人名録 - 遠き雪嶺


あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行


あ行

アブルッツィ公
 イタリアの登山家。
 極地における前進方法である極地法をはじめてヒマラヤに導入した。
アンツェリン
 立大山岳部ヒマラヤ登山隊が雇ったネパール人のシェルパ。
 高度に強く、偵察や荷揚げに活躍する。立大山岳部メンバーとともにナンダ・コート峰の初登頂に成功する。
池尾
 立教大学山岳部員。
 東北出身で二・二六事件をきっかけに部の活動から疎遠になる。後に大学をやめて郷土で社会事業に身を投じた。
石川欣一
 東京日々新聞論説委員。
 立大山岳部のヒマラヤ遠征計画に理解を示している。
逸見真雄
 立教大山岳部員。
 堀田とともに積雪期登山をはじめ、その後の立教大山岳部の方向性を決めた人物の一人。ヒマラヤ遠征隊の候補となっていたが、二人暮らしの母親に強く反対されて断念した。
伊藤愿
 京都帝国大旅行部の学生登山家。
 立教大山岳部も研究したバウアーの著書の邦訳を刊行した。
猪又
 カルカッタ在住の日本人。
 貿易斡旋所に勤務しており、立大ヒマラヤ遠征隊に家を提供する。
今西錦司
 京都大学山岳部員。
 日本の登山に最初に極地法を取り入れた。
今西寿雄
 浪速高校の登山家。
 昭和10年に槍ヶ岳北壁の初登攀に成功した。
浦松佐美太郎
 昭和6年日本山岳会第五十回小集会の講演者の一人。
海野治良
 御茶ノ水の登山道具店好日山荘の主人。
 立教大山岳部のヒマラヤ遠征の為の道具選定の相談に乗る。
榎本忠亮
 立教大学山岳部員。
奥平昌英
 立教大山岳部。山縣一雄と同学年。
 伯爵家の子息で人望と経済力を兼ね備えており、最上級となった昭和9年には全部員を纏め上げて全員参加の山行を成功させる。ヒマラヤ遠征にも積極的であったが、卒業後に結婚・就職してヒマラヤ遠征を断念し、愛用のカメラを山縣に託す。
奥平昌恭伯爵
 奥平昌英の父。参議院議員。
 息子のヒマラヤ遠征に猛反対した。
オデル
 ティルマン隊長とともにナンダデヴィ主峰に登頂した英米隊隊員。
小原勝郎
 立教大山岳部。
 昭和4年、酒井吉国とともに鳳凰山地蔵岳の第二登をはたす。

か行

加藤文太郎
 関西RCC所属の登山家。
 厳冬期バリエーションルートの開拓を競い合う。昭和11年槍ヶ岳北鎌尾根で消息を絶つ。
鹿子木員信
 大正十年頃、組織的で先鋭的な登山を実践した、慶應大学山岳部のリーダー。
小西
 早稲田大学山岳部。
 厳冬期の槍ヶ岳北壁の登攀に成功するが、その後天候が悪化し、二晩のビバークを経て1週間キレット小屋で過ごす。
小林丘
 立教大山岳部員。
 昭和5年12月、堀田斯波らとともに冬の白馬岳を横断する。

さ行

酒井吉国
 立教大山岳部。
 昭和4年鳳凰山地蔵岳の積雪期第二登を果たす。
左手信一郎
 立教大山岳部。
 昭和4年3月堀田らとともに積雪期登山を始める。
沢本辰男
 立教大山岳部員。
斯波悌一郎
 立教大山岳部員。
 昭和5年12月、堀田弥一とともに厳冬期の鹿島槍ヶ岳山頂に立つ。
清水龍三
 立教大山岳部員。
須賀幹夫
 立教大山岳部員。
 浜野より1学年年下。昭和9年に早月尾根からの剣岳初登頂に成功する。このとき同じく初登頂を目指していた竹節作太と初めて出会う。抜群の体力と行動力から「日本のマロリー」と称される実力者で、ヒマラヤ遠征でも活躍を期待されていたが、父・兄に反対されて断念した。
鈴木正彦
 立教大山岳部員。
 ヒマラヤ遠征で外務省との折衝を専任で担当していた。

た行

高橋是清
 立教大山岳部が遠征準備をしている時に起こった二・二六事件で殺害された蔵相。
竹節作太
 立教大ナンダコート遠征隊に随行した毎日新聞記者。元スキーのオリンピック日本代表選手。
 遠征費を自分で工面して毎日新聞の特派員として遠征隊に加わる。悪気は無いが、深く考えずに思ったこと口に出す性格。体力と高所順応能力に優れ、脱落したトップゲイの穴を埋める活躍をし、ナンダコートの登頂に成功する。
 戦後の昭和27年に行われたマナスル遠征にも報道班として加わる。
田島直人
 立教大山岳部のナンダコート遠征と同じ年に行われたベルリンオリンピックの三段跳びで優勝した選手。
田辺主計
 立教大学山岳部ヒマラヤ遠征に翻訳書の印税四百円を寄付した翻訳者。
辻荘一
 立教大学教授。
 立教大山岳部長でもあり、ナンダコート遠征を決定し、メンバーの選定を行った。
ティルマン
 ヒマラヤ英米隊の隊長。
 エベレスト第七次遠征では少数精鋭に徹し、第6次隊の1/5の予算で遠征を行った。日本隊のナンダコート遠征中に、ナンダコートよりも千メートル高いナンダデヴィ主峰の登頂に成功する。
トシヤ
 立教大ナンダコート遠征隊の人夫頭。
 キャラバンが終了した後はキャンプでワーカーの束ねをした。
トップゲイ
 立教大ナンダコート遠征隊のシェルパ。
 過去の遠征では七千メートルを越える地点まで登ったことのある経験豊富なシェルパだが、体調を壊して脱落する。

な行

中島雷二
 立教大山岳部員で浜野正男の同級生。あだ名は雷鳥。
 入部したてのころは北海道や台湾で独自の遠征を行っていたが、後に部の主力と行動をともにするようになる。ヒマラヤ遠征準備中に体調を崩し病床につく。ナンダコート遠征隊が登頂に成功して帰京した翌日に病没する。
中牟田
 立教大山岳部員。
 須賀とともに早月尾根からの剣山初登頂を目指したが、途中で脱落した。
中村英石
 今西寿雄とともに槍ヶ岳初登攀に成功した浪速高校生。
中山隆三
 立教大山岳部員。
西堀栄三郎
 京都大学山岳部。
 今西錦司とともに日本の登山に初めて極地法を取り入れた。
ヌルサン
 立教大ナンダコート遠征隊が雇ったシェルパ。
 過去に著名な登山家のシェルパを務め、バウアーの著書にも登場する経験豊富なシェルパ。小柄だが落ち着いた物腰で人夫たちを指揮した。
野々村
 在カルカッタ領事館副領事。
 カルカッタ滞在中のナンダコート遠征隊の面倒を見る。

は行

ハイム博士
 アルノルト・ハイム。スイス人地質学者。
 外国人の入国が禁じられているネパール領やチベットにまで足を踏み入れて地質調査をした帰り、アルモラで立教大ナンダコート遠征隊を訪ね同宿する。
バウアー
 昭和4年から6年にカンチェンジュンカの登頂を目指したドイツ・ババリア隊の隊長。
 著書に遠征の詳細な記録を残しており、立教大学山岳部のヒマラヤ遠征準備の為の研究対象となる。
長谷川伝次郎
 日本山岳会の登山家。
 大正14年からインドに長期留学をしヒマラヤを旅行した。昭和5年の日本での講演とその後の堀田との懇談が立大山岳部のヒマラヤ遠征の契機となる。
浜野正男
 立大山岳部ナンダコート遠征隊の最年少隊員。
 山岳部入部前はバスケットボール部に在籍していた。弁当屋の倅で仇名は「弁当」。キャラバン中、アンツェリンにヒンディ語とネパール語を教わる。
 ナンダコート初登頂に成功して帰国した後、昭和13年に入営、砲兵部隊の下士官としてガナルカナルに派兵されたが、九死に一生を得て帰国。戦後は大学山岳部の再生に尽力する。
林悌助
 三井銀行ボンベイ支店長で辻教授の遠縁。
 海外経験に乏しい山岳部学生の心強い味方となった。
ハリハラン
 東京在住のインド人で立教大山岳部のヒンディ語講師。
 温厚でいつも穏やかな微笑みを浮かべている。自国の言葉を習得したいという学生の意向を喜んでいる。
広瀬丈吉
 林悌助から紹介され、隊に同行することになる通訳。
 三十年近くインド社会に根を下ろしており、いずれ帰国することが前提で成り立っている邦人社会との関係をほとんど断っている。インドで暮らすうち「人を見たら泥棒と思え」が習い性になっており、山岳民族のシェルパとの付き合いには難がある。
藤木九三
 社会人登山団体RCCの創始者。
 立大山岳部のヒマラヤ遠征に否定的な意見を述べる。
ブルース将軍
 ヌルサンが過去にシェルパを務めたことのある登山家。
細川護立侯爵
 立大山岳部ヒマラヤ遠征に外務省とともに千円もの大口の寄付をする。
堀田弥一
 立教大ナンダコート遠征隊隊長。
 当時夏山登山中心だった立教大山岳部で積雪期登山をはじめて立教大の登山スタイルを確立する。ヒマラヤ遠征でも冷静な判断で隊を纏め上げ、ナンダコート峰初登頂に成功する。戦後の昭和29年には第二次マナスル遠征の隊長となるが、原住民の抵抗で失敗する。

ま行

前畑秀子
 立教大ナンダコート遠征隊と同じ年に行われたベルリンオリンピックで金メダルを取った水泳選手。
槙有恒
 組織的で先鋭的な登山を実践した慶應大学山岳部のリーダー。
松方三郎
 昭和6年日本山岳会の第五十回小集会の講演者。
マテルダス警部
 立教大ナンダコート遠征隊に同行する政府連絡官(リエゾンオフィサー)。
ママリー
 十九世紀待つのイギリス人登山家。
 ナンガ・パルバットで消息をたつ。
マロリー
 世界的に有名な登山家。
 エベレスト頂陵で消息を絶った。
水越誠一
 昭和4年12月赤石岳と悪沢岳の厳雪期初登攀を達成する。
村社講平
 立教大ナンダコート遠征隊と同じ年に行われたベルリンオリンピックで活躍した陸上長距離選手。
村田
 早稲田大学山岳部。
 厳冬期の槍ヶ岳北壁の登攀に成功するが、その後天候が悪化し、二晩のビバークを経て1週間キレット小屋で過ごす。
メルクル
 ナンガパルパットで登山活動を行っているドイツ隊の隊長。
 頂上に肉薄したが登頂は果たせず、下山途中の悪天候で遭難死する。

や行

山縣一雄
 立教大ナンダコート遠征隊の隊員。
 最上級となった昭和9年に本格的にヒマラヤ遠征計画を実施する。卒業後も院生として大学に残り、ヒマラヤ遠征に備えた。他のメンバーに先がけてカルカッタに渡る。
山本正成
 立教大山岳部で浜野正男の同級生。
 山縣一雄と1月の北岳の登頂に成功し、昭和11年には厳冬期の鹿島槍ヶ岳北壁に登頂する。
湯浅巌
 立教大ナンダコート遠征隊の隊員。
 浜野の1年上級。山行中に饅頭を隠し持っているのが見つかり、「饅頭」と仇名される。ナンダコート初登頂に成功して帰国した翌年、招集されて南京戦線で戦死する。
吉田
 関西大学山岳部。
 竹節とともに早月尾根からの槍ヶ岳初登頂をめざしたが途中で脱落する。

ら行

ラトゥシ
 ヌルサンが過去にシェルパを務めたことのある登山家。
ロングスタッフ
 1907年にメルスル峰に初登頂する。 ナンダコート試登に失敗した記録を、山縣が発見する。

わ行

渡辺漸
 昭和6年日本山岳会第五十回小集会の講演者。

●戻る