとして、その体力と根性…というよりも執念深さは特筆に値する。その圧倒的な存在感は「低く飛ぶ鳩」に登場する、あの門脇にも匹敵する──いや、私の知るかぎり、門脇に対抗できるとすればこの人物しかいないように思える。
ミナシロ
その名の通り真っ白な(だから模様は見えない)ツキノワグマ。物語前半の影の主人公。深読みすれば、この物語に登場する諸々を象徴しているかのような存在かも知れない。最後の最後まで生きるべく努力して敗れる姿はある意味感動的と言えよう。
佐七
 庄蔵の祖父。マタギのシカリ。ある意味、こんなふうに老けて、こんなふうに死ねればいいかなあ、と思わせる人物。ただ、彼が美川に託した言葉が後の諸々をまねく羽目になった…とも言えるかも。
伊武谷少佐
本編の悪役筆頭。といっても、その存在感では庄蔵にはるかに及ばない。せいぜいが小悪党程度。…もっとも、本人は自分が悪党であるという自覚もないのだが。(余談だけど、こういう人っていますよね。困ったことをしてるんだけど、困ったちゃんであるという自覚のない人)。

あらすじ

 この「凍樹の森」のあらすじを通常のやり方で語るのは非常に困難です。そこで今回、この物語の「主人公」であると言われている(って私が勝手に言っているだけですが)三人に各々語っていただくことにしました。美川さんをシベリア沿岸に訪ね、武藤さんを南米に訪ね、そして…庄蔵さんを地獄に訪ねて、この物語をふりかえって語っていただきました。

美川の語る「凍樹の森」

−まず、ミナシロとの対決を振り返っていただきたいのですが…。
「あの頃はよかったよ。ミナシロとの対決は死ぬ思いだったが、充実感もあった。ミナシロを倒して勝負声を挙げた瞬間は嬉しかったなあ。あれで庄蔵にさえ出会ってなけりゃよかったのに」
−しかし…ある意味、彼の勘違いも仕方がない側面はあるかとも思いますが。
「仕方がない? まともなマタギなら状況が読めるだろう。あいつが未熟だからあんな逆恨みしたんじゃないか。山での生活の本質を教えてもらった佐七さんには感謝してるけどなあ、あの山刀の件だけはちょっと恨むよな」
−でも、加瀬さんの件ではある意味…。
「その話をそれ以上するんなら俺は帰る。ああいうことがなければ、たぶん最後には東北に帰ってマタギをしていただけだ」
−すみません。では、監獄からソコロフを奪還した例の作戦の件ですが、あれにはあんまり乗り気ではなかったようですね。
「たった3人や4人で牢破りをしようってんだからそりゃそうだ。ほかにどうしようもない、ていうのは確かにあったけどな。山での荒事ならまだしも、街中でのああいうのには俺は向いてないんだ」
−最後は冬山を舞台にしての逃避行になりましたけど…。
「あの時、ある種の充実感がなかったと言えば嘘になる。けど、ろくな装備も持たないままで冬山を越えるのは…正気の沙汰じゃないよな。甲州作品でもないとなかなかしないことだろう。追っ手は迫ってくるし、岩沼…さんも、きくも連れてたし…。きくと俺が生き残れたのは紙一重だったと今でも思う」−最後、庄蔵との件にカタをつけたときの感想なんかはありますか。
「もっと以前…あのとき…あの、秋田の山中での時点で…殺っていればよかった。佐七さんとの件もあるし、どうしようもない判断ではあったんだが…。その点については後悔してるよ」
−そういえば、きくさんに子供が産まれましたよね。
「ああ、最後にデルスウ*2に会えたおかげで、なんとか暮らしてるよ。博物学者になるのは無理でも、こっちの山のことにも随分と詳しくなった。そうそう、あと、とにかく、もう庄蔵がこの世にいない、というそれだけで心が安らぐのは確かだ」
−では、最後に甲州ファンの皆様に一言。
「いつか、俺の子供が甲州デビューしたらよろしく」

武藤の語る「凍樹の森」

−まず、明石大佐*3との出会いについてお尋ねしたいのですが。
「俺があんなことをする羽目になったのは、大佐に出会ったからなのは確かだな。自分にとって雲の上の存在のような人と出会って、少々舞い上がっていたかもしれん。でも、嬉しかったよ」
−それから大陸に渡られて大活躍されるわけですが…。あのソコロフ奪還作戦、はっきり言って勝算はどのくらいだったのでしょう。
「五分、とふんでたな。美川たちには言わなかったが。どうも半分くらいは加瀬にのせられたような気もするんだが、あのままでもジリ貧だったし…使い古された言い回しだが、やはり『血が騒いだ』んだろうな」
−一番印象に残っている場面、というとどのあたりでしょう。
「やはり、あの最後の山越えの絶体絶命の状況で美川が追っ手を倒してくれた時、かな。しかし…あの逃避行は寒かったぞ。実際、少しソコロフを恨んだりもしたよな。少々危険の度合が高くても、もう少し寒くない逃走経路を思い付いてくれればよかったのに…とかね」
−そういえば、話はかわりますが、お酒、お好きですね。やはり情報収集という仕事の影響もあるのでしょうか。
「俺が酒が好きかどうかはともかく…情報は酒場によく落ちているものだ。ま、密偵としてのいろはのい、ってとこだな。時には酔っぱらっているように見せるのも大切だ。そういった行動が事態の次の展開にもつながる」
−それには私も強く同意しますが。私の場合、最近、ちょっと風当たりが強くて…。ところで、最後に甲州ファンの皆様に何か一言。
「俺の南米での活躍が描かれたらよろしく」

庄蔵の語る「凍樹の森」

−ええと…。
「俺に何か用か」
−あの…差し支えなれれば美川さんをあそこまで追いかけた理由をお聞かせいただければ…と…。
「誰だ、そいつは」
−あの、ミナシロを仕留めた岩手のマタギです。
「ちがう。ミナシロを仕留めたのは佐七のはずだ。ちなみに、初弾を打ち込んだのは俺だ。俺が一人でミナシロに一発撃ちこんだからこそ、佐七もミナシロを仕留められたんだ。だから俺がミナシロについては一番の権利を持っている。それをあの他所者が…。おまけに俺の山刀まで持って行きやがった。許せねえ」
−いやあの、ミナシロを最後に仕留めたのは美川さんで、ついでに言うと庄蔵さんよりも前に弾を撃ちこんでますが。
「ちがう。ミナシロは俺のだ。誰が何と言おうと。ぐだぐだ言うな」
−あ…ええっと、あの、最後の雪山の場面なんですが、不安は感じませんでしたかね。
「どうしてだ。ずっと追いかけてきた獲物が待っているのに何を考える必要がある。それとも、おまえはせっかくのあの獲物──あの他所者を逃してもいいというのか」
−でも、あのクズリに襲われたときは大変だったでしょう。
「ミナシロに勝った俺が、あんな露助のクマごときに負けるものか」
−では、一番印象に残っている場面について教えてください。
「そうだな…。村を一つ壊滅させた場面かな。質屋とその妾を始末した場面も捨てがたいな。他にも……。あと、最後、あの他所者を狩ることができてれば文句なかったのに…あればっかりは悔やんでも悔やみきれん。あんな奴にやられるとは…」
−あの…。
「もういいだろう」
−最後に甲州ファンに何か一言お願いできますか。
「そろそろ俺のことを知らない奴や忘れてる奴も多くなってきているらしいな。覚えておけよ」

あとがき

 いつも書いてますが、この「読んだふり」くらいで本当に「読んだふり」をする場合は十分に気を付けてください。何かあっても責任は持てません。特に、庄蔵の魅力…というか迫力を味わうためにも、ぜひ「凍樹の森」を実際に入手して読破されることをおすすめします。中途半端に庄蔵を語ると、地獄の底からよみがえった彼が地の果てまで追ってくるかも知れませんよ。

*1 私は文庫のほうは未入手なのですが、どんな表紙でしょう…?

*2 「凍樹の森」の「あとがき」の参考文献にもあるように、デルスウ・ウザーラは実在の人物。黒澤明監督の「デルス・ウザーラ」を見たひとも少なくないはず。

*3 明石元二郎大佐(最終階級は大将)は実在の人物です。日露戦争の際に革命勢力に資金(いわゆる外交機密費)を投入し、ロシアを背後から攪乱した手腕は高く評価されています。最近では、例の外交機密費疑惑との関連で名前が上がったりしています。(明石大佐は潔癖な性格で、機密費を私的に使った疑いが持たれないように自宅の雨漏りすら修理しなかった、とかいう逸話があるらしい。それに比べて最近の外交官は…ということでしょうか)




●甲州研究編に戻る